今日の絵(8)  5月前半

[今日の絵8]  5月前半

1 Jan Massys : Susanna and the Elders, 1564

旧約ダニエル書より「スザンナと長老」、水浴び中のスザンナを覗いた巡回裁判官の長老が彼女に情交を迫り、「いやなら青年と密会してたと報告するぞ」と脅した、彼女は普通の人妻だが、この絵では女神のように美しい、彼女はまだ覗かれているのに気付かず、優雅にくつろいでいる、ヤン・マサイスはオランダの画家

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2 Rubens : Susanna and the Elders, 1608

多くの画家が描いた「スザンナと長老」は、スザンナが覗きに気付いていない/気付いて以降の情交を迫られる場面の二種類あり、これは後者、ルーベンスのこの絵では、昨日のマサイスとは違い、スザンナの衝撃を中心に描いている、ふくよかなスザンナもルーベンスらしい

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3 Artemisia Gentileschi : Susanna and the Elders, 1610

ルーベンスは覗かれたスザンナの衝撃を描いたが、17歳の女性画家によるこの絵はスザンナの拒否と抵抗を描く、アルテミジア・ジェンティレスキ(1593~1652)は、フィレンツェ美術アカデミー初の女性会員、絵の教師タッシに強姦されレイプ裁判になった、絵はそれ以前だが主題は似ている

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4 Guido Reni : Susanna and the Elders, 1620

同じく「スザンナと長老」、長老たちは見かけは「紳士」に見える、特に野蛮には見えないが、こういう人たちこそセクハラをするのかもしれない、二人の手の動きも早い、グイド・レーニは17世紀前半に活躍したイタリアの画家

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5 Chassériau : Susanna and the Elders, 1856

「スザンナと長老」、長老の目つきがギラギラしていてリアル、スザンナは美しく可愛いらしいが、怒った強い表情をしている、描いたシャセリオーはアングルの弟子だったが離反した人で、思想家トクヴィルの親友、最も美しい女性のヌード画を描いた一人

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6 Rembrandt : The artist's mother reading,1629

「読書」は多くの画家が描いた主題、これはレンブラント23歳の作品、母の9番目の子である彼の幼少時、信仰の厚い母は彼を膝に乗せて聖書を読んだ、この絵の本もぼろぼろに古くなっているから聖書だろう、レンブラントほど人間の感情、内面、人格までを深く絵に描いた画家はあまりない

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7 Jan Lievens:読書する老女1630

他の行為に比べて「読書」する人を描いた絵は、その人の内面、精神性、人格を深く表現しているように思う、当時はまだペーパーバックの安く軽い本はなく、老女の読んでいる本は重い、ヤン・リーフェンスはレンブラントと同じ工房で競い合ったこともある人

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8 Manet : Portrait of Emile Zola,1868

部屋にいるのは親友の作家ゾラ、ゾラは当時の美術サロンを批判しマネの絵を擁護した、この絵でもゾラが手にしているのは絵に関する本か、壁にはマネの関心の深いベラスケスや日本の浮世絵が貼ってある、ゾラを描くとともにマネは画家としての自分も一緒に描いている

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9 Renoir : Claude Monet Reading, 1872

新聞を読んでいるのはモネ、モネ1840~1926とルノアール1841~1919は1歳違い、「同じ光景を一緒に並んで描いている姿」の絵も幾つもある親友だ、この絵も、ゆっくり昇るパイプの煙など、くつろいだ雰囲気で、モネに対するルノアールの親しみを感じさせる

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10 Arbert Anker : ゴットヘルフの本を読む少女、1884

アンカー1831~1910はスイスの画家、読んでいる本のGotthelfもスイスの作家、アンカーはスイスの「国民画家」と呼ばれた人で、村人の生活をたくさん描いた、この絵も自分の娘だろう、彼女は自分の寝室で熱心に読んでいる、床の汚れや裸足なのが自然な感じを与える

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11黒田清輝 : 読書1891

黒田1866~1924が滞仏中に描き、サロンに入選したデビュー作、パリ郊外の美しいロワン村(画家たちがよく描いた場所)の、19歳の娘マリー・ビヨーをモデルに雇った、場所はホテルの二階の窓際、黒田は当時マリーの姉の離れを借りて滞在していた、鎧戸から漏れる乏しい光が顔や衣服に当たっている、読書は知性を豊かにする光なのだ

