[演劇] テネシー・ウィリアムズ『ガラスの動物園』 ヴァン・ホーヴェ演出

[演劇] テネシー・ウィリアムズガラスの動物園』 ヴァン・ホーヴェ演出 新国 9月28日

(写真↓はアマンダ[イザベル・ユペール]とローラ[ジュスティーヌ・バシュレ]、そしてトム[アントワーヌ・レナール]、ローラはトムの姉だが妹のように可愛い)

ガラスの動物園』はテネシー・ウィリアムズ(1911~83)自身の自伝的な作品であり、彼の2歳上の姉ローズとトム(ウィリアムズ自身の本名はトム)との愛が、本当の主題だ。ヴァン・ホーヴェ演出のこの舞台は、ローラ(劇中のあだ名は「ブルー・ローズ」)をかなり病的な人物に造形しており、彼女は、少しやつれて、つねに表情が硬く、舞台上のほとんどは、毛布をちょっとかぶって部屋の隅の床(ゆか)に寝ている。メンタルを病んでいるのだろう。通常の演出では、ローラを「引っ込み思案」で「内気」な女の子に造形しているが、ホーヴェはもっと突っ込んでいる。原作の戯曲では、ローラは「脚が悪い」ことになっているが、ホーヴェはそこを変えて、ローラを実在の姉ローズに近づけている。

 

姉ローズ(1909~96)はメンタルな障碍があって、対人関係がうまくいかなかった。ローズは1937年に、かかりつけの精神科医に出かけるとき、包丁をハンドバックに忍ばせているのが見つかり、精神分裂症と診断され、まずカトリックの施設に収容され、その後ミズーリ州の州立精神病院に移された。そして30年代の終りに脳のロボトミー(前頭葉切開)手術を受けて、「悲劇的におとなしくなってしまった」(ウィリアムズ『回想録』1975)。写真下↓は、最初の二枚はカトリック施設のローズ28歳頃と思われる。最後の一枚は20歳、「姉のローズ、ノックスビルで社交界にデビューしたころ」(『回想録』)と書かれているが、表情はやや硬い。

ホーヴェはプログラムノートに、ローズは「今なら[精神分裂症ではなく]双極性障害と診断されるだろう」と書いており、ローラをそのように造形している。これはおそらく正しい演出であり、私は、トムと姉ローラの愛は、「ケアとしての愛」であり、それを真正面から描いたことが、『ガラスの動物園』を20世紀演劇最高の名作の一つにしたのだと思う。

 

ガラスの動物園』には決定的に重要な科白がある。ジムとローラがダンスをして、ジムが躓いたとき、ガラス製の小さなユニコーン(一角獣)にぶつかって、その角を折ってしまった。謝るジムに、ローラは言う、「(微笑んで)手術を受けたと思うことにするわ。角を取ってもらって、この子もやっと普通[の馬]になれたと思っているでしょう!」(戯曲、小田島訳p146)。この「手術」とは何だろうか? 間違いなく、姉のローズがロボトミー手術を受けさせられて、ほとんど廃人のようになってしまった、あの「手術」のことである。ユニコーンの角が一本折れるとは、姉の脳の前頭葉の一部が切除されたことの隠喩であろう。おそらく姉は手術の意味がよく分らず、「手術を受けてよかったわ」というようなことをウィリアムズに言ったのだろう。なんと悲しい科白ではないか!(写真↓は、角が折れる前のガラスのユニコーンを見るジムとローラ)

ジムに優しくされ、凍り付いたようなローラの硬い表情が徐々に生気に満ちたものに変わり、ジムに導かれて二人はダンスを始める。初めはぎこちなかったローラの身体もしだいに滑らかになって、体全体で喜びを表現し、そして最後にジムのキスを受け入れる。このシーンのなんという美しさ! 世界に数あるすべての演劇の中でも、屈指の美しいシーンではないだろうか。私はいつも涙があふれて、ほとんど舞台を正視できない。しかし、これはローラの人生にとって、初めてのキスであると同時に最後のキスなのだ。原作の戯曲には、さりげなく「これは、実はローラにとってはそのひそやかな人生のクライマックスなのである」とト書きされている。つまり、ローラはここでジムに励まされたけれど、しかしもう二度と恋をする機会はなく、ガラスの動物たちと遊ぶだけの引き籠りで一生を終えるだろう(姉のローズが施設で生涯を終えたように)。

