[演劇] フリッツ・カーター『愛するとき 死するとき』

[演劇] フリッツ・カーター『愛するとき 死するとき』 小山ゆうな訳・台本・演出 シアタートラム 11月25日

(写真は舞台↓、シンプルでスタイリッシュで美しい、光る棒はベルリンの壁を表わしているらしいが、私には分からなかった、手前は東独、後方は西ベルリンの壁前で行われたデイヴィド・ボウイの演奏会か)

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今まで私が一度も見たことのない演劇表現に、とても驚いた。結果として深い感動があったので、舞台は成功したのだと思う。演劇というよりは、小説が眼前に視覚化されているような気がした。通常の演劇では、ギリシア悲劇のコロスなど、語り手も登場してよいのだが、舞台のそれぞれの役の科白以外のナレーションは、いわば例外だ。それに対して小説は、必ず語り手がいて、語り手の地の文によって物語が進む。ところが、本作は、役者が自分の科白を語る部分よりも、ナレーターとしてメタレベルから語る部分の方が多い。役者が次々に交替で「彼は出所してきました」「彼女は疲れて寝込んでしまった」等々と語り、物語を進めてゆく。特に第3部はほとんどがこうしたナレーション。つまり小説の地の文を役者に割り振って語らせている。これは非常に珍しい手法だ。写真下↓のように、役者はマイクを持っているが、自分の役の科白を語るのではなく、ナレーターとして解説したり、歌を歌ったりする。

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しかしながら、この手法は、この劇の主題にはふさわしいのかもしれない。というのは、本作は、東ドイツの抑圧的な体制を告発するという単純なものではなく、むしろ、東ドイツが崩壊して西ドイツに統合されたことが、若者の個人生活、具体的には恋愛関係に大きな傷を負わせた、というのが主題である。東の若者にとって、ベルリンの壁の崩壊は、自分たちが自由になるという大きな喜びであったはずだが、結果はかなり失望させるものであった、というのが第3部の主旨である。こんなに微妙で複雑な主題は、やはりナレーションというか、小説的技法でなければ表現できないのかもしれない。

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私自身は、ベルリンの壁崩壊の1989年には38歳で、ちょうど日本に留学中のドイツ人大学院生たちが周囲にいて、彼らと東独崩壊についてずいぶん議論した。前後の状況についてもかなり知っているので、無理なく劇についていけて、非常に感動した。また第一部は、やはり崩壊前のソ連の若者を撮った映画ともよく似ていた。しかし当時のことを知らない人が、この劇を当時のコンテクストに置きながら観るのはなかなか難しいかもしれない。幸いプログラムが充実しており、そこに書かれていることを事前に読めば、かなり分る。私の疑問の一つは、第2部が分かりにくいことだ。第1部は1979年と明示され、第3部は崩壊後である。しかし第2部は崩壊前の話だから、1979年以降だとすれば、間は10年しかない。だから、第1部で生まれた赤ん坊がティーンエイジャーになっているという話ではない。つまり、第1部と第2部はまったく別の人の話になるが、俳優は同じだから混乱する。とはいえ、そういう時空的混乱にもかかわらず、崩壊前も崩壊後も、東独の若者たちの恋愛が引き裂かれている悲しい状況は、とてもよく分かる。だから、この上演は、大きな実験的試みではあるが、成功したと言えるだろう。

動画がありました。

https://www.youtube.com/watch?v=Z3yxV7ftus4