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12 Rubens : 二人の息子(アルベルトとニコラス)、1627

兄は8歳くらい弟は6歳くらい、ただし顔はもう少し年長のように見える多くの画家は子供の絵を描いている、子供を描くことは、青年、壮年、老年を描くのとは違う子供の「本質」を捉えるという意味で、画家の修練にもなったはずだ、モデルとして雇うというより、自分の子や親戚の子、近所の子を描いたのだろう

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13 Manet : A boy with a dog, 1861

子どもは、そこに存在しているだけで強い輝きがあり、画家はそれを捉えようとする、もちろん大人も含めて、およそ人は誰でも、今そこに存在しているだけで何らかの輝きがあるのだが、その輝きは個人それぞれに違う、それを捉えるのが再現芸術(ミメーシス)たる絵画の使命

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14 Monet : Portrait of Jean Monet Wearing a Hat,1869

モネの2歳の長男ジャン、帽子にはポンポンという飾りが、ふつう2歳の子供は長時間おとなしくモデルにならないはずだが、じっと父親を見詰める眼差しが生き生きと描かれており、全体に筆致も色数も少ないが、モネは我が子を完璧に描き切っている

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15 Renoir : Lucie Berard, 1883 ルノアールの描く子どもは、すべての画家の描く子どもの中でも特に美しい、それは子どもという存在の内に「幸福」を見ているからだ、この絵は、パトロンでもあった銀行家ポール・ベルナールの娘ルーシー、影響を受けたアングルとも印象派とも違う方向への転換期の絵

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16 Cezanne : Portrait of the Artist's Son, 1885

1871年生まれの一人息子ポール、パリでは田舎者と思われていたセザンヌは、社交や人づき合いの苦手な人だったが、ポールが生れた頃から画風が明るくなったと言われる、彼の存在は父セザンヌにとって大きな意味をもっていたのだろう、この絵の息子には「希望」が読み取れる

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[演劇] チャペック 『母MATKA』

[演劇] チャペック 『母MATKA』  吉祥寺シアター 4月15日

(写真は、息子たちが戦死したことにショックで気絶する母、周囲は生きているように見えるが死んだ霊魂たち)

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劇団「オフィスコットーネ」公演。演出は文学座の若手、稲葉賀惠。1938年2月に発表され、同年12月に死んだチャペックの遺作戯曲。チェコへのナチスの軍事的侵攻は1939年3月だが、物語では「まさにその時」に設定されている。5人の息子を産んだ「母」は、夫だけでなく上の4人の息子も(内戦を含む)戦争で失った。残された、ひ弱な少年の五男トニだけは絶対に兵士にしないと誓うが、死んだ夫や4人の息子の霊魂が部屋にやってきて、「正義のために戦争で闘い、自分が死んだことは、名誉なことである、トニも兵士として戦うべきだ」と妻や母を説得する。霊魂たちは母には見えるがトニには見えない。しかし内戦の段階を経て隣国(ナチス)の侵略が始まったとき、トニ自身が参戦を熱望し、母と激しい争いになる・・・。私は、劇がここまで来たとき、トニが母の制止を振り切って参戦して死に、終幕だろうと予想した。しかしそうではなかったのだ。敵国による都市爆撃で女子供がたくさん死に、それを伝えるラジオニュースの女アナウンサーは自分の子も殺されたと泣き叫び、残された国民全員に、侵略者と戦え、義勇軍に参加せよと絶叫する。それを聞いて、母は突然考えを変え、トニに銃を渡して決然と言う、「さあ、トニ、行きなさい! 戦いに!」、そして終幕。この2時間の劇は、最後の10秒にすべてがある!(写真↓は、トニと母、そして敵味方に分かれつつも嬉々として内戦に参加する二人の兄)

