今日のうた(151) 11月ぶん

今日のうた(151) 11月ぶん

 

郷里(ふるさと)に住む人の無く天の川 (宮田隆雄「朝日俳壇」10月29日、大串章選、「過疎化が進み住む人の居なくなった故郷。同郷の人たちはいま何処(どこ)で如何(どう)しているのだろう。「天の川」が効果的」と選評) 1

 

雲梯(うんてい)を右手左手秋燕 (鹿沼・湖「東京新聞俳壇」10月29日、石田郷子選、「雲梯を進んでゆく若々しい手に焦点を当て、その向こうの秋空へと視点を移した」と選評、幼い子どもが公園か学校の雲梯にぶらさがり、必死に進んでいるのか、その向こうに秋燕がゆく) 2

 

少女たち蜃気楼めく日陰のみまだ濡れている朝のホームに (菅原海香「東京新聞歌壇」10月29日、東直子選、朝のホームの端の方で電車を待っている女子高校生たち、若々しい彼女たちだが「蜃気楼のように」ゆらゆらと頼りなげに見える、悩み多き多感な青春) 3

 

母さんはもの書きになるには闇が足りないと娘が言う隠せているのだな、闇 (今泉洋子「朝日歌壇」10月29日、永田和宏選、「私が裡に持つ闇は娘にも気づかれていないようだと、哀しい安心」と選評、母と娘は、互いに言えないような秘密を持つことがあるのか」) 4

 

霧(スモーク)をまとふ裸の踊り子の奥歯に銀のかんむりを見き (睦月都『Dance with the invisibles』2023、ストリップ劇場で「裸の踊り子」を見ているのだろうか、たまたまちょっと開いた口の「奥歯に銀のかんむりが見えた」、「霧」と「銀」が呼応する美) 5

 

たまものはぶだうなりしをれもんとぞおもほゆるまで靑年を戀ふ (水原紫苑、「ある靑年から贈り物をもらった、それはブドウだったが、なぜかレモンと思っていた、 私はその靑年に戀しているのか」) 6

 

手拍子が火から焔へ煽っても自分の影を踏んでいくしか (帷子つらね、作者2000~は早稲田大学の学生、夜の祭りで踊っているのだろう、人々が輪になって手拍子のリズムに乗って一緒に進むが、その中で作者は孤独な気分でいる ) 7

 

窓のそばのピアノを弾けば降りそそぐ光つぎつぎ編み込む両手 (飯田彩乃、「月光の降りそそぐ窓のそばで私はピアノを弾いている、両手が、光を、ピアノの黒白のキーに「つぎつぎ編み込んで」ゆく」) 8

 

地下書庫に体熱を奪はれながらひとは綴ぢ目の解けやすき本 (川野芽生『Lilith』2020、作者1991~は東大大学院生、東大図書館の地下書庫か、ぎっしり本が詰まった書棚に挟まれると「体熱が奪われる」、そして自分の体も、もろい本になったように感じられる) 9

 

ほどき方がわからずそのままにしておいた ちがう、わからなくなるように結んだの (初谷むい2022、作者1996~は北海道大学水産学部卒の若い歌人、この歌は「紐」について詠んでいるが、人間関係の比喩かもしれない、たぶん恋をしているのだろう) 10

 

裸ならだれでもいいわ光ってみて泣いてるみたいに光ってみせて (平岡直子『みじかい髪も長い髪も炎』2021、作者1886~は第23回歌壇賞を受賞、川柳も詠んだ異才の人、この歌も美しい、「だれでもいいわ」というのだから、男でも女でもいいのだろう) 11

 

いたわりが苛立ちに変わる感情の手をひらくごとひとつある海 (竹中優子2022、「いたわりが苛立ち」に変わってしまった自分のその感情は、まるで眼前の「ひとつある海」が「手をひらいて」自分を呑み込もうとするかのようだ、作者1982~は第62回角川短歌賞受賞 ) 12

 

凍る沼にわれも映れるかと覗く (西東三鬼『夜の桃』1948、実景が同時にメタファーなのか、混沌の時代だからこそ、澄んだ湖ではなく「凍る沼」に自分が映っているか確かめたい、それとも「凍る沼」さへ覗くナルシスか) 13

