[演劇] D.L.アベアー『ラビット・ホール』

[演劇] D.L.アベアー『ラビット・ホール』 横浜KAAT 2月24日

(写真↓で上にあるのは、4歳で死んだ息子の子供部屋)

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アベアーが2005年に書いた戯曲は、映画にもなっている作品で、この上演は小山ゆうな演出。4歳の息子が自宅前で車にはねられて死んだ、若い夫婦の悲しみと苦しみを描く。従来よくあるアメリカの家族劇と共通する要素もあるが、しかし新しい展開を感じる。家族が激しい感情をぶつけ合うのはアメリカ家族劇の定番だが、本作は、かなり静かな展開で、大声で怒鳴るのは、登場人物がそれぞれ一回くらいだと思う。また、若い夫婦の母は登場するが父は登場しない。そして若い夫は、まったく家父長的ではなく、繊細で物静かな若者だ。本作の主題は、若い夫婦が息子を失った悲しみを、皆が共有しようとするのだが、それはなかなかうまくいかない、感情の共有は非常に難しい、ということだ。フロイトが「喪」論文で、残された人が喪を生きることはとても難しいと述べたことが、演劇化されているともいえる。(写真は、左から、夫、妻、その妹、姉妹の母)

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夫は妻の、妻は夫の、妹は姉の、母は娘の、その悲しみを共有しようと一生懸命なのだが、それがうまくいかない。四人とも怒りを露わにするけれど、根は非常に優しい人物だ。彼らの繊細で微妙な感情をとても丁寧に描き、その感情に優しく寄り添っているのが、本作を優れた作品にしている。篠崎絵里子の上演台本も、小山ゆうなの演出も、繊細な感情に優しく寄り添っている。あえて言えば、この四人の言動と感情はとてもよく分ったのだが、車で息子をはねた高校3年生のジェイソンの人物造形が、私にはよく分らなかった。彼は謝罪するために夫婦に会いに来たのだけれど、実際に彼が言ったことからは、息子をはねて結果として殺してしまったことに対する自己認識がよく分らない。「速度制限は30マイルなのだが、自分は33マイルか32マイルで走っていた可能性がある」と彼は言う。「40 マイル以上」とかなら分るが、「33、32マイル」なら僅かの差だ。そして驚くべきことに、パラレルワールド=可能世界を持ちだし、「息子をはねていなかった可能世界」があるはずだ、と言う。「ラビット・ホール」というタイトルはおそらく「ワーム・ホール」(=リンゴの虫食い穴)理論、すなわち相対性理論を利用したタイムトラベルで異世界へ行く話をもじったのだと思う。しかし、ジェイソンが妻にこの「ワーム・ホール」の話をすることが↓、作品全体の中でどういう意味をもつのか分らなかった。「可能世界」は慰めや謝罪になるのだろうか?

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あと一つ、本作は科白の日本語も素晴らしいのだが、しかしそうであればあるほど、かすかな違和感が残った。それは、ほとんどすべての発言が、他者の感情を先取りして言語化するものになっていて、日本人だったらこういう会話はしないだろうし、まして喪の期間中ならばしないだろう、と思うからだ。登場人物は誰もが、相手の顔をじっと見つめながら、「今、こう感じているんでしょ」「言わなくても、顔に出ている」「ちがう、ちがう」「私そんなこと言ってない」という発言が繰り返しなされる。そして、会話はどんどん捻じれに捻じれていく。でも、他者の心中はそう簡単に分らないはずだから、日本人ならこういう発言はあまりしないのではないか。しかし、アメリカ人は実際にするのだろう。つまり、自分や他者の感情をどこまで言語化するかという点で、日本人はアメリカ人とやや違うのかもしれない。とはいえ、本作の最後はすばらしい。のしかかっていた重い感情のくびきが取れて、心が自由になり、夫婦は前向きに生きていけるようになった。喪が明けたのだ。俳優は、母を演じた木野花、妹を演じた占部房子が特によかった。そして小山演出はいつもそうだが、舞台全体がシンプルでスタイリッシュで美しい。

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