[演劇] 太田省吾『水の駅』 さいたまゴールド・シアター

[演劇] 太田省吾『水の駅』 さいたまゴールド・シアター最終公演 さいたま芸術劇場  12月26日

(写真は舞台、水飲み場は、砂漠で疲れ果てた旅人がオアシスを見つけたように、人を癒す、少女が水を飲む姿は祈りにみえる、洗濯物を旗のように掲げてやってくる人々もいる、水飲み場には、人が生きることのすべてがある)

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f:id:charis:20211227082527j:plain2019年に杉原邦生演出で見たが、今回も同じ杉原演出。前回も良かったが、しかし、80才代中心の「さいたまゴールド・シアター」の役者がやると、この作品がさらに感動的なものになった。私は30年間、たくさん演劇を見続けてきたが、感動の深さという点ではベスト5に入る。最終日のせいもあるが、最後のスタンディングオベイションは私が初めて経験するもので、総立ちの観客は皆泣いていた。(↓は、終幕、水飲み場先行者たちが残した物を拾って歩くクズ屋の老人、地球という星に生きる人間の環境を浄化する振る舞いか)

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『水の駅』は科白が一切ない無言劇だが、太田の戯曲(ト書きのみ、わずか20頁)に対して、杉原演出は、登場人物を変えている。たとえば、水飲み場で自殺?する「ハイヒールを履いた老婆」(原作)は、2019年版ではLGBTの中年の男性僧侶に、今回は若い女性になっている↓。担いできた大きな箱(原作では籠)に入って息絶えるのだが、この変更は大きな意味をもっている。ゴールドシアター以外から一人だけあえて若い女性をキャスティングしたのも、他の老人たちがほぼ人生をまっとうするのに対して、若い時点で死ぬ人もいることを明示したいからだろう。あるいはコロナ禍で女性の自殺が増えたことを暗示しているのか。

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原作にない変更として、レズビアンの女性たちが愛を交わす場面があり、これは素晴らしいものだった↓。二人がそれぞれまず水道の水で、自分の頭を濡らすシーンは、ヨハネの洗礼のように感じられた。そう、我々の生命が、愛が、祝福されているのだ。

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我々の多くは、生きにくい人生を、地べたを這うようにして生きている。苦しみの方が多いけれど、しかしそれなりに喜びもある人生を、かろうじてまっとうし、そして死んでゆく。こうした「我々の生を肯定し、祝福し、完成する」のが(ニーチェの芸術の定義、『力への意志』)、『水の駅』なのだ。太田は戯曲で、「劇の基本テンポは、2メートルを5分で歩く」(p235)と指示しているが、舞台の人の動きはもう少し早い。杉原は「2メートルを2分」と指示したらしい。なぜこのようなスローモーションなのかといえば、無言劇ゆえ言葉がない代償として、身体の遅い動きで感情を表現しなければならないからだ、言葉が少ない能では人の動きが遅いように。水飲み場にやってくる人々はすべて、少なくとも一回は、叫ぶように大きく口を開ける。この無言の「叫び」は、苦しみでもあり、喜びでもある↓。

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無言劇『水の駅』は音楽がすばらしい。サティ「ジムノペティ」とアルビノーニオーボエ協奏曲」だけだが、この組み合わせがいい。前者は、我々の心に少し距離を取りながら語りかける言葉のような趣があり、後者は、心の真っ芯に直接降りてくる恩寵のような趣がある。洗濯物を旗のように掲げて人々がやってくるとき初めて鳴るアルビノーニの音楽は讃美歌のように聞こえた(今回も、戯曲のト書きでも、そこで初めてアルビノーニが鳴るのだが、しかし初演の頃は少し違ったのかもしれない↓)。人々が生きるゆっくりした身体の動き、人間という存在は何と美しいのだろう! 人々が老人であればこそ、その思いは一層強まる。『水の駅』は、「我々の生を肯定し、祝福し、完成する」という芸術のボールの真っ芯を打ち返す作品だ。『心中天網島』などと同様、世界演劇史を画する傑作であり、おそらく数百年後も世界中で上演されるだろう。

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1986年上演の映像がありました↓。ただし全体が1時間17分なので、一部カットされていると思われます。

https://www.youtube.com/watch?v=p8J8hGAZ5ow