 

ペリカンは秋晴れよりも美しい (富澤赤黄男『魚の骨』1940、動物園なのだろう、「よりも」がこの句の肝、「ペンギン」と「秋晴れ」は、本来、その「美しさ」が比較できるようなものではない、にも関わらず「よりも」と比較し、言語が世界にずばりと介入) 14

 

河終る工場都市にひかりなく (高屋窓秋1937、作者は戦前、新興俳句運動の中心の一人、満州に勤務するのが1938年だから、これは日本の光景だろう、河口がある「工場都市」とは東京とか川崎だろうか) 15

 

霧の夜の外苑を外苑と思ひ通る (渡辺白泉、1933年頃、作者は慶応の学生、霧が深い夜、明治神宮外苑を通ったのだろう、何も見えないけれど「ここは外苑に違いない」と思いながら) 16

 

こがらしや頬腫(ほほばれ)痛む人の顔 (芭蕉1690、「木枯らしが吹く中を、顔が膨らんだ人が歩いていく、お多福風邪なんだ、あの膨らみ具合といい、痛々しいけど、おかめみたいでちょっと可笑しい、いやごめん、笑っちゃいけない」 ) 17

 

木つつきのつつき登るや蔦(つた)の間(あい) (浪化、「キツツキが、紅葉の樹を巻くツタの間にいる虫を、巧みに突つきながら上に移っていく、上手いなぁ」、語調もいい句、作者は東本願寺十六世啄如上人の子で、芭蕉の弟子、北陸俳壇の重鎮だった ) 18

 

君もさぞ空をどこらを此ゆふべ (上島鬼貫、「戀」と前書、面白い句だが難解、『鬼貫の独り言』を参照すると、星の出ている深夜、長い間逢えなかった女とやっと寝られた、「僕と同様、君もさぞ寂しかったろう、 空をあちこちさまよって、やっと今夜逢えたのだから」) 19

 

我足(わがあし)にかうべ抜かるる案山子かな (蕪村、「秋の収穫も終わって無用になった案山子、 着物はぼろぼろになり、頭は抜かれて一本足の棒の下に転がっている、ひと働きしてくれた案山子くんをこんな風にしておくなんて、ちょっと可哀そうじゃないか」) 20

 

死神により残されて秋の暮 (一茶1813、 郷里の柏原に帰省中の句、前句に「病後」と前書があり、辛い病気にかかり、癒えた直後の句、「より残す」は「選び残す」だから、「死神に選ばれなかった」の意) 21

 

おほろかに我れは思はばかくばかり難(かた)き御門(みかど)を罷り出めやも (よみ人しらず『万葉集』巻11、「宮廷の夜勤の合間をぬって、深夜やっと君のところへ来たんだよ、君を深く愛していればこそ、あんな厳しい管理の門を抜け出せたんだ、早く中に入れてよ」) 22

 

曇り日の影としなれる我なれば目にこそ見えね身をば離れず (下野雄宗『古今集』巻14、「貴女が私の愛を拒絶するので消え入りそうな私です、でも完全には消えません、曇った日の影のようになって、よく見えないけれど貴女から離れません」、ストーカーっぽい恋の歌) 23

 

影見たる人だにあらじ汲まねどもいづみてふ名の流ればかりぞ (和泉式部『家集』、「(彼氏の亡き後も、私があちこち男出入りしてると噂されるけど)とんでもないわよ、喪に籠ってる私の姿さえ見た人はいないはず、汲まないのに「和泉」という浮名だけじゃんじゃん流れてるのね」) 24

 

君やあらぬ我が身やあらぬおぼつかな頼めし事のみな変はりぬる (俊恵法師『千載集』巻15、「貴女はもはや以前の貴女ではないのでしょうか、それとも、私がもはや以前の私ではないのでしょうか、私があんなにも恋焦がれていた貴女の心変りは、とても悲しいのです」) 25

 

通ひこし宿の道芝かれがれに跡なき霜の結ぼほれつつ (俊成卿女『新古今』巻14、「貴方が通ってきた庭の道芝もすっかり枯れて人の通った跡もありません、貴方が離(か)れ離れになってしまったからだわ、霜が白く結ぼほれている[=からみつくように残っている]のが、ああ悲しい」) 26