 

ではしかし、この世に生を受けたローラという一人の女性は、その生を一度も祝福されずに死んでいくのだろうか。否、断じてそうではない! そのためにこそ『ガラスの動物園』は書かれたのだから! ニーチェは、芸術を、「我々の現存在(=この世に生まれてきたこと)を肯定し、祝福し、完成するもの」、と定義している。ローラというこの薄幸の女性も、彼女の現存在を一度も祝福されることなく永遠の無の中に消えてゆくのではない。ジムとのダンスシーンは、彼女の現存在が祝福される「永遠の今」である。このホーヴェ演出では、トムが姉のローラを強く抱くシーンが何度もある。つまり、ローラの愛のパートナーはあくまでトムであり、ジムはトムの(役割を演じる)分身あるいは影に過ぎないのだ。多くの批評家が『ガラスの動物園』の真の主題は「近親相姦」だと言ったそうだが、もう少し言い方に工夫がほしい。ローラの現存在を祝福する愛のパートナーは、たまたまトムとジムであったけれど、真に重要なことは、彼女の現存在が愛によって祝福されたという、その一点にあるのだから。『ガラスの動物園』は、トムの回想としての劇中劇であり、その回想によれば、トムはローラとアマンダを捨てて家を出る。これは、姉ローズのロボトミー手術のとき、ウィリアムズはしばらく家を離れており、手術を阻止できなかったことの後悔と罪の暗喩であると、私は解釈したい。トムの分身であるジムが躓いてユニコーンの角を折ってしまったことが、ロボトミー手術を受けさせてしまったことの後悔の暗喩であったのと同様に。

今日のうた(137) 9月ぶん

今日のうた(137) 9月ぶん

 

粧はぬ清き匂ひのかすかにて相病む夜毎メルヘンに寄る (相良宏『相良宏歌集』1956、相良宏1925~55は若くして結核で死去、短歌仲間の福田節子という若い女性もおそらく同じ療養所に入院して亡くなった、思いは告げなかったが彼は彼女が好きだった、「メルヘンに寄る」が悲しい) 1

 

かたはらにおく幻の椅子一つあくがれて待つ夜もなし今は (大西民子『まぼろしの椅子』1956、作者1924~94は盛岡市出身の歌人、啄木に憧れて短歌を始めた、恋愛して結婚したが、家に帰らなくなった夫との愛は失われ、寂しい孤独の日々を詠んだ) 2

 

愛などと言はず抱きあふ原人を好色と呼ばぬ山河ありき (春日井建『未青年』1960、作者1938~2004は、肉体の性的な魅力を詠んだ人、この歌は20歳のとき、我々の祖先が「原人」だった頃は、健康的で伸び伸びとした性愛だったのだろうか、少なくとも作者はそれに憧れている) 3

 

耳あててオルゴール聞くわれにだけささやく声にうなづくごとく (北沢郁子『その人を知らず』1956、作者には愛用のオルゴールがあるのだろう、「われにだけささやく恋人の声」を聞くように、オルゴールに「耳をあてて」聞く、たぶん毎日一回は必ず) 4

 

永遠の放課後にいる私たち 亀の背のようなかき氷を買う (土居文恵「東京新聞歌壇」9月4日、東直子選、作者は女子高校生だろうか、今年の夏休みに初恋があったのか、冒頭の「永遠の放課後」がすごくいい) 5

 

みづうみに風の道ありひとところ風のかたちに霧はうつろふ (篠原克彦「朝日歌壇」9月4日、佐佐木幸綱永田和宏共選、霧は、空気の流れによって「風の道」がその中に生じ、そこに「風のかたち」が見える、「みづうみ」ではそれが起きやすい、佐藤佐太郎を思わせる歌) 6

