[私の百人一首] その3

[私の百人一首] その3

 

65  眉根よせて眠れる妻を見おろせり夢にてはせめて楽しくあれよ (上田三四二1964『雉』、妻が「眉を寄せて」眠っている、辛い夢を見ているのだろうか、「せめて夢くらいは楽しくあってほしい」と妻をいたわる)

 

66 あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ (小野茂樹『羊雲離散』1968、作者1936~70のごく初期の歌と思われる、詠まれている相手は、東京教育大学付属中学~高校と一貫して作者の恋人で、後の妻の青山雅子、海辺でデートをしたのだろう、ただただ美しい歌)

 

67  はかなかりしわれに破れし恋ありてただおびえゐき美貌のまへに (香川進『湾』1957、作者1910-98の若い時の恋を回想したのだろう、彼女はすばらしい美女だったが、長くは続かなかった恋、作者が弱気すぎたのか)

 

68  いづこより来たりいづこに去る我と知るにぞ愛のいよよ深まる (窪田空穂『老槻の下』1960、老年の夫婦愛だろうか、作者1877〜1967は83歳、そろそろ自分の死期も予感する中、妻への愛はますます深まる)

 

69 もろともに許されてかく過ごす夜やためらひもなき夜といふべし (田中子之吉『現身』1962、今ならあまりピンとこない歌かもしれない、長い恋の途上で、彼女が初めてOKしたのだろう、実感がこもる「ためらひもなき夜」、初夜の感動)

 

70  あやまてる愛などありや冬の夜に白く濁れるオリーブの油 (黒田淑子『丘の外燈』1963、作者1929の若い時の歌、いろいろ考えられるが、妻子ある男性を好きになったのか、「白く濁れるオリーブの油」が絶妙、低温だと、透明なオリーブ油も白く濁る)

 

71  月面に脚(あし)が降り立つそのときもわれらは愛し愛されたきを (村木道彦『天唇』1974、1969年7月20日アポロ11号の月面着陸のシーンをTV中継で恋人と一緒に見ているのだろう、コスモロジーの感覚がいい、すなわち、愛の交歓もこの大宇宙の中の一つの事象)

 

72 邂逅(かいこう)を遂げたる夢の腕のなかに光となりてわれはひろがる (山本かね子『風響り』1972、「夢の腕のなか」だから、この時点では、実際に「邂逅を遂げた」わけではないのだろう、実際の「邂逅」はどうだったのだろうか)

 

73 たとへば君 ガサツと落葉すくふやうに私をさらつていつてはくれぬか (河野裕子1972、作者1946-2010は京都女子大の学生、「君」は将来の夫の永田和宏1947~、この時は京大生で21歳くらいか、冒頭の「たとへば君」がすごくいい、永田の歌は明日)

 

74 ひとひらのレモンをきみは とおい昼の花火のようにまわしていたが (永田和宏メビウスの地平』1975、昨日の河野裕子と一緒にデートで喫茶店にいるのか、たぶん二人とも学生で、若々しい感じがすごくいい)

 

75 簡潔に愛の言葉は告ぐるべし朱の帯固く締めて出てゆく (山埜井喜美枝『やぶれがさ』1974、作者1930-2019は「未来短歌会」で活躍した人、相手と結婚を決めようというその日の歌、軽やかな勢いがあって、それがとてもいい)

 

76 観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日(ひとひ)我には一生(ひとよ) (栗木京子「二十歳の譜」1974、作者は京大理学部生物学科学生で20歳、「君」は同学年の数学科学生、すでに片想いではないだろうが、愛の深さにまだ非対称性がある切なさ)

 

77 きっかけがつかめなかったたそがれのあなたのセーターの色が夕焼け (吉沢あけみ『うさぎにしかなれない』1974、作者1947~は当時、群馬大学教育学部学生、寂しい恋の歌が多い、卒業後小学教員となり、子どもたちを優しく詠んだ歌もいい)

 

78 君のこと想いて過ぎし独房のひと日をわれの青春とする (道浦母都子『無援の抒情』、作者1947~は早稲田大学学生で、全共闘運動を戦う熱い心情と恋を詠む、これは1968年新宿騒乱事件で逮捕された時の歌、彼女は黙秘を貫いて起訴猶予を勝ち取った)

 

79 戀よりもかくがれふかくありにしと告ぐべき 吟(さまよ)へる風の一族 (斎藤史『ひたくれなゐ』1976、作者1909-2002は陸軍少将斎藤劉の娘、1936年の二・二六事件で父は逮捕、作者が親しく付き合った青年将校たちは刑死、「風の一族」とはたぶん作者の家族たち)

 

80 深夜シャワーにまづしき虹の立ちけるをきぬぎぬのその空蝉(うつせみ)のきぬ (塚本邦雄『閉雅空間』1977、作者1920-2005は「前衛短歌の三雄」の一人、ごく普通の恋愛なのだろうが、「きぬぎぬのその空蝉(うつせみ)のきぬ」で平安時代にタームワープする)

 

81 うつむきてひとつの愛を告ぐるときそのレモンほどうすい気管支 (永井陽子『なよたけ拾遺』1978、48歳で死去した作者1951-2000は、繊細な感覚の歌を詠んだ人、か細い消え入るような声でしか告白できなかった、ずっと独身だったからこの歌は初恋だろうか)

 

82 唇をよせて言葉を放てどもわたしとあなたはわたしとあなた (阿木津英『紫木蓮まで・風舌』1980、結婚する頃の歌か、「わたし」は「あなた」のものにはならない、あくまで自立した男女関係でありたい、「フェミニズム短歌」としてまず挙げられる歌)

