[演劇] マックス・フリッシュ『アンドーラ』 文学座

[演劇] マックス・フリッシュ『アンドーラ』 文学座 3月22日

(写真↓は舞台、「自分たちは加害者ではない」という自己欺瞞に逃げ込む「アンドーラ国」の人々、そして主人公である、教師と彼の息子、父は「息子は養子のユダヤ人」と嘘をついてきたが、実は愛人に産ませた本当の子だった、父を演じる沢田冬樹、息子アンドリを演じる小石川桃子、後方の窓にいるのは白痴、すべての役者が名演だった)

こんな凄い演劇作品があるとは初めて知った。ユダヤ人差別が主題のように見えるけれど、もっと奥行きが深い。(1)自分は差別の加害者にはならないという自己欺瞞、そして(2)自己肯定感を持てないがゆえに他者を愛することができない、という二つの主題が深く絡み合っている。「アンドーラ国」とはスイス、「隣の黒い国」とはドイツを暗喩しているが、日本にも該当する普遍性がある。アンドーラ国のある教師は、愛人に産ませた子アンドリを、「隣の黒い国で差別されるユダヤ人の赤ん坊を救って養子にした」と嘘をつき大切に育ててきた。そして、「勇気ある良心的な教師」という周囲の称賛に自分の虚栄心も満足させてきた。しかしアンドリが妹のバブリーンと結婚したいと言い出したので、(腹違いではあるが)実の兄妹は結婚させられないので、父は「ユダヤだからだめだ」とまた嘘をついて結婚を許さない。そして、アンドリの実の母も偶然にやってきて、そして彼は自分が産んだ子だと言う。しかし、アンドリ自身が自分はユダヤ人だと思い込んでおり、そのアイデンティティから逃れられないので、自分がこの父の子だという事実を受け容れることができない。ずっとアンドリの味方だった神父の説得ですら彼は受け容れない。周囲の人々もすべて同じで、「隣国で差別されるユダヤ人を救った」という自己欺瞞から逃れることができない。自分たちの美談=自己欺瞞を守るためには「アンドリはユダヤ人でなければならない」のだ。結局、アンドリと、(秘密をバラしうる)生みの母の元愛人は殺され、父は自殺、バブリーンは発狂という、とても悲しい結末に終わる。(写真下は、愛し合うアンドリとバブリーン、そして神父、父と元愛人)

それにしても、登場するキャラクターがどれも奥行きが深い。写真下は↓、アンドーラ愛国者を自称しながら「黒い国」の命令に従う若い兵士、そして「ユダヤ人選別官」。「ユダヤ人選別官」というのは本当に存在したのだろうか。身体の一部を丁寧に観察してユダヤ人かどうか識別する。まったく無口で一言もしゃべらないのがとても恐ろしい。舞台では、アンドリの眼をじっと覗き込んだり、くるぶしを指で探った程度だが、男子なら割礼の跡を調べれば識別できるから、本当に「ユダヤ人選別官」はいたのかもしれない。

この作品は科白が深く厳しい。神父はアンドリに「汝の隣人を愛しなさい、汝自身を愛するように」と、その後半を強調する。アンドリもバブリーンも、その父も、結局、どこまでも自己肯定感をもてないがゆえに他者を愛することもできない人たちなので、この言葉はきつい。また、誰の科白か忘れたが、「ユダヤ人は、すべての受難の究極の理由を<自分はユダヤだから>というその一点に帰着させる」という言葉もきつい。ガザ問題などで、イスラエルという国家の特異性が露わになったが、ユダヤ人の自己意識に、こういう部分が本当にあるのかもしれないと思った。ガザ問題でイスラエルに優しいドイツの知識人たちの意識は、「自分は加害者にはならない」という一点を意識の支えとする「アンドーラ国」の人々と通じるものがあるのではないか。それにしても本作は、<救い>がまったくないようにみえるが、もし僅かな<救い>があるとすれば、「人間は、自己欺瞞から解放されることはできないが、しかし少なくとも、自己欺瞞の醜さを意識し、それと向き合うことはできる」ということなのだろうか。翻訳、演出も見事、役者も見事、この作品を完全に表現した舞台だった。