[演劇] 安部公房原作・ケラ脚本『砂の女』

[演劇] 安部公房原作・ケラ脚本『砂の女』 ケムリ研究室公演 シアター・トラム 8月27日

(写真は舞台↓ 砂の穴に落ちた男[仲村トオル]と砂の穴に住む謎の女[緒川たまき])

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実験的・前衛的演劇を試みるために、劇作家演出家ケラと俳優緒川たまきの二人が作ったユニットが「ケムリ研究室」で、その第二弾。ケラはこれまでもマジック・リアリズム風の演劇を作ってきた人なので、安部公房の傑作小説『砂の女』を演劇化したのは理解できる。小説『砂の女』は、安部を一時ノーベル文学賞候補にさせた名作だが、主題の見事さだけでなく、その文体こそが内容の表現を可能にしている作品なので、演劇化は難しいようにも思われた。しかし、安部の脚本で勅使河原宏が監督した映画版は、映画として素晴らしいものだったから、当然、演劇にもできるはずだ。カフカの小説が演劇化に向いているように、実は20世紀の演劇は、多かれ少なかれ不条理劇化している。

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チェホフから演劇が不条理劇化したと私は考えているが、不条理劇がそれ以前の演劇と違うところは、人と人とは究極的に互いに理解し合えない存在だとみなして、それを前提に、そこから出発して物語を作る点にある。そのように見れば、今回の舞台は大成功で、まさに不条理劇としてのストレート・プレイになっている。「砂の女」は最後まで謎の女でありつづけ、砂の穴の中に一緒に住むようになった男も、観客の我々も、彼女がどういう女なのか、何を考えているのか理解できない。穴から逃げ出すことはいくらでもできそうなのに、彼女はなぜそうしないのだろうか。しかし、この「砂の穴」は一種のメタファーであり、極限状況という点ではシュールだけれど、実は我々の現実世界にたくさんある、リアルな「穴」なのではないか。

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原作『砂の女』では、穴の中で暮らすうちに、男の意志に反して、男と女の間に不思議な「絆」が生まれるのだが、それが「愛」であることは仄めかされるだけで、明確には書かれていない。しかし、ケラの演劇版は、原作にない場面を幾つも作って、そこを前景化している。原作では「愛」について示唆されているのは、最後に、女は、子宮外妊娠の疑いで入院のため穴から吊り上げられていくが、吊り上げられながら「[自分の]視線が届かなくなるまで、涙と目ヤニでほとんど見えなくなった目を、訴えるように男にそそいでいた。男は見えないふりをして、目をそむけた」(p264)、とあるだけである。こんなに微妙な状況は演劇では表現できない代わりに、舞台では、男は残された縄梯子に気づいたあと、うずくまって激しく号泣する。『砂の女』とは、砂をかむどころか、砂に埋まってしまうような荒涼とした人間の世界に、ほんのかすかな、しかし明らかな生の希望である「愛」が生まれる「愛の物語」なのだ。私はベケットの『幸せな日々』を思い出した。ケラがプログラムノートで言っているように、男を演じた仲村トオルは映画版の岡田英治より「断然いい」。女を演じた緒川たまきも、謎の女の不思議な色気がよく表現されていたが、映画版の岸田今日子があまりにも素晴らしかったので、夫のケラもさすがに「岸田今日子より断然いい」とは言わないだろう。

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