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チャペックは1937年のナチスによるゲルニカ爆撃を踏まえてこの劇を書いたのだ。私はアリストパネス『女の平和』との差異に衝撃を受けた。『女の平和』も、「戦争は男たちの問題だ」という政治家に対して、妻たちが「いえ、戦争は女の問題だ、夫や息子が死ぬのだから」と戦争に反対する。ここまでは『母』と同じだ。しかし、『母』では最後に突然、母は非戦の側から参戦の側に転向し、「さあ、トニ、戦え!」と「軍国の母」になる。その理由は、「銃後の日常にいるはずの女も幼児も殺される」という、戦争形態の違いに由来するのだ。19世紀までの戦争は、戦場で男たちが戦い、銃後にいる女子供は死なない。『母』でも、母の父の霊魂もやって来て、「わしらの頃は、戦争といっても、そんなに死ななかったものだが」と語るのがそれだ。第一次大戦から、ゲルニカ爆撃、そして東京大空襲、広島・長崎と戦争の形態は大きく変わった。チャペックの遺作戯曲『母』は、それを正確に捉えている。ということは、「戦争は女の問題である」というその内実が、『女の平和』とは一変し、妻も娘も「自己保存」のために兵士になる必要が生まれたということだ。『女の平和』における女の非戦の論理は、もはや20世紀の戦争では通用しない。それを正面から描いたこの作品は、絶望的で、とても悲しい。そして、戦死した死者たちの魂が、こぞって参戦を喜ぶのも、悲しい。「靖国の英霊」たちには参戦を望まなかった者も多いはずだが、残された生者は「戦いを続け、英霊の死を無駄にするな!」と考えやすい。(写真下は、夫の霊魂と語り合う妻、仲の良い夫婦で、5人の子供とともに幸福な家庭だったのに)

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動画が↓。クリックして画面の下方。

http://www5d.biglobe.ne.jp/~cottone/

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[演劇] シェイクスピア『終わりよければすべてよし』

[演劇] シェイクスピア『終わりよければすべてよし』 さいたま芸術劇場 5月13日

(写真は、若い伯爵バートラム[藤原竜也]と、彼に押しかけ結婚するヘレナ[石原さとみ]、石原は演技がやや大味だが、熱演だった)

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『終わりよければ』は、筋が不自然なので「問題劇」と呼ばれており、めったに上演されない。よき題名のゆえか、全シリーズ37作上演という企画のおかげで、最後に観ることができた。私は初見だが、ヒロインのヘレナにはすごく共感したので、シェイクスピアの「失敗作」とはいえないだろう。しかしバートラムはどーしょーもないクズ男で、彼と結婚できたことがそもそも「終りよし」とは思えないので、もちろん「すべてよし」のはずはない。結婚したとしてもすぐ破綻するだろうことが見えている。終幕後、私の席の近くにいた若いカップルが、「ヘレナはどうしてバートラムを好きになったのかしら?」と尋ねていて、彼氏は「うーん・・」と絶句していた。そう、それこそが謎で、本作の主題だよね。『心中天網島』では、小春が恋をするクズ男の治兵衛は、妻のおさんも彼を一途に好きなのだから、観客には分らないけれど、どこか魅力があるのだろうとは思わせる。でも、本作のバートラムには私が見るところ、それがない。もし彼がイケメンというだけでヘレナが好きになったとしたら、ヘレナは男を見る眼がないわけで、ヘレナにも共感できなくなる。こんなクズ男を好きになった貴女が悪いんだから、こんなとんでもないことになっても自業自得だよ、ということになる。でもそのへんを狙ってシェイクスピアが戯曲を書いたとも思えない。19世紀の批評家コールリッジはバートラムに同情的で、中世の貴族は貧乏な医者の娘とは結婚しないのが普通だから、彼がヘレナとの結婚を嫌がるのは当然で、別にクズ男でもない。強引に結婚しようとするヘレナこそ変な女だ、と言ったそうだ。でもシェイクスピアが、そのつもりで書いたとも思えない。ヘレナには、自分の感情をつねに反省的に捉えている内省的なところがあり、知的な女性だと思う。シェイクスピア・ヒロインは、ヴァイオラ、ロザリンド、ポーシャ、ジュリエットなど、みな知的なところが魅力なのだから、『終わりよければ』のヘレナは、いささかも遜色のないシェイクスピア・ヒロインだよね。石原は「一途に愛する女」はうまかったが、内省的で繊細なヘレナも演じ切れればなおよかった(写真下は、フランス国王[吉田鋼太郎、演出も]と、彼の病気を治すヘレナ) 