 

まづ朝日浴びたる木より蝉鳴けり (神山高康「東京新聞俳壇」9月4日、石田郷子選、「真っ先に鳴き出した蝉。「朝日浴びたる木」という表現にどこか荘厳なイメージがあり、生命力に満ちた蝉声を聞くような思いがした」と選者評) 7

 

風天忌女はもっと辛(つら)いかも (津田正義「朝日俳壇」9月4日、大串章選、「渥美清主演の映画「男はつらいよ」を踏まえる。「風天忌」は渥美清の命日」と選者評。俳句って、こんなふうにも詠めるんだ) 8

 

吸ひがらの今日の形に西日差す (上田信治、「西日」は夏の季語だが、「吸ひがらの今日の形」との取り合わせがいい、西日が横から当たれば、吸い殻にもいつもと違った「今日の形」がある、作者は、漫画家けらえいこの夫にして共作者) 9

 

なだらかな萩の丘なり汽車登る (高濱虚子1933、北海道の狩勝峠で詠んだ、いかにも虚子らしい、ゆったりした句、「汽車登る」がいい) 10

 

野の川を走り過ぎたり銃の音 (山口誓子1944『激浪』、銃の音が野の川の水面を反射して伝わっていく、「走り過ぎたり」と詠んだのが凄い、「ピストルがプールの硬き面(も)にひびき」1936、「夏氷挽ききりし音地にのこる」1940等、誓子には「音」を詠んだ秀句が多い) 11

 

曼珠沙華咲くとつぶやきひとり堪ゆ (橋本多佳子1937、夫が亡くなり葬儀は終わったが、まだ喪に服している、前句に「忌に籠り野(ぬ)の曼珠沙華ここに咲けり」とある、野生の曼珠沙華を摘んできたら、花瓶で咲いた、だから「咲くのね、とつぶやいた」、この後作者はしばらく体調を崩す) 12

 

百姓の紺はかなしや野分中 (森澄雄『雪櫟』1954、台風の中、農夫がびしょ濡れになって作業している、雨に濡れると衣服の「紺色」がとりわけ鮮やかに浮かび上がっている、それがどういうわけか「かなしい」) 13

 

鰯雲この時空のまろからず (中村草田男『長子』1936、秋になって空にいわし雲が見える、いわし雲は美しいけれど、どこかさびしい、別に自分の気持ちがすさんでいるわけではないが、空全体がどこか尖がって「まろからぬ」ように感じられる) 14

 

鶴降りて秋草くもるところかな (永田耕衣『加古』1934、作者のもっとも初期の句、鶴が大きく翼を広げて秋草の咲いている所に降りたら、そこに影がくっきりできた、それを「秋草くもる」とややオーバーに詠んだ、耕衣らしい句) 15

 

秋晴や囚徒殴(う)たるる遠くの音 (秋元不死男1942 、作者1901~77はプロレタリア俳句など新興俳句運動に加わり、京大俳句事件に連座して投獄される、この句は東京拘置所で詠まれた、秋晴れの日は音がよく響き、普段はよく聞こえない離れた房舎で囚人が殴られる音も聞こえる) 16

 

玉垂(たまだれ)の小簾(をす)の垂簾(たれす)を行きかちに寐(い)は寝(な)さずとも君は通はせ (よみ人しらず『万葉集』巻11、「ねぇ、必ず通って来てよね、お母様が見張っているから共寝はできないけれど、せめて私の部屋の玉垂のスダレのあたりを、行ったり来たりしてほしいの」) 17

 

便りにもあらぬ思ひのあやしきは心を人につくるなりけり (在原元方古今集』巻11、「誰かに言づけを頼んで貴女に手紙を届けさせたわけではありません、でも不思議ですねぇ、私の思いは貴女のところにたどり着いてしまったみたいです」、奇妙にまだるっこしい仕方で告白した歌) 18

