[演劇] キェシロフスキ 『デカローグ9・10』 新国 7.11
(写真↑は9話「ある孤独に関する物語」の外科医ロマン[伊達暁]と妻のハンカ[万里紗]、妻の愛人の大学生マリウシュ[宮崎秋人])
40才の敏腕な心臓外科医ロマンは、医学的な理由で性的不能になってしまった。彼は「離婚しよう」と妻に言う。妻は「あなたをどこまでも愛している、絶対に別れない。セックスは愛の本質じゃない」と言うが、彼女には実は若い大学生の愛人がいた。彼女は愛人と別れようとするが、偶然の連絡の行き違いから、最後の逢引きと別れの交渉の場面を夫ロマンに見られてしまう。夫は二人の関係が続いていると錯覚し、絶望のあまり自殺を企てるが未遂。重症で車椅子の彼と妻が再会し、二人は愛を誓って終幕。感動的な純愛の物語。
(写真↑は10話「ある希望の物語」、ポーランド随一の切手収集家だった亡父の息子の兄イェジ[石母田史朗]とアルトゥル[竪山隼太]、右は映画版)
亡父の残した切手コレクションが莫大な経済的価値があることを知り、息子たちは欲が出て全部を高く売ろうとする。が、切手商を含む詐欺師グループに全部騙し取られてしまう。兄弟は再び謙虚な日常性に戻って終幕。
「デカローグ」は第10話で完結したが、全体が優れた作品だ。「(デカローグ=)十戒」で言われる「罪」とは結局、大げさなものではなく、誰もが陥る可能性がある反道徳的行為で、その程度はさまざまであれ、誰もが人生で犯している。そして、当事者たちや隣人の「愛」によって、「罪」が救済されるのが、全10話に共通している。第9話でも、「僕たちにもし子供がいたら、夫婦の関係は違っていたかもしれない」と言う夫に妻も同意し、養子をもらうことになる。性愛は個人の意識を越えた深いレベルで生殖に繋がっている、というカトリック的意識が、通奏低音のように響いており、それが我々に感動をもたらしている。このような状況では人はこのように感じ、このように発話し、このように行為するという必然性、アリストテレスの言う「必然性のある可能態」(『詩学』)が提示されているからだ。俳優もよかったが、何よりも、映画を見事に演劇に転換した、須貝英、上村聡史、小川絵梨子の功績を称えたい。
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