(絵↓は、『能楽図帖』「定家」より、墓の中にいる式子内親王、上に絡み付いている植物が蔦蔓で、定家の妄執を示す。昔の上演舞台の絵)

『定家』は世阿弥の娘婿・金春禅竹の作。今回のシテ=式子内親王は友枝雄人。私は『定家』を観るのは二度目だが、今回は松岡心平氏のレクチャーもあり、やっと理解できた。それにしても鑑賞するのが難しい作品だ。全2時間のうち、最後の40分は緊迫度が高いが、それ以外は動きがほとんどなく退屈。本作は、ずいぶんユニークな作品といえる。通常の能によくあるのは、男に裏切られた女の霊が、僧の鎮魂によって心情が自由に解放され、お礼に美しい舞を舞って去る。本作では、現世では成就し切れなかった式子と定家の恋が、二人の妄執という形で死後も残っていたのが、僧の鎮魂によって、式子の霊が墓から蘇り、一応は僧にお礼の舞を舞って墓に戻る。問題なのは、式子の面も舞も少しも美しくなく、蘇った彼女は醜い老婆で、「こんな醜い姿になってしまい、とても恥ずかしくて舞なんか・・」と言って、弱弱しく歩く。これを<舞>と言えるのだろうか?(写真↓は老婆にしかみえない式子の霊)。松岡の解説によれば、墓の中の式子は、若かった時の瑞々しい恋を思い出し、「昔は松風蘿月に言葉を交し 翠帳紅閨に枕を雙べ[=昔は松風の吹く中、蔦蔓を照らす月光を受けつつ、風流な言葉を定家と取り交わし、美しい閨に枕を並べて寝たものだけれど]」と墓の中でつぶやくのだが、聞こえないくらい小さな低い声なので、謡曲をしっかり予習していなければ、舞台ではまず分からない。しかも鼓の掛け声や音にかき消されてしまうような「つぶやき」で、まるでX[ツイッタ]が炎上するような感じだ、彼女が完全に老婆になっているのも悲しい。

式子の科白もすごい。「面(おも)なの舞の有様やな[=舞うのはとても恥ずかしいのです]」、そして地謡とのやり取り、「[地謡]面なや面はゆの有様やな[=晴れがましい有様でしたけど]、[式子]もとより此の身は[=ええ、昔はたしかにそうでしたけど]」、「[地謡]月の顔ばせも[=月のように美しい顔でしたが]、[式子]曇りがちに[=私のその顔も曇ってしまいました]」、「[地謡]桂の黛も[=三日月のようだった眉も]、[式子]落ちぶるる涙の[=涙に溺れて零落して]、[地謡]露と消えて・・恥ずかしや由やな[=露のように消えて・・醜い姿となってしまいました]」。こんな悲しいやり取りをした後、式子はよろよろと墓にもどり、絡みついた蔦の中に崩れ落ちるように座り込んで、終幕。これでは、せっかく僧に鎮魂されても、式子は浮かばれない。野上豊一郎編『謡曲全集』では、「その舞は、わが身の憔悴を恥ぢてゐるほど陰惨の影が漂っている」と解説。
