[オペラ] シェイクスピア《リア王》 こんにゃく座 吉祥寺シアター 9.18
(写真上↑は、リーガン、リア、ゴネリル。写真下は、左が道化に扮したケント拍)
こんにゃく座を観るのは久しぶりだが、なかなか味のある《リア王》だった。作曲は萩京子、台本は実質、文学座の上村聡史。オペラの科白は少ないので、もとの演劇からごく一部を切り取って歌にする。だから、台本作者が実質的にオペラの内容を決める。今回は上村のユニークな解釈で、《リア王》の主題は、人間の救いようのない愚かさ、つまり<人間はどこまでもバカ>なのだ。だから道化が活躍し、原作よりも多人数の道化が舞台を占領する。私自身は、シェイクスピア『リア王』は、「この世の終り」と戦った愛のアレゴリー・コーディリアが死に、人類の希望の99.9%が失われたが、それでも、彼女の愛の贈与によって、0.1%の希望が残った、という物語だと思う。だから上村の解釈には全面的に反対だが、現代のウクライナ戦争などから、上村の解釈も十分に成り立つ。私が、およそ芸術に可能な「究極の言葉」と考える、コーディリアの科白「What shall Cordilia speak? Love, and be silent! コーディリアは何と言えばいい? ただ愛して、黙っていよう」がなかったのは残念。私はこの一言を聞くために『リア王』を観に行くのだから。(写真↓、コーディリア)
とはいえ、帰宅して戯曲『リア王』を眺めてみると、たしかに道化の科白は数も多く、内容も深い。シェイクスピアの初演のき、コーディリアと道化は同時に舞台に出ないので、同じ役者が兼ねたのかもしれない、という話を読んだことがあるが、なるほどそれもあるのかもしれない。この舞台は、音楽は、ピアノ・サクソフォン・コントラバス・パーカッションの4人で、現代音楽。いかにも《リア王》にぴったりだった。こんにゃく座は1989年に『十二夜』をオペラ上演したらしいが、再演はないのだろうか?
短いが動画。