 

さむしろの夜半の衣手さへさへて初雪しろし岡の辺の松 (式子内親王『家集』、「独り寝の寒い布団に横になっている私、夜中に袖のあたりが冷え冷えとして辛い、朝目覚めると、岡の松が初雪で真っ白になっているわ」) 27

 

聞きてしも驚くべきにあらねどもはかなき夢の世にこそありけれ (実朝『金槐和歌集』、「(病気とは聞いていなかった知人が夜明けに亡くなったと知らされて) 人が死んだと聞いたからといって驚きはしないけれど、それを聞く自分が生きていることさえ夢ではないかと感じる、ああ、はかない」) 28

 

手紙出しにくる老人の指などもポストの口に記憶されいむ (杉崎恒夫『パン屋のパンセ』2010、先の短い老人が手紙をポストに入れる手や体の動きはゆっくりと遅い、それをポストはちゃんと覚えているだろう) 29

 

女には何をしたっていいんだと気づくコルクのブイ抱きながら (穂村弘『シンジケート』1990、女性と一緒に海水浴に来て、海中でよからぬことを考えているのだろうか、かなり前の歌だが、今ならば、上半句の「女には何をしたっていんだと」の部分、「?」と思われるかも) 30

[今日の絵]  11月後半

[今日の絵]  11月後半

19 Pieter Bruegel : 農民のダンス 1568

西洋絵画には広義の「社交」がたくさん描かれている、お祭り、舞踏会、各種祝宴、食事会、お茶会、学会など、人々が集まり出逢う機会は重要だった、西洋のカップル文化も、こうした社交の長い歴史的伝統の上に形成された

 

20 Dirck Hals : Merry Society

ディルク・ハルス1591-1656はオランダの画家、「社交」は英語で「society」、この絵のタイトルは「お祝いの集まり」、このような社交の場で、人々は家族ぐるみで出逢い、若者たちはその中で将来のパートナーを見つける

 

21 Johan Zoffany : ウフィツィ美術館の審査会1775

おそらく、一般客ではなく関係者が集まっているのか、「社交=society」とは、不特定多数ではなく許された参加者の集まり、「王立協会Loyal Society」やこうした美術サロンは「社交」の重要な場、ヨハン・ゾファニー1733-1810はドイツ出身の新古典派画家

 

22ウィリアム・ホガース:ウォンステッド家の集合1730

上流階級の家族、親戚が集まっているのだろう、核家族化はヨーロッパ各国で早い遅いの違いはあるが、英国は比較的早くから結婚した子はそれぞれが核家族を作ったと言われている、作者1697~1764はロココ期の英国の画家

 

23 Luigi Cavalieri : A Pleasure to Dance

「ball=舞踏会、ダンスパーティ」は、ジェイン・オースティンの小説からも分るように、貴族から農民まで「社交」の一番メインの場、ルイジ・カヴァリエーリ1869-1940はイタリアの画家、この絵の舞踏会光景は18世紀終り頃のものだろう、踊っているのは貴族階級か

 

24 Charles Wilda : The Ball 1906

これはタイトルもずばり「The Ball ダンスパーティ」、昨日の絵と違って20世紀初頭、服装から分るように、ごく普通の中産階級の市民だろう、シャルル・ヴィルダ1854-1907はオーストリアの画家、オリエントの絵が多いがこれは生粋のヨーロッパ

 

25 Renoir : ムーラン・ド・ラ・ギャレット 1876

画家の代表作の一つ、上流の社交場というわけではなく、庶民も多い、木蔭で踊れるこのダンスホールにいる男女は、ルノアールの仲間たちがかなりいて、女性も男性も描かれた主要な人物は誰だか分っている

 

26 Hans Thoma : Children’s Roundalay 1872

ハンス・トーマ1834-1924はドイツの象徴主義の画家、子どもたちは歌いながら輪を作って踊っている、生き生きとした動きと表情がいい、この輪は女の子が多いけれど、「社交」は小さなころから行われている

 

