[演劇] デュレンマット『物理学者たち』

[演劇] デュレンマット『物理学者たち』 ノゾエ征爾演出 本多劇場 9月25日

(写真は舞台、サナトリウムだが実質は精神病院、天才物理学者メービウスと、それぞれニュートンアインシュタインの振りをしている某国の敏腕スパイ二人とが、すなわち三人の「患者」が、それぞれ看護婦を一人ずつ殺してしまう、バイオリン男は偽アインシュタイン)

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デュレンマットの代表作だが私は初見。戯曲を熟読してから見たのだが、演劇というのはやはり、舞台を見なければ、こんな素晴らしい作品なのだということが分らない。会話の科白が絶妙なのは戯曲だけでもよく分かるのだが、この作品のポイントは、登場人物(それもニュートンアインシュタインのような第一級の知性的人物)が「狂気を装う」ことにあるから、ほとんどの科白が正気と狂気のぎりぎりの境界線上で発話されている。だからその緊張感は、戯曲のエクリチュールからではなく、俳優のパロールによってしか表現できない。本作の凄いところは、演劇としてほぼ完璧な構成、そして悲劇と喜劇の完全な融合、反転=「どんでん返し」があまりにも見事なことである。最後の最後になって、もっとも冷静な知性の人に見えた精神科医サナトリウム院長の老嬢マチルデだけが本物の狂人であり、あとはすべて狂気を装っているとことん正気な人物だったことが分る。しかも、本物の狂人マチルデは、三人の物理学者に自分の秘密を語る一瞬を除いては、まったく狂人には見えない。彼女は、精神科医であると同時に、メービウスが発見した物理学の新理論を使って、今までは夢だった新しい技術を現実化し、新製品を製造する天才的な企業家でもあることが最後に分る。終幕、彼女は会社の重役たちを招集した経営会議のために部屋を出ていく。たぶんここが、デュレンマットがもっとも言いたかったことなのだ。この作品は、キューバ危機の直後、米ソの核戦争の危機が現実にあったときに書かれた。つまり、核戦争のボタンを押す政治家が、まったく狂人には見えないこともありうると警告しているのだろう。狂気と正気の境界は、我々人類にとってそれほど困難な問題なのだ。それにしても、三人の物理学者を演じた男優だけでなく、マチルデを演じた草刈民代の名演には舌を巻いた。(写真下↓)

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終幕は原作とちょっと変えている。原作では、マチルデが出て行った後、三人の「物理学者」の自己紹介で終わるのだが、本作はその後に、メービウスの離婚した妻と子供たち、再婚相手の宣教師が登場して、元妻は「こんな辛い現実は、ユーモアがなければ目を開いて見ていることはできませんよねぇ」とにっこり笑いながら言う。こうして、悲劇と喜劇は最終的に融合される。(写真は↓違う場面だが、三人の子供たちと、元妻、新しい夫の宣教師[演出のノゾエ征爾が演じている])

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