[オペラ] ロッシーニ《チェネレントラ》

[オペラ] ロッシーニチェネレントラ》 新国立劇場 10月13日

(写真は舞台、上は舞踏会で偽王子(中央の白ガウン)に媚びる二人の姉(左側の緑と赤の服)、下は中央がチェネレントラ、エプロン姿の女中として姉二人の衣装を持たされている、そして継父と戦う彼女)

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粟國淳演出、美術・衣装A.チャンマルーギ、チェネレントラ:脇園彩、王子ラミーノ:R.ベルベラなど。私は初見だが、こんなに素晴らしい作品とは知らず、今まで知らなかったことを後悔した。「シンデレラ物語」ではあるが、ディズニーの「シンデレラ」などとは全然違う。チェネレントラ(=シンデレラ)は、白馬に乗った王子様を待つ受動的な女性ではなく、自ら愛を勝ち取りに行く戦う女、「愛の主体」である女として描かれている。チェネレントラは、究極の女性性としてのヒロインであり、アンティゴネ、コーディリア、コンスタンス修道女、『フィガロ』のスザンナなどと同系列のヒロインである。しかも、「愛の贈与」によって自らは死ぬ最初の三人とは違い、「愛の贈与」によって理想の結婚を達成するスザンナのように、より望ましいヒロインと言える。「シンデレラ譚」は2500年前の古代エジプトが端緒であり、その後全世界に伝わり700~800個の民話として伝承されてきた。日本にも10世紀以前に伝わり、「糠福と米福」「落窪物語」として残されている。ペロー童話集やグリム童話集の「シンデレラ」はあくまでその一つにすぎない。「シンデレラ譚」が2500年かけて全世界に広まったのは、主題の普遍性ゆえであり、男女の偶然の出会いである愛の可能態が、さまざまな障害を克服して、結婚という現実態に転化すること、すなわち偶然を必然に引き寄せようともがく人間の生の根源を描いているからである。私はこれから調べてみるつもりだが、もしほぼすべての「シンデレラ譚」のシンデレラが受動的な女性なのであれば、このロッシーニ版『チェネレントラ』は、シンデレラを「愛の主体」として描き直す画期的な芸術作品ということになる。本作の肝は、多くの「シンデレラ譚」と違って、「魔法」が一切登場しないことである。魔法使いもカボチャの馬車もガラスの靴も登場しない。王子の他に偽王子が存在し、姉二人は偽王子に媚びるだけだが、チェネレントラは侍従に変装している王子に自分から愛を告白し、自分の腕輪を渡してこう言う、「私が誰だか知りたかったら、この腕輪の片方を持つ私を探してほしい、そしてもし貴方が現実の私を見て幻滅しなければ(=現実の彼女は女中のような生活をしているから)、私と結婚してほしい」。こう言ってチェネレントラは宮殿の舞踏会からさっそうと出ていく。(写真↓は偽王子、一番右端の黒服が、侍従に変装している本物の王子)

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チェネレントラは自ら「愛の主体」として侍従に愛を告白するのだが、彼が本物の王子であったことを知るのはしばらく後である。彼女は、姉たちのように地位や権力や金ゆえに一人の男を愛するのではなく、彼を好きになったがゆえに彼を愛する。しかも、「愛の客体」として彼に愛されることを懇願するのではなく、「愛の主体」として彼を愛する。男女の愛が、どちらかの上から目線ではなく(どちらか一方が相手を獲物として掴まえるのではなく)、二人の間に権力関係がない愛であること、これが真実の愛、真実の結婚である。粟國演出のこの上演では、魔法がない代わりに、映画の女優採用のオーディションとして『シンデレラ』の映画撮影というメタ設定になっており、フェリーニの『81/2』のような祝祭性を表現している。そして、映画撮影あるいはCGの使用ゆえだろうか、私には、二人の愛が成就する瞬間がコスモロジーとして表現されているように感じられた。全宇宙が二人の愛を祝福する「永遠の今」が現出している。(写真↓)

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動画もありました。

https://www.nntt.jac.go.jp/opera/lacenerentola/