27 Arthur Melville : The Lawn Tennis Party at Marcus 1889

スポーツも社交、アーサー・メルヴィル1855-1904はスコットランドの画家、オリエントの絵が多いがこれはイギリス、タイトル「マーカスでの芝生テニスパーティー」のうに、上流階級の間でテニスはかなり盛んだったのだろう、コートに立つ女性も優雅な動き

 

28 Klimt : The Old Burgtheater 1889

ウィーンの「ブルグ劇場」が建て替えのため、クリムトは記録の絵を依頼された、観劇やオペラもまた社交の一環である、ボックス席には上流階級の人々が男女で鑑賞するので、誰が誰と来ているか、興味と噂の種になる、この絵も、貴族や上級ブルジョアジーの人々を活写

 

29 René Rousseau-Decelle : Le Palais de glace 1909

スケートはヨーロッパでは古くから社交、ルネ・ルソー・デセル1881 – 1964はフランスの画家、タイトルは「氷の王宮」、座っている人々は上流階級の優雅な女性、友人が滑るのを見るのも楽しい、滑っている人々も、スピード感があって動きがとても美しい

 

30 Fred Calleri : Life was meant for good friends and great adventures

タイトルは「人生の意味は良き友人と大胆な冒険にあり」、スポーツはまさに社交であり友人関係そのものが目的なのだ、これは楽しそうな女性三人組、フレッド・カレリ1964~は現代アメリカの画家

[今日の絵] 11月前半

[今日の絵] 11月前半

1 Cranach : Saint Elizabeth 1514

何かを「読む」とき、人は特有の美しい表情になる、他者の声に心を開くからだろう、古くは聖書を読む聖人から、近代では小説を読む女性まで、「読む人」は繰り返し絵に描かれた、この聖エリザベスが読んでいるのは聖書らしいが、ある箇所に沈潜しているのか

 

2 Rubens : 聖シモン(読書する男) 1611

「聖シモン」とも「読書する男」とも呼ばれている絵、該当箇所を探しているのか、それとも拾い読みをしているのか、そういう場合は何となく聖人らしくないが

 

3 Carlo Dolci of Florence : Saint Catherine of Alexandria reading

アレクサンドリアの聖カテリーナ287~305はローマ時代に王女だった人で18歳で殉教、キリスト教の理論闘争を行った学者でもあった、だから熱心に研究しているのか

カルロ・ドルチ1616~86はイタリアの宗教画家

 

4 Georges de la Tour : 聖歌隊の少年 1645

ジョルジュ・ド・ラ・トゥール1593-1652はフランス王ルイ13世付きの画家、蝋燭の光で人物が照らされている絵が多い、この聖歌隊の少年は、じっと楽譜か歌詞を見ているのか

 

5 Gerrit Dou : Old Woman Reading a Book 1630年代

ヘリット・ドウ1613~75はオランダの画家、レンブラントの弟子だが、師のように大胆な筆致ではなく細かく描く人、モデルを長時間座らせるので、次第に肖像画の依頼が減ったといわれる、この絵のモデルはレンブラントの母らしい

 

6 Rembrandt : man reading 1648

この絵は、レンブラントの弟子たちの作とみられてきたが、最近はレンブラント本人の作とも見られている、ある特定の個人の写実ではなく、様々なイメージを総合して架空の人物を描いたのではないかとも

 

7 Henry Robert Morland : 鐘形の紙製ランプかさの下で読む女性1766

ヘンリー・ロバート・モーランド1716-1797はイギリスの肖像画家、女性をたくさん描いた、モリエール『女学者』からポンパドゥール夫人まで、17世紀以降のヨーロッパには学術研究する貴族の女性がいた、この時代以降の「読書」の絵では、女性もたくさん描かれる

 

8 Cezanne : 「レヴェヌマン」紙を読む画家の父 1866

父の意向に反して画家の道へ進んだセザンヌは27歳、父が読んでいる新聞はいつも父が読む新聞ではなく、ゾラが痛烈にサロン展を批判した記事が載った「レヴェヌマン」紙、後に掛かっている絵もセザンヌだが、父はそれを背にしている

 

9 Gogh : the novel reader 1888

アルルで描かれた絵、服装や後ろの本棚からして上流の女性だろう、熱心に「小説を」読み耽っている、線の単純な使い方と、少数の色彩のバランスが見事

 