 

ある程に昔語りもしてしかな憂きをばあらぬ人と知らせて (和泉式部『家集』、作者が冷たいので別れた元カレが病気の時に送った歌、「お互い生きている内に、あの頃の事をしみじみと話し合ってみたいわ、冷たかったのは私ではなく別の女だと貴方が思うほど、優しくしてあげるから」) 19

 

つれなさに今は思ひも絶えなましこの世ひとつの契りなりせば (顕昭法師『千載集』巻12、「恋の契りがこの世だけのものなら、貴女が冷たいので僕は諦めてしまうかもしれません、でも恋の契りは来世にも有効です、だから諦められるものですか」、なるほど来世があれば話は違ってくる) 20

 

あはれとて人の心のなさけあれな数ならぬにはよらぬ歎きを (西行『新古今』巻13、「せめて貴女には、僕のことを「ああ、かわいそうに」と思ってほしいです、取るに足らないこの僕だって、一人前に恋に苦しんでいるのですから」) 21

 

沖深み釣りする海士(あま)のいさり火のほのかに見てぞ思ひ初めてし (式子内親王『家集』、「はるか遠くの沖の釣り舟の、明かりがほのかに見えるように、はるか遠くにいる貴方がほのかに見えている、ああ、そんな貴方を、私は好きなってしまった!」) 22

 

あかあかと日は難面(つれな)くも秋の風 (芭蕉1689、「難面し」とは無情で優しくないこと、「強い日差しが照りつけて、残暑が厳しいな、それでもよく注意してみると、秋風の気配が漂い始めているみたいだ」、金沢での納涼句会で発表) 23

 

あさ露や鬱金(うこん)畠(はたけ)の秋の風 (野沢凡兆『猿蓑』、「鬱金」は芭蕉に似た大きな葉の植物、そこに「あさ露」が付いて、ぱたぱたと葉が揺れるのに秋風を感じる、「あさ露」「鬱金」「秋の風」と秋の季語が三つもある珍しい俳句、でも「秋の風」にうまく収まっている)24

 

そちへふかばこちらへ吹かば秋の風 (上島鬼貫、「秋の風はいきなりピューっと強く吹いたりしない、そっちでちょっと、こちらでちょっと、「おやっ」と風を感じるのが、秋の風だなあ」) 25

 

小狐(こぎつね)の何にむせけむ小萩はら (蕪村、「原っぱに萩がびっしり咲いて、いい香りだな、あれっ、萩の間に小さな狐の顔が見えている、きっと萩の香りが強くてむせているんだろうな」、狐の顔が可愛く見えるのだろう、ユーモア句) 26

 

秋風やあれも昔の美少年 (一茶『七番日記』、「あれも」と言ってるから、見かけただけなのだろう、「昔の美少年」も今ではすっかり太って醜いオヤジになっている、「彼」だと分かっただけよかったのか、それとも見ない方がよかったのか) 27

 

あきくさをごつたにつかね供へけり (久保田万太郎『草の丈』1952、「つかぬ=束ぬ」は束ねること、墓か仏壇か、花屋でちゃんと買う余裕がなかったのだろう、そのへんの「あきくさを、ごちゃごちゃ束ねて」活けた、いや、そういう花の方が新鮮で、故人も喜んでいるだろう) 28

 

鶏頭に鶏頭ごつと触れゐたる (川崎展宏『観音』1982、鶏頭の花は夏から咲いているが、秋の季語、鶏の頭のトサカのような分厚くて濃い赤が印象的、それが「ごつ」とぶつかっているさまは、鶏だけでなく人間の頭のようでもあり、ユーモラスで、そしてどこかもの悲しい) 29

 

髪よりも吹かれやすくて愛の羽根 (片山由美子『雨の歌』1984、「愛の羽根」は「赤い羽根」と同じく10月の共同募金に由来する秋の季語だが、この句は面白くもじっている、「秋風に吹かれてつかの間の恋も終わってしまった」という嘆き) 30

[今日の絵] 9月後半

[今日の絵] 9月後半

16 Dürer : 13歳の自画像1484

当時、自分一人を描く「自画像」は非常に珍しかった中で、堂々と自分だけを描いたのがデューラーと言われる、彼は28歳の時自分をキリストになぞらえた自画像を描いているが、これはそれより15年前、それにしても線の見事さには驚かされる、顔や手の表情の豊かさ!