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本作で強く印象に残ったのは、バートラムの母であり、孤児ヘレナを引き取って育てたルシヨン伯爵夫人である。彼女は一貫してヘレナの味方であり、彼女とバートラムの結婚が成就するように、あらゆる努力を傾ける。「こんな素晴らしい女性に愛されるバートラムは幸せものなのに、それが分からないのはほんとに馬鹿!」と、クズ男の息子を叱りつつ、彼女自身が深くヘレナを愛している。ルシヨン夫人が枯れた老婆ではなく、若々しく美しいのがいい。夫人役の宮本裕子は23年前、『十二夜』のオリヴィアをここ埼芸で演じたが(私は昨日のように覚えている、ヴァイオラは富樫真)、今回、練習中に訳者の松岡和子が宮本裕子に「ルシヨン夫人って、オリヴィアが年齢を重ねた姿じゃないかしら」とアドバイスしたそうだ。なるほど、オリヴィアであれば、女が恋すると狂気すれすれになってしまうのをよく分かっており、ヘレナに理解があるわけだ。(写真は、ヘレナとルシヨン伯爵夫人、人体模型はヘレナが父の医学を継承していることを示している)

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『終わりよければ』はたしかに「問題劇」ではあるのだが、今回のように舞台として成功させることができる作品だ。平行する副筋の喜劇の面白さがあり、パローレスが懲らしめられるのは、マルヴォーリオが地下室でいじめられるのと似ているし、『尺には尺を』にもあった「ベッド・トリック」(別の女性と入れ替えて男に抱かせる)も、あり得ないとは思いつつ、昔は寝室は非常に暗かったわけで、『源氏物語』でも源氏は別の女性をそれと知らず抱いてしまうのだから、喜劇としては面白い。喜劇ネタをたっぷり仕込んであることが、この戯曲を舞台上演可能にしているのだと思う。そして、蜷川の遺産であるスペクタクルな舞台づくりは、今回も成功している。(写真下は「ベッド・トリック」他)

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[映画] 今泉力哉『街の上で』

[映画] 今泉力哉『街の上で』 シネマテーク高崎 5月5日

(写真は、主人公の荒川青[若葉竜也]が、打ち上げ飲み会で初めて知った女の子イハ[中田青渚]に誘われ、彼女のアパートで夜更けまで語り明かすシーン、まるで小津の映画のようだが、本作の静かなクライマックス、何という素晴らしい若者だろう! 二人の間にかすかな愛の感情が生れる、二人ともとても不器用で、コミュ障で、ボキャ貧で、さっそうとした恋愛にはならないけれど、こういう恋こそが本当に瑞々しく、美しい恋なのだ。何よりの証拠は、このシーンをみた我々自身が二人を好きにならずにはいられないから。下に貼った動画の冒頭がこのシーン)

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下北沢は私の生まれ育った街で、今でも実家がそのままあるので70歳の私もよく行く街だ。最初はそういう関心でこの映画に行ったのだが、いやいや、これは恋愛映画の大傑作。そして、原宿や青山ではなく、この映画の街には、やはり下北沢がよく似合う。トリュフォーゴダールの恋をする若者たちには、パリがよく似合った。その理由は、恋をする男の子たちの不器用さに対して、女の子たちはみなさっそうと恋をするからだ。だが本作は違う。女の子たちも途方もなく不器用で、恥ずかしいほどジタバタするから、さっそうと恋をするヒロインは一人もいない。でも彼女たちは、何と可愛らしく素敵なのだろう! 特にイハ、関西弁でしゃべる彼女はちょっとダサいところがあるし、彼女の恋バナからして、颯爽としたヒロインタイプではないことが分る。22歳の彼女は、今まで三人彼氏がいたと思いたいけど、本当は一人かな、その一人の関取になった幼馴染の男の子とも「そういうこと(=セックス?)はしてない」、と語る。でもイハは、数ある恋愛映画の中でも、傑出して魅力的な女の子だと思う。『ジュールとジム』のカトリーヌや、ゴダール映画のパトリシアやマリアンヌやナナにも決して見劣りしない。それだけに、せっかく恋が芽生えたのに、その晩の会話は、イハの「私たち、いい友達でいたいね、私、友達がいなくて寂しいから」で終り、二人が結ばれないのがとても残念。(写真↓は、初めて言葉を交わすイハと青)

