[文楽] 妹背山婦女庭訓(通し) 国立劇場 文京シビックセンター 2.20

通しを見るのは2019年に次いで二度目だが、今回は各段の順序が大きく変り、「大内の段」「蝦夷子館の段」はカットされた。今回は三部とも最前列の席だったので、人形の動きをじっくり鑑賞。文楽の人形の動きはどうしてこんなに美しいのだろうと、かねがね不思議に思っていたが、おそらく身体がふわりと空中に浮かび、宙を泳ぐように動くところに秘密があるのだろう。身体に<自由>が感じられるのが、美しさの源泉だ。身体はつねに重力に縛り付けられているが、その重力を一瞬だけ脱し、またすぐに囚われる、その繰り返し、つまり重力との均衡の瞬間を、動きの中で何度も再現(=模倣、ミメーシス)してみせている。人形ならぬ生身の人間の身体は、ずっと重いので、こんな軽やかな均衡運動は難しいが、しかし能の舞いの美や、『白鳥の湖』などのバレリーナは空中に浮かんで止まる瞬間が一番美しいこと、あるいは野村萬斎の身体の動き、パリコレのモデルの歩みの美しさ等々は、文楽人形の動きの美しさと共通するのではないか。たとえば男子の人形の場合、すっくと立ったときの宙を舞うような足さばきが美しい。(写真↓は、「鹿を担ぐ」「吹き矢筒で会話する」「ぐいと立ち上がる」「母が娘の首を切る」シーン)




人形の動きは、それだけではなく、さらに身体のいろいろな部分が小刻みに揺れて、その微妙な運動が作りだす表情が、感情を細やかに表現できる。勘十郎の遣う「お三輪」は本当に美しい(↓)


「妹山背山の段」↓での「死体による結婚式」も驚きだ。最後、雛鳥と久我之助の二つの切り取った首を、父である大判事清澄が抱きしめるシーン、あきらかに「結婚式」が意識されている。日本は明治時代の初期まで、今日の結婚式における「披露宴」のようなものはあったが、神前で結婚を誓うような「結婚式」は存在せず、西洋の模倣であるとよく言われるが、1771年の『妹背山』は明らかに「結婚式」のようなものが意識されている。もっとも、「妹山背山の段」で強調されているのは、『ロミオとジュリエット』のような当事者の恋愛感情よりはむしろ、親子の愛情だから、その文脈で考えるべきかもしれない。太夫では、「恋の苧環」の「橘姫」と「金殿の段」の「お三輪」を謡った織太夫の、変幻自在で豊かな抑揚の声が素晴らしかった。三味線の鶴澤清治は79歳の高齢のせいだろうか、最後立ち上がるのが少し辛そうだ。そういえば、「通し」で観るのは、74歳直前の私にもやや辛い(笑)、次回は各部に分けて観たい。