 

17 Rubens : Self-Portrait 1620

43歳のルーベンス1577~1640、自画像はたいてい帽子姿なので、これはやや老けて見えるが、彼は眼が魅力的な人だ、「鋭い」というよりは「真面目な」眼、何かを一生懸命「見ようとしている」眼、漱石のように、ルーベンスは眼が美しい人だったのかもしれない

 

18 Anthony van Dyck : 14歳の自画像1613

ヴァン・ダイク1599~1641はフランドルの画家、イギリスで宮廷画家としても活躍した、21歳の自画像は、自分を上品な貴族のように描いているが、この絵もいかにも上流階級の少年に見える、若くして卓越した技量をもち画家として自立、その後、ルーベンスの筆頭助手も務めた

 

19 Camille Pissarro : Self portrait 1900

カミーユピサロ1830~1903は、フランス印象派の画家、田園や街の中の人々をたくさん描いた、この自画像は最晩年のものだが、いかにも味わいのある顔をしている。声をかけられて、ちらっとこちらを見たかのような視線がいい。

 

20 Otto Dix : 小さな自画像 1913

サイズは35×29cmで特別小さくはないが、謙遜なのか、オットー・ディックス1891~1969はドイツの新即物主義で社会派の画家、戦争の悲惨や荒廃を描いた、本作は22歳の学生時、同時代のドイツ社会に非常に批判的だったらしいが、この絵もいかにも真面目な人に見える

 

21 Frances Cranmer Greenman : Self Portrait 1923

フランシス・クランマー・グリーンマン1890~1981はアメリカの肖像画家、評論家、彼女の画風はモダニズム系で、この絵も、シンプルで形と色彩のバランスが美しい、空と帽子が濃紺で重く、下部の河、大地、家々が白系で軽いのがいい、そして目がどこか腫れぼったく、重い

 

22 Frida Kahlo:Self portrait with Necklace 1933

フリーダ・カーロ1907~54はメキシコの画家、インディヘニスモ(=ペルーの先住民族)であり、メキシコ共産党員、そして彫刻家イサム・ノグチや革命家トロツキーの愛人だった時期もある、この自画像は、強い意志をもつ革命家の顔だ

 

23 Tove Jansson - Smoking Girl (Self-Portrait) 1940

トーベ・ヤンソン1914~2001は、フィンランドの画家、作家で「ムーミン」シリーズの作者。この「煙草を吸う少女」は26歳の自画像、ツッぱった娘ふうの感じがとてもいい、最初の「ムーミン物語」が1945年だから、まだ彼女の画家時代といえる

 

24ギュスターヴ・クールベ:セーヌ河畔のお嬢さんたち1856

カップル社会と言われる西洋だが、女性だけが一緒にいる絵も多い、「女子会」という言葉はないかもしれないが、男性がいる時といない時では、話題、雰囲気、話す態度などがたぶん違うだろう、この絵も、もし男性が一緒ならばこういう姿勢はしないかも

 

25 Boldini : Gossip, 1873

ボルディーニの描く女性たちはほぼ上流階級だから、この絵もそうだろう、タイトルは「ゴシップ」、たぶん「友人や知人の男女関係のもつれ」だろう、この話題は階級を問わず女子会は大いに盛り上がる

 

26 Gauguin : パラウ・パラウ(おしゃべり)1891

ゴーギャンが43歳のとき、タヒチ島で描いた絵、女性たちは輪になって楽しそうにおしゃべりしている、姿勢がさまざまに自由で、リラックスした女子会のいい雰囲気が感じられる

