(写真↓は「河庄の段」、小春[豊松清十郎]と孫右衛門[吉田玉也])
『心中天網島』は2019年9月以来だが、あらためて超傑作なのだと感嘆した。前回あまり強い印象を受けなかった箇所が、今回は、よく理解できた。「天満紙屋内の段」(いわゆる「炬燵の間」の段)の、蒲団をかぶって泣いていた治兵衛の顔をおさんが覗き込んで言う科白、「あんまりじゃ治兵衛どの。それほど名残惜しくば誓紙かかぬがよいわいの・・」、つまり、「あなた、そこまで小春さんが好だったのね!そうとは知らなかった!それなら、別れを誓ったりしなきゃいいのに・・」と、一瞬だけ、治兵衛の気持ちにおさんは寄り添った。そして、すぐ続けて、「二年間も私を抱いてくれなかったのが、二人が別れて、ようやく私たち夫婦らしい寝物語もできるようになると楽しみにしていたのに、本当にひどいわ、つれないわ、それほど心が残るなら、もっと泣きなさい、泣きなさい、その涙が川となって、彼女が汲んで飲むでしょう・・ああなさけない、ああ恨めしいわ」と、おさんは治兵衛の膝に抱き着いて大泣きする。治兵衛が小春を愛し続けていることを知って、おさんは治兵衛に愛想をつかし、治兵衛がきらいになるのではない。かえって、そういう治兵衛をますます好きになるのだ。おさんのこの涙と大泣きは、それを意味している。そして、このまま治兵衛が小春を身請けできなければ小春は自殺するからという理由で、おさんは、治兵衛に小春を身請けさせるために自分の全財産を差し出す。「で、それじゃ、お前はどうするんだ?」という治兵衛の問いに答えて、おさんのクライマックスの科白、「いいの、私は、子どもの乳母か、飯炊き女か、隠居になってもいいんだから」が言われる。この「まったく不可解」と評される、おさんの科白は、しかし不可解ではない。おさんはどこまでも治兵衛が好きなので、決して別れるつもりはなく、治兵衛が小春を身請けしたあとも、自分は治兵衛の妻でいたいのだ。つまり、二番目の妻でもいい! それほどあなたが好きなのだ! と言っているのだ。おさんは小春に「治兵衛と別れてほしい」と手紙し、小春はそれを受け容れ、別れを約束した。二人を別れさせたのは自分なのだと、おさんだけが知っている。だからこそ、小春を死なせてはならない。つまり、おさんは、女と女の友愛と、女と男の愛を、両立させようとする極限の地点にいる。自然的傾向性としての愛と、倫理とを、普通は両立しない二つを、おさんは、結合しようとしている。
(写真↓は「天満紙屋内の段」、右が炬燵蒲団、おさん[吉田和生]と治兵衛[吉田玉男])
そして終幕、小春が治兵衛と心中しようとするとき、小春は、「私は、おさんさんとの間に女の義理があるから、あなたと抱き合って心中するわけにはいかない、私を殺した後、別の場所で一人で死んでね」ときっぱりと言う。小春もまた、自然的傾向性としての愛と、倫理とを、結合しようとするのである。愛は、カントの言うように、自然的傾向性の賜物であるが、しかし人は同時に、愛に倫理を求めずにはいられない。これが『心中天網島』の真の主題である。「女同士の義理」(おさん)、「義理知らずと、おさんさんに言われたくない」(小春)と、おさんと小春はともに、作品中一度だけ「義理」を明言する。「女同士の義理」こそが、『心中天網島』の真の主題なのだ。そして、おそらく世界文学のどの作品もこれほど卓越的に描いてはいない主題を、描き切っている。父への愛や友愛を自分の生命以上に優先した『リア王』のコーディリアや『カルメル会修道女の対話』のコンスタンスなどと、おさんや小春はよく似ている。『心中天網島』はたんなる心中の話ではないのだ。そうであればこそ、前回の公演も今回の公演も、終幕の心中のときの「私たち、別々に死にましょう」という小春の科白をカットしたのはまずかったのではないか。舞台では、殺した小春のわずかに後方で治兵衛は首を吊るが、これでは明確に「別の場所で」といった小春の希望が叶えられていない。
(写真↓は終幕、「道行名残りの橋づくし」の、治兵衛と小春)