[演劇] シェイクスピア『リア王の悲劇』 藤田俊太郎演出 KAAT 10.2
(写真↓ 左端リーガン、中央コーディリアとリア、右端ゴネリル)

フォリオ版1623のみからの河合祥一郎訳に基づく上演。通常『リア王』の戯曲テクストは、クオート版1608とフォリオ版を合わせたものだから、フォリオ版のみだとやはり印象が違う。コーディリアの果たす役割が小さくなっている。さらに、この演出では「道化」が大きく前景化され、エドガーが女性になっている。土井ケイトが演じるだけでなく、劇中でも弟エドマンド(↓右)は「ねえさん」と呼ぶから、キャラ自体が女性なのだ。

ひょっとして、リア家とグロスター家を完全に平行的に造形するために、リア家には「善」を象徴する三女コーディリアがおり、グロスター家にも「善」を象徴する長女エドガーがいる、という構図なのかもしれない。それとも、ジェンダーの揺らぎをつくる為だろうか。シェイクスピアの初演では、コーディリアと道化は同一人物(男性)が演じた、つまり劇中劇的なニュアンスが加わり、観客は「あっ、コーディアが道化をやっている」と感じただろう。そして、劇中のエドガーも乞食「トム」に扮して実質的には道化を演じるから、コーディリアもエドガーもともに道化的な要素がある。コーディリアの女性性を希薄化して中性に近づけ、エドガーの男性性を希薄化して中性に近づければ、両者はともに道化に近くなる。(写真↓、グロスターの背中で「トム」を演じるエドガー、下↓は右の白服が道化を演じるコーディリア[原田真絢、この人はミュージカル女優で、踊りが上手い])


コーディリアの「道化性」を強調するだけでなく、この舞台は召使を含めてほぼ全員が「道化」になっている↑。原作でも道化の科白はきわめて多く、人間の愚かさを笑うのが道化である。リアの「愚かさ」だけでなく、人間は一人の例外もなく「愚か」であるというのが、『リア王』の一貫した通奏低音なのか。そう考えると、<愛のアレゴリー>としてのコーディリアが後景化するのは、私としてはとても残念だが、これが本当の『リア王の悲劇』なのか。木場勝己のリアは、リア自身の道化性を見事に表現↓。


動画1分↓、道化たちの踊りが悲しい