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『街の上で』というタイトルは、シャガールの絵から採ったそうだが、とてもいい。下北沢という街は、たくさんのアパートに不器用な若者たちがたくさん住んでいる。そして彼らは皆それぞれに、とても不器用な恋をする。『街の上で』を見て思うに、カッコいい颯爽とした恋愛なんて、本当にあるのだろうか。恋愛の本質は、九鬼周造キルケゴールが明らかにしたように、出会いの偶然性が必然性に変り、自由と必然性が統一されるところにある。誰かを好きになるという感情は、自由意志で生れるものではなく、まるで恩寵のように自己の外部から与えられる。でも、恥ずかしさが先だち、とても自由に語ったり振る舞ったりすることはできない。そして、初めて出会った人と、良い関係が最初から生れるというのは非常に困難なことではないだろうか。その意味では、出逢ってからファーストキスまで数分というロミオとジュリエットは、やはり神話であって、現実の人間にそのような恋はありえないのではないか。「モテ」というのはどこかに錯覚があり、本当は我々は誰もが互いに「非モテ」なのだと思う。その意味では、『魔笛』の終幕、非モテ男子のパパゲーノに恋人パパゲーナが空から降ってくるあのシーンこそ、恋愛の真実なのだと思う。恋は、この世に生を受け、地べたを這いずり回って生きている我々にとって、人生のもっとも素晴らしい贈りものだが、その理由は、我々自身が、本来的にとても不器用な存在であり、特に愛においては、男女とも例外なく不器用であり、愛はとても困難なものだからだろう。『街の上で』が大傑作なのは、まさにそれを描いているからである。短い動画が↓

https://www.youtube.com/watch?v=b3uzwReO-3w

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今日のうた(120)

[今日のうた] 4月ぶん

(写真は、在原業平825~880、『伊勢物語』の主人公と言われ、『古今集』には30首が入集、貫之は業平を「その心余りて言葉足らず」と評した)

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・ 手のなかに鳩をつつみてはなちやるたのしさ春夜(しゅんや)投函にゆく

 (小池純代『雅族』1991、「春の夜、書いたばかりの手紙を白い封筒に入れて、郵便ポストに投函に行く、手紙を投函するのは鳩を放つようなたのしい気分、鳩よ、○○さんの所へ飛んでゆけ!」) 4.1

 

  • 告白をされて一本増える道 それはそれとしてバイトに向かう

 (乾遥香2020、23歳の作者は本歌を含む「夢のあとさき」で「第三回・笹井宏之賞」大賞、それまで互いに漠然と好意を感じていた男の子からついに告白が、「一本道が増える」ように彼との関係が確かなものになるか、でも意外と冷静な作者) 4.2

 

  • 他人の恋は豆電球のあかるさで薄い硝子に触りたくなる

 (小島なお『展開図』2020、作者1986~は小島ゆかりの娘、「他人」とは作者の親しい女友だちなのか、その友だちが初めて恋をしたのか、よかったね、いい恋だね、うまくいくといいね、と優しく見守る作者) 4.3

 

  • にんげんに美貌あること哀しめよ顔もつ者は顔伏する世に

 (川野芽生『Lilith』2020、現代は新しい野蛮が風靡しており、ずうずうしく鉄面皮な者がどや顔で威張っている、人間らしい「にんげんの」顔をした者はうつむきがちで、ほんものの「にんげんの美貌」を見ることも少なくなった) 4.4

 

  • いちめんのたんぽぽ畑に呆けていたい結婚を一人でしたい

 (北山あさひ『崖にて』2020、作者1983~は北海道在住、歌誌「まひる野」同人、第七回現代短歌社賞受賞、生きにくい時代を頑張って生きている切ない心情を詠む、「結婚を一人でしたい」が光る) 4.5

 

