[演劇] 野田秀樹『パンドラの鐘』 杉原邦生演出

[演劇] 野田秀樹パンドラの鐘』 杉原邦生演出 コクーン 6月24日

(写真は↓終幕近く、パンドラの鐘の下に立つミズオ(成田凌)とヒメ女(葵わかな)、この直後、ヒメ女は自らの意志で鐘の中に閉じ込められ、死ぬ)

1999年に世田谷パブリックシアターで、野田秀樹演出、ミズオ(堤真一)、ヒメ女(天海祐希)、ヒイババ(野田秀樹)の初演を見たので、これが23年ぶりに二度目。さすがに名作だが、杉原版は、舞台上での人の激しい動きを歌舞伎風に様式化したので、全体が「重い」感じになった↓。ヒイバアも今回は白石加代子なので、野田自身が演じたときのような「軽み」に欠ける(写真↓奥の右端)。野田演劇は、若者が舞台を風のように駆ける爽快な疾走感が持ち味なので、私としては、初演の方が良かったと思った。

しかし、本作は時空の爽快なワープが素晴らしい。原爆投下直前の長崎の考古学発掘現場を、古代の王朝(卑弥呼?)と重ね合せ、時空をワープして繰返し往来する。演劇は本来、映画と違って時空の切り替えは苦手なのだが、そこを非常に上手くやって、大胆な舞台が実現した。原爆投下と天皇の戦争責任という重い主題を、ミズオとヒメ女という若者の純愛に昇華したので、きわだって美しい作品になった。原爆による国民の死が、王女の死と愛の永遠性によって救われる。王女は愛を贈与して自ら死んだのだ。何よりも、純愛の若者「ミズオ」という主人公の思索的で重厚なキャラクターと、キャピキャピした元気娘の王女「ヒメ女」の軽みという、対照的な人物造形が美しい。そして、王女が王国の存続のために自ら犠牲になるのは、エウリピデス『アウリスのイフィゲネイア』のような美的緊張があり、また能『道場寺』の鐘を投下される原爆それ自体に擬しているので、鐘のスリリングな怖い感じが凄い。平和で癒すような音を出す鐘が、そこにある物質的存在として、とても怖く見える。また、野田の演劇はどれも言葉遊びに溢れているが、それは連想ゲーム的な遊びで、むしろ精神分析的な対話、すなわち隠された主題に近づきつつ、また遠ざかり、仄めかしてもいるように、感じられた。(写真↓は長崎の発掘現場におけるパンドラの鐘)

それにしても、鐘が落ちてヒメ女が死ぬシーン、そしてそれを悲しむミズオの歎きはこのうえなく美しい。こんなに美しい終幕の演劇はまずほとんど存在しないだろう。死んだ姫女を声を聴き取ろうとするミズオの姿↓と、最後のミズオの言葉は、あまりにも美しくて悲しい。まさに「永遠の今」が、愛の永遠性が、純粋に現前している。「[ヒメ女よ、俺と]賭けをしましょう。あなたの服に触れず、その乳房に触れた日のように、いつか未来が、この鐘に触れずに、あなたの魂に触れることができるかどうか。滅びる前の日に、この地を救った古代の心が、ふわふわと立ちのぼる煙のように、いつの日か遠い日にむけて、届いていくのか。ヒメ女、古代の心は、どちらに賭けます? 俺は、届く方に賭けますよ

3分の動画が

https://www.youtube.com/watch?v=RUQ4U1dEkfU