[演劇] ムワワド『森 フォレ』

[演劇] ムワワド『森 フォレ』 世田谷パブリックシアター 6月7日

(写真は俳優たちと人物相関図、この俳優たちが一人四役くらい演じて、8世代にわたる140年間の家族の愛憎が描かれる、登場人物の多さという点では、『失われた時を求めて』の演劇版かもしれない、休みを含めて3時間50分だったが、よく収まったと思う)

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『炎アンサンディ』『岸リトラル』に続く第3作目。最初の二作は「オイディプス」や「イリアス」などのギリシア悲劇と重ねられているが、『森フォレ』は「オレステイア」と重ねられている。アトレウス家一族の血で血を洗う憎しみと抗争が、生き残った最後の世代エレクトラオレステスの愛と和解によって終焉するのと同様に、1870年代に始まるドイツの軍需実業家ケレールー一族の八世代の子孫たちが、普仏戦争、第一次第二次大戦という三つの戦争とベルリンの壁を経て、最後の世代の20歳の女性ルーと彼女を助ける青年古生物学者ダグラスとの愛によって、憎しみの歴史が閉じられる。エレクトラと同様、憎しみと怒りだけが自己のアイデンティティであったルーが、死者たちとの応答を通じて、愛の主体としての女性へ成長してゆく。人間は、憎しみによって自らを破壊するが、生者と死者の倫理=「応答責任」(レヴィナス)を通じて、生者は死者から励まされ、自らを更生して生きてゆく。ムワワドの「約束の血」四部作は、憎悪と死の戦場を生きる我々人間たちの、愛の贈与、生命の贈与の物語なのだ。それは、『オレステイア』、『リア王』、ワーグナー『指環』、近松心中天網島』などが、みな根源的な悲劇であるように、憎しみと死によって押しつぶされてしまう人間は、もがき苦しみながらも、ギリギリの地点で踏みとどまり、愛に希望を託して、否定を肯定に転化させる。有限な生を生きる我々において、愛は、受容されたり拒絶されたりしながら変容し、変容しながらも、木霊のように他者の愛に反映し、伝染し、生きながらえてゆく。

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(写真↑は左から、ルー、ダグラス、リュス、リュディヴィーヌ、サラ)
8世代の家族の歴史ということになっているが、しかし本作の家族は、一番肝心なところで血が繋がっていない。フランスのレジスタンスの同士であり親友のサラとリュディヴィーヌ(フランス語で「光の女神」)は、ゲシュタポに捕まる寸前、身分証明書の写真を張り替え、サラは生き延びるが、リュディヴィーヌは捕まりアウシュビッツで殺される。しかしサラの産んだばかりの赤ん坊は、あるパイロットに託され、カナダに渡り、それがルーの祖母リュスである。リュディヴィーヌはケレールー一族の末裔だが、サラは彼女の親友ではあっても、血の繋がりがはない。リュスはリュディヴィーヌの子と思われていたが、最後に、血の繋がりはないことが明らかになる。ゲシュタポに追われたサラとリュディヴィーヌの写真交換の場面は、本作のクライマックスである。リュディヴィーヌは自ら死ぬことによってサラに愛を贈与し、それはサラの子が生き延びるという点で、生命の贈与でもある。つまり、血の繋がりのないリュディヴィーヌとサラの間で、生命が贈与されるのだ。男女の性愛だけが生命を生み出すのではなく、女性同士の友愛も生命を生み出す。ムワワドの四部作「約束と血」における「約束」とは、「愛の贈与」のことである。リュディヴィーヌは男性器と女性器の両方があるインターセックスなので、子を産むことはできない。だが彼女はサラとの友愛によって、愛と生命を贈与している。ゲシュタポが迫る緊迫した状況での、リュディヴィーヌ/サラのやり取りは、本当に崇高で、私は涙が溢れた。そして、『心中天網島』のおさん/小春を思い出した。生が死と逼迫するギリギリの状況においては、愛が主体として前景化するのは、やはり女性なのだと思う。

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演劇は、さまざまな主題を表現できるが、なかには神話化しなければ表現できない、リアリズムだけでは表現できないテーマもある。それは本作の人名からも分る、すなわち、ルー(狼)、エメ(愛される者)、リュス(光)、リュディヴィーヌ(光の女神)、サラ(アブラハムの妻)etc。タイトルは「森フォレ」、すなわちベルギー南部に実在する「アルデンヌの森」も、神話としての表象だ。そこには動物たちが人間とともに住んでいるが、この「森」は、人間における「性」の暗い契機、動物的側面の暗喩なのだろう。本作は、それぞれの幕の副題を見ても、「エメの脳」=エメの子宮から胎児が脳に移動した脳腫瘍、歯をすべて折られた「リュスの顎」、インターセックスである「リュディヴィーヌの性器」、不倫の子を宿す「オデットの腹」など、おどろおどろしい肉体性がタイトルになっている。これはたぶん、「森」が人間の「性」の動物性を暗喩しているように、愛の贈与、生命の贈与も、おどろおどろしい肉体性を介さなければ実現しないということだろう。おどろおどろしい肉体性の中から、このうえなく崇高な愛が立ち現れる。これこそが、人間という動物の最終真理なのではないだろうか。本作には、リアリズムの会話をしていた人物たちが、とつぜん詩をゆっくり口ずさむように発話するシーンが幾つもあるが、このようなシニフィアンの転調も、真理の顕現なのではないだろうか。あと前二作と同様「森」においても、なぜか女たちは男たちに比べて存在感が強い。舞台の俳優は皆すばらしいが、文学座の栗田桃子は、『炎アンサンディ』のジャンヌ、『岸リトラル』のジョゼフィーヌ、『森フォレ』のエメと、最重要の女性をずっと演じている。『森フォレ』では、現代版エレクトラのルーが目立けれど、その存在そのものに強い衝撃感があるという点では、エメ(フランス語の「愛される人」)には及ばない。おそらくジャンヌもジョゼフィーヌもエメも、アンティゴネやコーディリアやコンスタンス修道女のような、神話的女性=「愛のアレゴリー」なのだろうが、少年のような少女の面影をもつ栗田桃子は非常に適役だ。リュディヴィーヌを演じた松岡依都美もそうだが、「愛のアレゴリー」は、アフロディーテのような官能的な美女ではなく、少年のような少女のような中性的な女性性なのかもしれない。誰がやっても出来る役ではなく、私が知っている僅かな女優でいえば、たとえば伊東沙保がやってもよいのではないかとも思った。

 2分間の動画が。

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