10 Renoir : Young girls reading 1889

ルノワールはそれぞれ別の「読書する二人の女性」を何枚も描いている、この絵は、お揃いの服からして姉妹だろう、読書する人はそれだけで美しいが、二人の姉妹の仲のよさも表現されて、女性たちはますます美しく、全体の色彩も素晴らしい

 

11 Michael Peter Ancher : Young Girl Reading 1885

アンカー1849~1927はデンマークの画家で、庶民を描くが一人ひとりに深みがある、光と影のバランスがよく、これはマレン・ソフィー・オルセンという少女、顔に影になっており、かえって表情がよく分る、服もエプロンも青系統で静謐な感じ

 

12 Bertha Wegmann : Portrait of a Reading Woman

作者1847-1926はドイツ系デンマーク人の女性画家、友人などの女性を多く描いた、たくさんの読書の絵があり、どれも姿勢そのものに表情があって美しい、そして色彩のバランスも

 

13 Fanny Fleury : Woman reading

ファニー・フルーリー1848-1920は、フランスの女性画家、女性を多く描き、パリのサロンにたくさん出展した、この絵の女性は上流階級だろうか、何冊も本を置いて研究的に読んでいるのかも、絵としては、色彩の配置が卓越している

 

14 Tony Robert Fleury : Girl

作者1837-1912は、昨日のFanny Fleury1848-1920と夫婦なのかと調べたが分らなかった、この絵は、光が胸部を明るく照らし、顔はやや影になっているが、少女の「読み耽っている」感じがとてもよく描かれている

 

15 Zinaida Serebriakova : Eugene (Portrait of the artist's son) 1917

セレブリャコワ1884-1967はウクライナ出身のロシアの画家、彼女は4人の子供を繰り返し描いており、これは長男のユジーヌ1906-91だろう、まだ子ども顔だが、とても真剣に読んでいる

 

16 Carl Theodor von Blaas : Woman Rading

カール・ヴォン・ブラース1886-1960はオーストリアの画家、肖像画家として名高く、ウィーンとヴェネチアの二つの美術アカデミーの教授だった、この絵の女性は瞼を閉じているわけではなく、やや厳しい表情で文字を真剣に見つめている

 

17 Francine Van Hove

作者1942~はフランスの女性画家、「夢見るような態度の若い女性を描く」人らしい、そういえばこの絵の女性も、恋愛小説を読みながらうっとりと夢見ているのかもしれない

 

18 Sherree Valentine Daines :

作者は1956年生まれのイギリスの女性画家だが、絵に描かれた光景は、帽子や服装からすると少し前の時代に思われる、二人の女性が同じ本の同じ頁を楽しそうに見ながら、何か言っている

[今日の絵] 10月後半

[今日の絵] 10月後半

17 Velázquez : Head of Child 1650

子どもが絵の主題になるのは、大人と違う美しさをもっているからだ。だが子供を描くのは、大人以上に難しい。おとなしく座っていないし、類型化されない「その子だけの美しさ」は、大人の美以上に捉えるのが難しい。この絵は子どもを描いた超名画、目が素晴らしい

 

18 Dürer : The Christ Child Holding the Orb 1493

「球を握る子キリスト」だが、実在の子供がモデルだろう、水彩画、親しみを感じさせる顔で、斜めの視線がいい、そこらへんに居そうな可愛い坊やだが、よく見ると大人のような知的な表情でもある

 

19 Rubens : Portrait of a married couple with child ca. 1610 部分

結婚している知人夫婦と一緒にいる子、ルーベンスの描く男の子はどれも、おっとりしたお坊ちゃまだ、服といい、とても裕福な家なのだろう、幸福そうだ

 

20 Hals : Child with soap bubble 1625~49

「しゃぼん玉」で遊んでいる少年、やんちゃな男の子なのだろう、ハルスの描く人物は、子ども、大人関係なく、生き生きした表情をしている、子どもの笑顔はいつ見てもいい

 