  • 観音のいらか見やりつ花の雲

 (芭蕉1686、「深川の芭蕉庵から、かなり遠くの浅草寺方面を眺望したよ、いやぁすごいな、雲のようにどこも桜で一杯だ」、当時は気温の関係で、桜が咲く時期は今よりやや遅かったようで、たぶんソメイヨシノではなかっただろう) 4.6

 

  • 辻風(つじかぜ)や雲雀上がれと夕日影

 (榎本其角、「春は風が強いな、いま、一陣のつむじ風が吹き上がった、上空に夕陽を浴びて輝いている雲雀たちに、さあ、もっと高くいこうぜ、と呼びかけているんだ」、「上がれ」と命令形になっているのがいい) 4.7

 

  • ゆく春や逡巡(しゅんじゅん)として遅ざくら

 (蕪村1782、桜が開花する時期は年によってかなり前後があったのだろう、遅めに開いたある年、桜はなかなか散らず、春そのものが「逡巡している」ように感じられる) 4.8

 

・陽炎(かげろふ)や笠の手垢(てあか)も春のさま

 (一茶1805、あいかわらず貧乏な独り暮らしの43歳、「ゆらゆらと揺れる陽炎を見ているうちに、ふと自分の笠に付いた手垢もなんだか模様のように感じられる、俺らしい「春のさま」だな」) 4.9

 

・花水木彼かぎ彼女かぎ香なし

 (山口青邨、花水木は別名アメリヤマボウシとも呼ばれ、アメリカでは人気の花、バージニアノースカロライナでは州花に、でもこの句にあるように、香りはどうなのだろうか、我が家の近所も花水木が咲き出した) 4.10

 

  • おほろかの心は思はじ我がゆゑに人に言痛(こちた)く言はれしものを

 (よみ人しらず『万葉集』巻11、「私がつい漏らしちゃったせいで、私たちのことで周りが騒がしいわね、でも、おかげで貴方を思う私の気持ちはますます強くなるわ」) 4.11

 

  • 寝ぬる夜(よ)の夢をはかなみまどろめばいやはかなにもなりまさるかな

 (在原業平古今集』巻13、「貴女と寝たあの夜のことを、昨夜夢に見たんだけど、長くは続かず、はかなく覚めてしまった、それが悔しくてそのままうとうとしていたら、ますますはかなくなってしまい、ああたまらない」) 4.12

 

  • 稲妻は照らさぬ宵もなかりけりいづらほのかに見えしかげろふ

 (相模『新古今』15巻、「どの夜にも、一瞬チラッと遠くに稲妻が光るように、昼間は陽炎がチラッと見えるけど、それはすぐ消えて、もう見えない、貴方もチラッと見えたきり来ないのね、いったいどこにいるのよ」) 4.13

 

  • つかの間の闇のうつつもまだ知らぬ夢より夢に迷(まどひ)ぬるかな

 (式子内親王『家集』、「ほんの一瞬でいい、「闇の中の現(うつつ)」でいいから、貴方と逢いたい、でも、その現実の出逢いがないまま、貴方を探して夢から夢へとさ迷い歩いている私、ああ悲しい」) 4.14

 

  • 出てみれば雨 手に受けて春の雨

 (時実新子、作者1929~2007は『有夫恋』などで名高い川柳作家、でもこの句は、季語のある俳句のようにも見える、もともとは俳句は俳諧だった、すなわち滑稽味があるのだから、俳句と川柳とは連続している) 4.15

 

  • 踊っているのではないメリヤス脱いでるの

 (根岸川柳、メリヤスのももひき(?)がなかな脱げないので格闘しているのだろう、踊っているみたいになっちゃった、作者1888~1977は「十四世川柳」として活躍した人) 4.16

 

  • 老人がフランス映画へ消えてゆく

 (石部明、老人がフラッと映画館の中へ消えていった、やっているのはトリュフォーとかゴダールとかのフランス映画か、今ではフランス映画はあまり若者は観ないのか、作者1939~は現代川柳作家) 4.17

 

  • いつまでもいつまでも寝る前のよう

 (柳本々々、「もうそろそろ寝ようかという感じなのだが、なかなか寝ないで、「いつまでもいつまでも」その状態が続いている」、作者やぎもともともと1982~は、現代川柳作家にして歌人) 4.18

