[演劇] テネシー・ウィリアムズ 『ガラスの動物園』

[演劇] テネシー・ウィリアムズガラスの動物園』 シアター・クリエ 12月16日

(写真は、左から友人ジム[樫山隼太]、姉ローラ[倉科カナ]、弟トム[岡田将生]、母アマンダ[麻実れい]、原作のローラは地味系の女性なので、倉科の印象はだいぶ違うが、ローラは人生でただ一度だけ「きみは美しい!」とジムから言われ、それがこの劇のクライマックスなのだから、配役はこれでよいのかもしれない)

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ガラスの動物園』は、『かもめ』『三人姉妹』などとともに、私のもっとも好きな演劇作品の一つなので、これまでも繰返し観てきた。この上村聡史演出は、アマンダの振る舞いが少し大げさすぎる他は、非常によかった。少なくともジムがまずかったジャンヌトー演出よりはよい。この作品は、戯曲の詳細なト書きが舞台の細部を指定するので、演出家の工夫の余地は少ないのだが、私は、二人の青年がたやすく口にするアメリカンドリームの科白をを抑制的にすることが必要と考えている。というのも、第7場のジムとローラの二人の邂逅が、これほどにも美しく、切なく、悲しいことは、他のどんな演劇作品にもめったに見られないと感じるからである。そのためには、アメリカンドリームや自己啓発俗流心理学ふうの科白にもかかわらず、ジムを繊細な青年に、閉ざされていたローラの心を開かせる優しい青年にしなければならない。今までの数多くの『ガラスの動物園』では、ジムに今一つ納得できなかったが、この上村聡史版は、ジムの造形が非常によかった。(写真↓はローラとトム、ローラは可愛いすぎて姉には見えない、妹に見えてしまう)

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今回は、科白の細部が胸を刺すような痛みに満ちていることにあらためて気が付いた。二つ挙げてみると、まず、ローラはハイスクール時代にジムに「ブルーローズ(Blue Rose青いバラ)」と呼ばれていたが、テネシー・ウィリアムズ自身の2歳上の姉が「ローズ」という名であるだけではない。「青いバラ」は2004年にサントリー研究所が開発するまでは、この世に存在せず、英語で「Blue Rose」といえば「不可能(存在しないもの)」という意味があった。だからジムがローラを「ブルーローズ」と呼んだのは、ローラが「プルーローシス(胸膜炎)にかかった」と言ったのをジムが「ブルーローズ」と聞き違えことになっているが、それだけではないのだ。「ブルーローズ」には「存在感の薄いなにか」(ローラは高校でもっとも存在感の薄い生徒だった)という意味があり、科学の勉強もしているジムはそれを知っているが、たぶんローラは知らない。科白はこうなっている、ジム「[ブルーローズと君を呼んで]気を悪くしなかった?」、ローラ「とんでもない ― 嬉しかったわ。だって私、あんまりお友だちも、いなかったし・・・」、ジム「そう言えばいつもひとりぼっちでいたね」(小田島訳、新潮文庫、p129)。孤独なローラは、ジムにニックネームで呼んでもらえるだけで、もう嬉しくて、舞い上がってしまっていたのだ。(↓ジムとローラ)

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もう一つ、重要な科白がある。ジムとローラがダンスをして、ジムが躓いたとき、ガラス製の小さなユニコーンにぶつかって、その角を折ってしまった。謝るジムに、ローラは言う、「(微笑んで)手術を受けたと思うことにするわ。角を取ってもらって、この子もやっと普通[の馬]になれたと思っているでしょう!」p146。この「手術」とは何だろうか? 間違いなく、テネシー・ウィリアムズの姉のローズが、ロボトミー(脳の前頭葉削除)手術を受けさせられて、ほとんど廃人のようになってしまった、あの「手術」のことである。ユニコーンの角が一本折れるとは、姉の前頭葉が削除されたことの隠喩であろう。そしておそらく姉は手術の意味がよく分らず、「手術を受けてよかったわ」というようなことを作者に言ったのだろう。その後ロボトミー手術は危険なことが分りすぐ廃止されたので、姉ローズは医学のわずかな空白期間の犠牲者だった。テネシー・ウィリアムズは自分と姉との関係について、こう書いている、「ある慧眼な批評家は、私の作品の真のテーマは<近親相姦>だと述べた、・・・私と姉は、過去も現在も変わることなく、一生に二つとない深い愛情で結ばれているし、たぶん私たちが家族外の交際を避けよう避けようとしていたことも、それと大いに関係あるだろう」(『テネシー・ウィリアムズ回想録』p204)。『ガラスの動物園』は、テネシー・ウィリアムズ自身の姉への愛と贖罪の作品なのである。(写真↓は、食前の祈りをする三人、家族といっても互いに孤独なのだ)

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それにしても、第7場のジムとローラの邂逅の 30分くらいのシーンは、何と美しいのだろう!引き籠り少女だったローラは、最初は怯えていたが、ジムにどんどん心を開いてゆき、表情が輝き、明るく会話できるようになる。向いのダンスホールから聞こえてくるワルツの音楽を頼りに、二人でワルツを踊るローラは何と嬉しそうなのだろう!テネシー・ウィリアムズは第7場の冒頭に、こうト書きしている。「ここは、実はローラにとってはそのひそやかな人生のクライマックスなのである」p122。具体的に言えば、ここはローラにとって、人生でただ一回だけの男性との邂逅であり、ただ一回だけの愛の経験である。彼はローラを励ますつもりで、ダンスの後、一回キスをしてしまう。ト書きは、「音楽が高まる。彼は突然彼女のからだを回して唇にキスする。彼が手を放すと、ローラは輝くような恍惚とした顔をしてソファーに身を沈める」p150。だが、ジムにはすでに婚約者がおり、そのことを知らないトムが彼を連れてきたことが、この邂逅の偶然性のすべてである。その偶然性を二人は期せずして必然性の側に引き寄せようとした。九鬼周造の言う「永遠の今が鼓動する」瞬間である。だがそれは愛に現出するほんの一瞬の「永遠の今」であった。一生に一度だけのローラの「輝くような恍惚」。彼女はたぶんその後の一生を引き籠りで過ごすことになるだろう、作者の姉のローズのように。ローズは1995年に私立サナトリウムで86才の人生を終えた。