 

83 さまざまの七十年すごし今は見る最も美しき汝(なれ)を柩(ひつぎ)に (土屋文明『西南後集』、1982年、作者1890-1990が92歳のとき、2歳年上の妻テル子が亡くなった、「さまざまの七十年を一緒に過ごしてきた」94歳の妻、「汝は今が最も美しい」)

 

84 肩抱けば崩るるやうに散るやうに罠を仕掛けるやうに黙りをる
 (坂井修一1981「楽しく話しながら歩いていたデートの晩、ふっと彼女の肩を抱いたら、急に彼女の態度が変わり、黙ってしまった、崩れたのか、散ったのか、罠を仕掛けたのか」、作者は東大生、彼女は後の妻の米川千嘉子)

 

85 語尾あはく甘えて呼びしことなきを君は嘆きぬふと父のやうに
(米川千嘉子1988「恋人時代からそうだけど、君は僕のことを“甘えるような感じ”で呼んだことが一度もないんだよねと、まるで父親が寂しがるみたいに、夫は私に言った」、夫は昨日の歌の坂井修一、米川は醒めた感じの恋の歌が最高)

 

86 生くるとは愛にこころを砕くこと嘴(はし)合はす鳩は日向をあゆむ (上田三四二『雉』1967、普通はやや煩わしく感じられる鳩の睦みも、ほほえましい光景に、作者は医者だが、自身も結核、癌など病気に苦しんだ人、だから人一倍「生きること」は「愛にこころを砕くこと」である)

 

87 ためらひを重ねてわれらがめぐりには一万尺の海の沈黙 (今野寿美『花絆』1981、作者1952~は長い静かな時間をかけて愛を育んだ人、何という美しい恋の歌だろう、二十年後に彼女の夫が彼女を詠んだ歌を明日)

 

88 黒い日傘はらりと開きふたむかし経ても変わらぬかたわらの人 (三枝昂之『農鳥』2002、「かたわらの人」は昨日の歌の今野寿美、「ふたむかし経ても変わらない」彼女の美しさ、20年前もたぶん「黒い日傘をはらりと開いた」のだろう、素晴らしい夫婦)

 

89  目をとぢて汝を抱きしと抱かれしと書きつづり交わし他は用もなし (池田まり子『ヒースの丘』1978、恋人とそれぞれの記憶を「つづり交わし」ている作者、「他は用もなし」が、醒めていていい)

 

90 夜の更けの電話に君が呼吸音間近く聞こえわつと愛(かな)しき (小島ゆかり『水陽炎』1987、作者1956~が早大を卒業し就職した頃か、初期には東京の街の淋しさを詠んだ歌が多い)

 

91 性愛もさびしき風かエンタシスの柱のあわいぬけてゆくかぜ (沖ななも『衣装哲学』1982、作者にとって性愛は「さびしき風」なのか、風が「エンタシス」(=ギリシア神殿の丸みある柱)の「あわい」を抜けていくなら、そこにいるのはヴィーナスなのか)

 

92 電話口でおっ、て言って前みたいにおっ、て言って言って言ってよ (東直子『青卵』2019、作者のいつの歌かは分からないが、「おっ」というのが口癖の元恋人と電話で話している、元恋人とこんな爽やかにしゃべれるのは素敵だ)

 

93 われを枕(ま)く腕あればその手首より時計はづしぬ小さな無機物を (森山晴美『畑中の胡桃の木』1985、彼氏が自分で「時計をはづす」のではなく作者が「はづす」、たまたまなのか、それともいつもそうなのか)

 

94 万智ちゃんがほしいと言われ心だけついていきたい花いちもんめ (俵万智『サラダ記念日』1987、「心だけついていきたい」清純な乙女、「花いちもんめ」と受けたのが可愛い)

 

95 菜の花の黄(きい)溢れたりゆふぐれの素焼の壺に処女のからだに (水原紫苑『びかんか』1989、作者はエロスをこのうえなく典雅に詠む人、菜の花の「黄」に囲まれた「素焼きの壺」のような、女性の美しい身体)

 

96 終バスにふたりは眠る紫の<降りますランプ>に取り囲まれて (穂村弘『シンジケート』1990、泊まるのではなく「終バス」でデートから還る若い恋人たち、その静かな「寝顔」に幸せ感が溢れている)

 

97 恋人たちが見つめあわずにすむように花火は天の高みに開く (井辻朱美『吟遊詩人』1991、恋人というものは、思わず上空の高い花火に視線を向ける機会でもなければ、いつも互いに「見つめあっている」)

 

98 色白し足が長しと言ひながらわれの羞恥をやすやす奪ふ (ぬきわれいこ『翳』2007、彼氏の愛撫は繊細で優しい、もう嬉しくて、心も体も舞い上がってしまう)

 

99 霧(スモーク)をまとふ裸の踊り子の奥歯に銀のかんむりを見き (睦月都『Dance with the invisibles』2023、ストリップ劇場で「裸の踊り子」を見ているのだろうか、たまたまちょっと開いた口の「奥歯に銀のかんむりが見えた」、「霧」と「銀」が呼応するシャープな美)

 

100 春の陽のなかを園バス帰り来ぬ顔という顔窓にあつめて (植村恒一郎「朝日歌壇」1993.4.18、佐佐木幸綱選、当時私は団地に住んでおり、保育園から娘が帰ってきたマイクロバスを迎えに通りに出たところ、「私の百人一首」これで終ります)