 

  • ひとならびテレビすべてに花景色

 (小池蘆風「東京新聞俳壇」4月18日、小澤實選、「家電販売店だろうか、並べられているテレビすべてに桜満開の様が映っている。異界ともいうべき空間が生まれた」と選者評、多数のTVの「異界の花景色」はたしかに印象的だ) 4.19

 

  • お日さまに愛されてをりチューリップ

 (長谷川瞳「朝日俳壇」4月18日、高山れおな選、「このシンプルな明るさ、細見綾子の<チューリップ喜びだけを持つてゐる>にも通じよう」と選者評、今、我が家の近所もチューリップが花盛り) 4.20

 

  • はるかぜに肌の全部を剥がされてこの生活も葉桜になる

 (アナコンダにひき「東京新聞歌壇」4月18日、東直子選、「上の句で春風に桜の花びらがすべて散っていく痛々しさを描き、下の句では葉桜となった姿を華やかな日々の後にも続く日常の比喩とした」と選者評) 4.21

 

  • 遠足もお泊まり保育も無き子等が「楽しかった」と卒園したり

 (蜂巣厚子「朝日歌壇」4月18日、永田和宏選、「多くの楽しみを奪われた園児たちが、それでも「楽しかった」と卒園していく様に胸を衝かれる。何も言わぬが優れた社会詠」と選者評) 4.22

 

  • ながむればかすめる空のうき雲とひとつになりぬ帰るかりがね

 (藤原良経『千載集』巻1、「上空の雁は、だんだん遠ざかって小さくなってゆく、ついに「春霞にかすんだ空に」輪郭がかろうじて見える「浮雲と一つになって」、「消えてしまった」、良経は叙景を詠む天才) 4.23

 

  • つれづれとふるはなみだの雨なるを春の物とやひとの見ゆらむ

 (和泉式部『千載集』巻1、「春雨がこのように降っていると、やるせなくて寂しい気持ちになる、この雨は私の涙なのね、なのに貴方はこの雨を、普通に春雨が降っているとしか思わないのかしら」) 4.24

 

  • ながむれば思ひやるべきかたぞなき春のかぎりのゆふぐれの空

 (式子内親王『千載集』巻2、「夕暮れの空を眺めていると、どうしてこうも寂しくなるのでしょう、春はもう逝ってしまう、愛しい人と別れるときのように、その悲しさはどこにもやり場がありません」) 4.25

 

  • をしめどもかひもなぎさに春暮れて波とともにぞたちわかれぬる

 (藤原覚忠『千載集』巻2、「海路を旅している途中に春の終りが来た、夕方にある渚に着いて上陸し、今来た海をしばらく眺めていると、打ち寄せる波がまた沖に去ってゆくように、春も去ってゆくのを感じる」) 4.26

 

  • 薔薇の香に伏してたよりを書く夜かな

 (池内友次郎1906~91、虚子の二男である作者は、作曲家にして俳人、たしかに薔薇の花は、外に咲いている時よりも、剪って室内に活ける時の方が香を感じる、とりわけ静かな夜には。我が家も昨日、今年初めて庭の薔薇を剪って活けた) 4.27

 

  • 発電を終へたる水の若葉いろ

 (藤崎実、山間部の小さ渓流にある小さな発電所だろうか、ダム式ではなく導水管で水を落す方式、水車を回し「発電を終えた」水が合流する川の面には、山の若葉が一杯に映って水とともに輝いている) 4.28

 

  • 春もはや一畝うつろふ大根花

 (小田浪花、ダイコンの花は、ピンクに縁どられた白い小さな花だが、茎丈は一メートルほどに高く、菜の花に後続するように畑に咲く、菜の花の畝から「隣の畝にうつろう」ようにダイコンの畝が咲いて、春は深まってゆく) 4.29

 

  • 陽炎のづんづん伸びる葎(むぐら)かな

(一茶1808、道端によくあるムグラは、2ミリくらいの小さな花しか咲かず、とても地味で、いかにも雑草という感じ、しかも茎がぐんぐん伸びて藪になる、人に愛されないそんなムグラにも一茶は優しく呼びかける、「陽炎と一緒にづんづん伸びるね」と) 4.30