21 Thomas Gainsborough : Cottage Girl with Dog and Pitcher 1785

トマス・ゲインズバラ1727~88はイギリスの肖像画家、現在では彼の肖像画は高く評価されている、この絵はたぶん、彼が泊まった「田舎小屋の少女」、でもこの少女は美しく可愛らしい、しかも強さもある、ぼろ服だが魅力的な田舎の少女

 

22 Henry Le Jeune : Early Sorrow 1869

アンリ・ルジューヌ1819~1904は英国の画家で子どもや家族を描いた、タイトルからすると、少女が悲しんでいるが、おそらく大人に叱られたのではなく、恋の悩みやペットの死など、愛の喪失を初めて経験したのではないか

 

23 Gaspare Diomede della Bruna : Seated Girl with Jug 1882

作者1839-1915はイタリアの画家、ブグローや、昨日のゲインズバラなど、18~19世紀に描かれた少女はよく水瓶を持っている、井戸から水を汲み、室内の様々な場所に運び、容器に入れるのは、上流階級は別として少女の仕事だったのか、この少女も、楽しそうではないが、瓶は手慣れた感じ

 

24 Renoir : Child with a Whip1885

少女のように見えるが、グージョン博士の末息子で当時5歳、18世紀頃の上流階級では、小さな男の子にスカートをはかせることがあったそうだが、この絵もその流れか、たしかに可愛い、だが「鞭を持っている」のはなぜだろう

 

25 James Hayllar : A pause from reading1890

ジェイムズ・ヘイラー1829-1920は英国の画家、少女や家族をたくさん描いた、小さな子どもは読書に長時間の集中はできない、しばしば「お休み」が必要、この少女の手にあるのは絵本ではなく、文字の詰まった革表紙の本のようだ、聡明な少女なのか

 

26 Cezanne : Child in a Straw Hat 1896

セザンヌの描く人物の眼は、遠くを見ているようでもあり、近くを見ているようでもある、子どももそうなので、「赤いチョッキの少年」もこの少年も、どこか大人のような瞑想的な印象を受ける

 

27 Picasso : Child Seated in an Armchair 1901

ピカソの「青の時代」1901~4の絵は、人物の表情が静的で少し悲しげにみえる、この子も、子どもにしては、手の置き方、座り方など落ち着いて、顔の表情もやや大人びている、他の画家の子どもの絵と比べると、あまり子どもらしくないとも言える

 

28 Valentin Serov : マルガリータ・モロゾワの息子ミカ1901

作者1865~1911はロシアの画家で、肖像画の評価が高い、この絵も、行儀の悪い座り方、活発な表情など、昨日のピカソの絵とはちがって、いかにも子どもらしい、椅子の後ろに袋が掛けてあるが、奥行きの深いこのような子ども用の椅子があったのだろう

 

29 Philip de László:His son Stephen 1912

作者1869~1937はハンガリーの画家、王族や上流階級の肖像画で名高い、これは彼の5人の息子の一人で三男のステファン、当時8歳、いかにも上流階級のお坊ちゃまに描かれているが、カップをこぼしそうで、行儀作法はまだ子どもか

 

30 Mogdiliani : The Blue-eyed Boy 1916

モディリアーニは、ごく僅かの線と色彩で、その人物の個性を完全に表現する、この絵も、この少年の繊細な美しさが印象的だ

 

31 Grant Wood : チェックのセーター 1931

グラント・ウッド1891~1942はアメリカの画家、身体の造形力に定評がある、この絵は少年の表情がすごくいい、誇らしげで強そう

今日のうた(150)  10月ぶん

今日のうた(150)  10月ぶん

 

太陽がうまく見えないこの部屋でわたしたちだけの神話を記す (奥山いずみ「東京新聞歌壇」10月1日、東直子選、「太陽の当たらない部屋と神話の組み合わせは、「古事記」の天岩戸を彷彿させる。暗い部屋での「わたしたち」の特別な親密さと閉塞感を象徴する」と選者評」) 10.1

 

帰りたいといつも言ってる入所者が家族の前では何も言わない (川上美須紀「朝日歌壇」10月1日、永田和宏選、介護施設だろうか、「家族の前では帰りたいと言わない入所者の微妙な心理」と選者評、たしかに介護などは家族が一番いいとは限らないが、とても複雑な心理) 2

