[演劇] ベケット『エンドゲーム』

[演劇] ベケット『エンドゲーム』 新国・小ホール 5.25

(写真↓は舞台、中央は、盲目のハム、左側のバケツに入っているのが、ハムの父のナッグと、その妻のネル、この二人は戦争で地雷?によって傷つき、両足がない障碍者)

岡室美奈子の新訳を、小川絵梨子が演出。『エンドゲーム』1957は、『ゴドー』1953よりは、『ハッピーデイズ』1962に近い作品だが、この三作はいずれ劣らぬ傑作だと思う。『ハッピーデイズ』は障碍者になった妻が、首までゴミに埋まって動けない状態で、いやいや介護する夫と冷たい会話が延々と繰り広げられ、家出した夫は体も弱るが、最後に帰ってきて妻にキスして死ぬ。『エンドゲーム』も全体の構造はよく似ており、盲目で動けない障碍者のハムが、介護する若者クロヴ(写真の左端↓彼は足が悪く体の動きがぎこちない)と、ナッグやネル(写真右)と冷たい会話を交わすだけで、最後にネルは死に、クロヴはハムのもと去ってゆく。介護される側のハム、ナッグ、ネルの三人が『ハッピーデイズ』の妻に相当し、介護するクロヴが同じく夫に相当する。シェルターのような場所の外は、たぶん世界戦争後の廃墟で、人間の姿はない。このような終末論的情況でぎりぎりの生活をしている四人にも、ついに「終り」が到来するところで終幕。

ほとんど救いのないようにみえる状況と結末だが、しかしそこにはかすかな救いがないわけではない、というのがベケットの主旨だと思う。ハムと父ナッグは険悪な会話をする。(ハ)「悪党めが!どうして私をこの世に送り出したんだ?」、(ナ)「知らなかったんだよ」、(ハ)「なにを? なにを知らなかった?」、(ナ)「生まれてくるのがおまえだってことをさ」。つまり、究極の反出生主義の遣り取りがなされる。しかし終幕、出て行ってしまうクロヴをハムは罵るのではなく、やがて死ぬハムとナッグに向けたクロヴの最後の会話は、こうなっている。(去りながら振り返らないクロヴ)「「登場人物、退場」ってやつだ」、(ハ)「おまえには感謝しているよ。クロヴ。よくやってくれたな」、(ク)「(振り返って、きっぱりと)いや、感謝するのは僕のほうだよ」、(ハ)「お互いに感謝し合っているというわけだ・・・(クロヴはドアに向かって去りかける)」。最後のこの会話は、かすかな救いを示しているのだろう。

 訳者の岡室が指摘するように、本作は、登場人物の語りがさまざまなモードになっている。ハムの語りは、クロヴに向かって話すモード、独り言のモード、そして物語るモード、さらにその物語の中でいろいろな人物になりきるモードもある。クロヴには、登場人物に話すモードの他に、観客に向かって語るモードもある(岡室はその部分を、です・ます調に訳している)。こうした発話モードの多様性は、『ハッピーデイズ』を分析してみてもたぶん言えるだろう。なるほどベケットは奥行きが深い。

 動画は見つかりませんでしたが、2000年の映画版の終幕↓(コメント欄に訳詞)、ただし、この相互の感謝の科白のすぐ後、ハムが死ぬときの独白なので、辛い。

サミュエル・ベケットの『エンドゲーム』(2000年) - 最後のモノローグ : r/Pessimism