[演劇] 井上ひさし 『夢の泪』 こまつ座

[演劇] 井上ひさし 『夢の泪』 こまつ座 紀伊国屋サザンシアター  4.17

(舞台は↓、ミュージカルっぽく、喜劇仕立てだが、内容はド直球の史劇、東京裁判で戦犯とされた日本人被告の弁護人を務めることは、それだけで複雑な政治的圧力の渦巻く中心に置かれることになる、写真下↓)

井上ひさし作品は、ほとんど見ていないのだが、久しぶり。この『夢の泪』は、東京裁判三部作の一つで、非常な名作だ。偶然、A級戦犯松岡洋右元外相の弁護人を務めることになった、中年の弁護士夫婦とその娘、そして関係者たちの苦悩が主題。物語は創作だろうが、莫大な資料にもとづいて戯曲を書く井上だから、部分的にはモデルがいたと思われる。弁護士である妻の秋子も、「1943年、初めて女性にも開かれた司法試験に合格した5人の女性の一人」と紹介されているから、秋子に似た実在の人物がいたのかもしれない。この劇を見て、私が初めて知ったことは多い。8月7日に政府は官庁の重要公文書焼却を命じた(=この時点で降伏は決まっていた)、しかし大量の外務省公文書がアメリカに押収され70万通以上の重要文書が直ちにワシントン公文書館に移され、アメリカだけがそれを有利に活用できた。敗戦後、大慌てで朝鮮人を日本国民に「昇格」したのは、実は、国が彼らを救済しないですむ棄民政策だった。その朝鮮人棄民が戦後のヤクザ組織の成立と大きな関連をもっており、日本人に「昇格」させたにもかかわらず、日本の警察は朝鮮人棄民に対してきわめて不公平に扱ったし、彼らが朝鮮に帰国しようとしたのを阻止した。アメリカでの戦時中の日本人移民の扱いは、初期の過酷な隔離から徐々に変化した。東京裁判での被告の弁護人は報酬がでないはずだったが、日本側の抗議によって、連合国側が出すことになった等々。これらを私は初めて知ったが、こうした背景が、東京裁判に大きな影を落としているのだ。作中の近所の19歳の青年片岡健は、実は朝鮮人で、ヤクザの組織の父が急死したため組長代理を務めさせられている。(写真↓中央)

プログラムノートで演出の栗山民也は「演劇とは、記憶を刻む芸術」と述べているが、これは井上ひさしの作品を理解する鍵となる言葉だ。『夢の泪』は、作者が観客に伝えたいことがあまりも多い難解な作品だが、「人間の生の記憶を刻む」という演劇の使命を愚直に引き受けているともいえる。弁護人を引き受けた夫妻は、松岡洋右の肺結核悪化のために、実際は弁護活動がなくなったのだが、夫の菊治は、報酬のことばかりしか念頭になく、東京裁判の意味がほとんど分かっていない。それに対して、妻の秋子は、東京裁判をどう戦うかが、日本を再建する方向性に関わるほど重要であることを、よく理解している。つまり、歴史の中での「現在」の意味をよく理解している(写真↓中央、演じた秋山菜津子は素晴らしい名演、秋山を今まで何度か見ているが、これほどの名優とは!)。そして、多くの日本人は生き延びることに精一杯で、自己利益だけしか考えられず、その「現在」の意味がよく分っていない。これが、『夢の泪』で井上が伝えたかった「記憶」の一つなのだろう。天皇の戦争責任を不問にするという連合国側の政治的決定により、せっかくベルサイユ条約で初めて成文化された「国家元首の戦争責任」が、日本に適用されず、それが東京裁判に大きなゆがみをもたらしていることが、ちゃんと舞台の人物の口から語られる。そして、これが井上の結論なのだが、「結局、戦争犯罪は、日本人自身が裁き手にならなければ、本当の裁判はできない。なのにそれができなかった」という一番重要な反省を、「記憶」としてしっかり伝えるものになっている。そして、ブレヒトの音楽劇に倣って、歌をたくさん挿入したのが成功している↓。