 

鬼やんまわが持たぬものすべてもつ (千草子「朝日俳壇」10月1日、高山れおな選、「中七下五の痛快な断言が描き出す鬼やんまの威風堂々ぶり」と選者評、それにしても「鬼やんま」そのものをあまり見かけなくなったような気がする) 3

 

鰯雲登校してもしなくても (奈良雅子「東京新聞俳壇」10月1日、石田郷子選、「新学期が始まっても、何かの事情で学校に行けない子がいる。でも投稿できない子にも投稿できた子にも同じ秋空が広がっている」と、選者評) 4

 

撃たれたる鹿青年の顔をもつ (小室善弘、撃たれるまさにその時、鹿はこちらを凝視したのか、キリっとした顔は「青年」のよう、作者1936~は俳誌「鹿火屋」編集同人) 5

 

畳屋の肘(ひじ)が働く秋日和(あきびより) (草間時彦、畳表(たたみおもて)を平らにしたり、畳縁(たたみ)を押さえたりするのに、「肘」が縦横無尽に動いて活躍しているのだろう、「秋日和」もいい、ただ最近は「畳屋」を道端で見る機会がほとんどない) 6

 

草の花ひたすら咲いてみせにけり (久保田万太郎、「草の花」は「花野」と同様、秋の季語、秋に野原に咲いている花は、春、夏に比べると地味だ、「ひたすら咲いてみせている」けなげな花たち) 7

 

鰯雲(いわしぐも)子は消しゴムで母を消す (平井照敏、子どもが鉛筆で絵を描いている、そして、絵の中の「鰯雲」の一つとして「母」を描き、しかもいったん描いた「母を消しゴムで消した」のか、子どもは寂しいのだろう、作者の子だろうか) 8

 

静かなる闇焼酎にありにけり (岡井省二、「焼酎」はどういうわけか夏の季語、でもこの句は、四季いつであれ普遍妥当性があるのではないか、作者1925~2001は医師にして俳人) 9

 

人間のからだにありて爪だけが作りものめいてうつくしいこと (睦月都『Dance with the invisibles』2023、身体の他の部分ではなく「爪だけ」が芸術品のように「うつくしい」と、他に「われにある二十の鱗すなはち爪やはらかに研ぎゐるゆふべ」という歌もある、作者1991~は第63回角川短歌賞受賞) 10

 

人間のいのちの奥のはづかしさ滲み来るかもよ君に対(むか)へば (新井洸[あきら]、デートだろうか、恋人はきっと楚々とした美しいお嬢さんなのだろう、彼女と向き合っていると「いのちの奥からはづかしさが滲み来る」、作者1883~1925は佐々木信綱門下で「心の花」で活躍) 11

 

封筒を開けば君の歩み寄るけはひ覚ゆるいにしへの文 (与謝野晶子『白桜集』1942、亡くなった夫の寛からの古い手紙を取り出して、「封筒を」開けたのだろう、もうそれだけで「君が歩み寄る気配」を感じる) 12

 

てのひらは扉をひらき出入りするたびに違つた表情をもつ (尾崎まゆみ、「出入りする」部屋の中にいるその人を、作者は毎回強く意識するのだろう、だから「そのたびに、扉を開くてのひらも、違った表情になる」) 13

 

夜霧とも木犀の香の行方とも (中村汀女、「木犀は、視覚に入るより先に、まず嗅覚にスーッと入ってくる、夜霧の湿気をまず皮膚で感じるように」、今朝だが、玄関のドアを開けると、隣家の金木犀の香りが) 14

 

梨食うてすつぱき芯に到りけり (辻桃子、梨の中心部はどこまで食べられるのか微妙だ、ついもう一嚙みして「すっぱい芯に到りけり」) 15

 

汽車降りて夜寒(よさむ)の星を浴びにけり (野村喜舟、「夜寒」は秋の季語、私も今頃、夜遅くJR北鴻巣駅を降りた瞬間に感じることが多い、明らかに東京より2度は低い) 16

 

