[演劇] 秋元松代『近松心中物語』

[演劇] 秋元松代近松心中物語』 KAAT 9月9日

(写真は舞台、そして古道具屋の与兵衛[松田龍平]とお亀[石川静河])

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私は初見だが、蜷川幸雄演出で上演1000回を超えた名作と言われ、今回は長塚圭史演出。まぁ、それなりに面白くはあったが、近松の原作に比べると、感動が少ない。本作は、近松『冥途の飛脚』に他の作品を組み合わせて、飛脚問屋の忠兵衛[田中哲司]と遊女の梅川[笹本玲奈]、そして古道具屋の夫婦の与兵衛とお亀という、二組の男女の恋愛と心中を並行的に描く。男は二人とも婿養子で性格の弱いダメ男であるが、梅川は凛として愛の主体を生きる女、お亀は純情で惚れっぽい箱入り娘。与兵衛は最後、メソメソして心中に失敗する。要するに、女はそれぞれ立派に女の生をまっとうするのに対して、男というものは意志が弱く、その「男らしさ」も見せかけで薄っぺらい。これが近松の主題。しかし秋元版では、梅川・忠兵衛の悲劇と、お亀/与兵衛の喜劇とを同時並行させたので、全体のコンセプトが曖昧なったように感じる。(写真↓は、忠兵衛が梅川に一目惚れするシーン)

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秋元版の問題は、忠兵衛の人物造形があいまいなことだ。原作では、彼が飛脚問屋(=現代の送金業、銀行のようなもの)であるがゆえに、彼が金に困って客の金をくすねようとしては失敗するシーンが強調される。しかし秋元版では、彼が金を盗むのは梅川への愛のためで、お大尽の身請けに張り合って梅川を身請けしようとして、「この忠兵衛が女に達(たて)引かせて、男の一分が捨てられようか。なんのこれしきのこと、何ともないわい!」と叫んで、盗んだ三百両をばらまくシーンがある。でもこれは「愛」なのだろうか? たんなる虚勢ではないのか。梅川は、この修羅場に及んでも、「取り返しのつかんことをして下さんした。・・私を身請けすることと、[客の金を盗むという]この見苦しいことが、引き換えになりますかいの、あなたのお身はどうなりますのや」と冷静な判断力を失わない。批評家の山本健一は、梅川・忠兵衛の恋はロミオとジュリエットのような純愛の疾走劇だと述べているが、私にはそうは思えない。秋元は戯曲の自註で、近松原作の忠兵衛は「一篇の劇の主役としては脆弱なので、新しく私の創作を加えた性格を与えた」と書いているが、これが成功したとは思えない。(写真↓は忠兵衛と梅川)

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一方で与兵衛・お亀の恋は、喜劇としてうまくできている。とにかく、与兵衛のまったく頼りにならない、「ふわっとした感じ」を松田龍平は見事に演じている(写真↓)。お亀も、「私たちがこの蜆川で心中すれば、近松門左衛門さんが、曽根崎心中みたいに、私たちの物語も浄瑠璃にしてくれるわよね!」なんて妄想しているところが、とてもおかしい。だから、二人の心中(与兵衛は逃げて助かったしまう)はぜんぜん悲劇になっていない。秋元版が悲劇と喜劇を平行させたのは、やや無理があったのではないか。役としては、丹波屋八右衛門を演じた石倉三郎が素晴らしい。秋元の人物造形も上手いが、八右衛門はまさにこんな人間に違いないと心底納得がいく。

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