デッカー演出『トリスタンとイゾルデ』

charis2016-09-11

[オペラ] ヴィリー・デッカー演出『トリスタンとイゾルデ』 二期会公演 東京文化会館 2016.9.11


(写真右は、第二幕より、トリスタンの福井敬とイゾルデの池田香織、第二幕は陸上だが小舟に乗っている、この小舟と二本の櫂は全幕を通じて登場し、二人の愛の世界が儚く漂流することを象徴しているのだろう、写真下は第一幕、死薬を媚薬にすり替えるブランゲーネ、写真右以外は、ライプツィヒ歌劇場の初演より)

2011年のマクヴィカー演出『トリスタンとイゾルデ』(新国)も素晴らしかったが、今回のデッカー演出も、それに劣らぬ見応えのあるものだった。1997年にライプツィヒで初演、2001年にアントワープで再演されたから、今回の二期会公演が再再演なのだろう。デッカー演出は、神話である『トリスタンとイゾルデ』を不条理劇のように表現している。不条理劇仕立てにすることよって、かえって神話のパワーが大きく炸裂したように感じた。デッカーはプログラムノートで、次のように言っている。この作品は、「無数の問いが発せられるが、答えを得る代わりに沈黙を得る。作品を貫く基調は、答えのない問いである。現実とは何か?と、どの場面でも繰り返し問われる。・・・不安感、方向感覚の喪失、絶望感がオペラ『トリスタンとイゾルデ』の中心を占める。・・・人は互いに「ずれた会話」「かみ合わない会話」をする。こうしたジレンマは本作品のすべての対話に例外なくあらわれる。話し手と聞き手は、異なる惑星にいるようだ」(p30f.) 服装が、幕によって微妙に変わってゆくのが面白い。第一幕は中世の衣服だが、第二幕は19世紀だろうか軍服姿の軍人たちがいる(写真↓)、そして第三幕は現代で、イゾルデはパンタロン姿だし、ブランゲーネも今風のスカート、男性たちも現代のスーツを着こなしている。時間と空間を矛盾に満ちたものにするのは、第二幕の陸上の小舟もそうだ。

驚いたことに、第二幕最後は原作と違っている。メロートとの決闘場面だが、ワーグナーの書いたト書きでは「メロートがトリスタンの方へ剣を突きだすや、トリスタンは剣を落し、痛手を負いながらクルヴェナール[=部下]の腕に倒れかかる。イゾルデはトリスタンの胸もとにとびこむ」となっている。だが本作では、トリスタンは剣で自分の眼を刺し(まるでオイディプス王のよう)、続いてイゾルデも剣で自分の眼を刺す。だから、第三幕では、トリスタンもイゾルデも盲目である。写真下↓でトリスタンが眼に黒い眼帯をしているのがそれ。

この第三幕が、私は一番素晴らしかったように思う。通常は、「その第二幕ほど崇高なものは他に類を見ません」と初演(1865)を指揮したハンス・フォン・ビュローが述べたように、第二幕のトリスタンとイゾルデのデュエットが圧巻なのだが、この公演では、盲目のトリスタンがひたすらイゾルデを求めて苦吟する歌いが絶唱であった。第三幕の歌詞は、トリスタンが盲目であるとすると、とてもリアリティがあるのに驚かされた。トリスタンは自分が「夜の国」の人物であると思っているので、イゾルデとの恋も夢なのかもしれない。しかし、なぜイゾルデまでも盲目にならなければならないのか? いや、十分に必然性があるのだ。第三幕、ようやく現れたイゾルデはトリスタンと抱き合おうとするが、二人とも盲目であるために、すれ違ってしまい、一度も互いに触れることができないままに死ぬ。二人がすれ違ってしまうこのシーン、何という衝撃的な演出だろう。


歌手は、すべて日本人。トリスタンの福井敬は、声量が乏しいのが残念だったが、第三幕はよかった。イゾルデの池田香織は見事な声量で、魔女の血の混じるイゾルデの凄みを十分に表現できていた。声量の点で日本人には不利と言われるが、日本人歌手は頑張ったと思う。