電車の影出てコスモスに頭の影 (鈴木清志、田舎の無人駅だろうか、「ホームに降りると一面にコスモスが咲いている、そのコスモスに、秋の陽を受けた「電車の影」が映っている、今、電車を降りた自分の「頭の影」がそこから分離した」) 17

 

たったいまダウンロードしたので歌えます人工知能の歌は明るし (飯田有子、カラオケだろうか、歌う前にスマホで確認しているのか、「人工知能の歌」という言い方が面白い) 18

 

踏みはづすならばおのれを くろがねの篩(ふるい)に揺らされて歩む世に (小原奈美、人生を自分の思うままに自由に生きるのは難しい、たえず檻のような「鋼鉄のふるいに揺さぶられ」選別されるコースを歩かされている、あぁ、たまには踏み外してみたい) 19

 

科学では証明できない交際相手に海がないと言われたら海はない (手塚美楽、彼氏を信じ切っているのだろうか、でも、「彼氏を信じ切っている」とわざわざ言挙げするということは、そういう自分にかすかな懐疑があるのかもしれない) 20

 

飛び立てぬつばさで誰もつぎの風を待つてゐる気がする空港に来て (松本典子、少女のような新鮮な感性、人生に羽ばたこうとしているだけでなく、恋のことも意識しているのだろう、「誰もつぎの風を待つてゐる」がいい) 21

 

また眠れなくてあなたを噛みました かたいやさしいあおい夜です (東直子『青卵』2001、恋の歌だろう、甘美な感情にかすかな寂しさがふっと差す、その繊細さがいい) 22

 

かなしみも喜びもないバーコードある日こころに貼りついている (杉崎恒夫『パン屋のパンセ』2010、たしかに「バーコード」というのは、見た目もデジタル的で「かなしみも喜びもない」、にもかかわらず「ある日こころに貼りついている」、「かなしみ」が「喜び」よりやや過剰なのか) 23

 

桟(かけはし)や命をからむ蔦葛(つたかずら) (芭蕉1690、木曽路の難所で詠んだ、鎖で板を縛って作ったおぼつかない「かけ橋」に、蔦が「必死で絡みついている」、「僕も鎖にしがみついてこわごわと渡ってるけど、おお、蔦くんもやはり怖くてしがみついているんだ」とユーモア句) 24

 

どの方をおもふてゐるぞ閨の月 (上島鬼貫、「遊女の絵に賛す」と前書、作者は、月光の差す自分の寝室の布団で、馴染みの遊女の絵を見て呼びかけた、「汝、今、「どの方」のことを想うておるか? 吾輩は汝のことを想うておるぞ」、自分が平安貴族になったかのようなパロディ句) 25

 

芦(あし)の穂やまねく哀れより散るあはれ (斎部路通、作者は芭蕉の弟子、水辺に生えている芦の穂は、そのまま散って立ち枯れてゆく、人を招くように揺れる薄の穂もたしかに哀れだが、芦の穂の方がさらに「あはれ」に感じられる) 26

 

猪(ゐのしし)の露折(おり)かけてをみなへし (蕪村、「あっ、イノシシのやつ、ここで寝たな、おみなえしの花を寝床にしたせいで、花が押しつぶされて折れ、しっとりと露が下りている」、最近、熊、猪、鹿などの出没が話題だが、猪はどこにでもいたのだろう) 27

 

秋の雨乳(ち)ばなれ馬の関こゆる (一茶1804、秋雨の中、ようやく乳離れしたかしないかの仔馬が、母馬に寄り添いながら一緒に「関を越えている」のだろう、まだ歩きぶりがおぼつかない) 28

 

長き夜や千年の後を考へる (子規1896、「夜長」は秋の季語、夜の実時間ではなく、次第に夜が長くなるからそう感じる、子規はたぶん「千年の後」の短歌や俳句のことを考えていのだろう) 29

 

蝶来りしほらしき名の江戸菊に (漱石1989、「しおらしい」地味な名前の「江戸菊」があるのだろう、あまり目立たないその菊に、あまり目立たない地味な蝶が弱弱しく飛んで来て留まった、秋も深い) 30

 

秋風や眼中のもの皆俳句 (虚子1903、秋風が、局部的ではなく、すべてのものをさらうように吹いている、「眼中のものはみな俳句になる」) 31