 

27 Henri Gervex : Five Hours at Paquin 1906

アンリ・ジェルベクス1852 – 1929はフランスの画家、マネと交流があり、女性の絵をたくさん描いた、「パカンでの5時間」という意味はよく分からないが、大きなパーティでの女性の控室だろう、会心の衣装を身につけられた人とそうでない人がいることが表情から分かる

 

28 Thomas Benjamin Kennington : Relaxation 1908

トマス・ケニントン1856-1916)は、イギリスの画家、労働者階級の絵をたくさん描いた、この絵は、被服産業で働く女性たちの休み時間の光景だろう、左側の女性が何かの記事を読んでおり、ニュースを共有しようと残りの人は聞いている、まじめな女子会だ

 

29 Mario Tozzi : The morning Coffe 1924

マリオ・トッツィ1895~1979はイタリアの画家、この絵は、裕福な家のお嬢さんか、左は少しあせっている女中さんなのか、朝のコーヒーが早く飲みたくて、ベッドから下着のまま出てきちゃった、男性の執事ならこういうことはないが、やはり女性だけだとつい油断してしまう

 

30 Herbert Badham : On the Roof 1928

ハーバート・バダム1899-1961はオーストラリアの画家、場所はシドニーらしいが、「屋上で」ゆったり休んでいる有閑マダムの雰囲気がよくでている、右は少し若いお嬢さんかもしれない、服はもちろん、帽子や傘の形から、時代がよく分かる

 

[演劇] シェイクスピア『ヘンリー八世』 さいたま芸術劇場 9月21日

[演劇] シェイクスピア『ヘンリー八世』 吉田鋼太郎演出 さいたま芸術劇場 9月21日

(写真↓は終幕、右側の新王妃アン・ブリン[山谷花純]が抱いている赤ん坊が後のエリザベス一世、中央がヘンリー八世[阿部寛])

シェイクスピア最後の作品で(1613年初演)、戯曲の過半は弟子のフレッチャー執筆。エリザベス一世死去後10年で、ヘンリー八世はエリザベスの父だから、ヘンリー八世を傷つけないように細心の注意を払って作られた作品だ。ヨーク家/ランカスター家の対立を克服して、テューダー朝を開いたヘンリー七世、その子ヘンリー八世、その娘エリザベス一世テューダー朝が安定し、カトリックプロテスタントの厳しい対立をも呑み込んで「大いなる和解」を演出したのが劇『ヘンリー八世』なのだ。そのためか、シェイクスピアの他の史劇と違って、ヘンリー八世その人の個性は前景化されず、彼はむしろ調停者的な存在だ。原文の科白は、ヘンリー八世が461行で一番多いが、しかしウルジー枢機卿が436行、キャサリン王妃が376行で、劇ではウルジーとキャサリンがやたら目立つ。ヘンリー八世の主体的な決断や行動で事態が大きく動くことはない。それだけに上演されることの少ない作品なのだが、今回の吉田演出版は、当時の政治的事情がよく分らない日本人にも大いに楽しめる舞台になっている(写真↓は、ウルジー[吉田鋼太郎]、キャサリン[宮本裕子]、ヘンリー八世[阿部寛]、三人とも素晴らしい名演で、阿部はそこに存在するだけで「王」に見えるのは凄い)

キャサリンスペイン王女だった人で、スペインはカトリックであるのに対して、アン・ブリンはフランス系のプロテスタント、そしてウルジー枢機卿はもちろんカトリックだが、異様に権力欲が強い人。そしてヘンリー八世の死後(1547)は、息子のエドワード六世(1547~53)、キャサリンの唯一の娘メアリー一世(1553~58)、そしてやっとアン・ブリンの娘エリザベス一世(1558~1603)となる。メアリー一世はカトリックプロテスタント大弾圧をし、ジェイン・グレイを処刑、異母妹のエリザベスを投獄。アン・ブリンはプロテスタントで、しかもエリザベスを産んだ2年後には不倫の疑いでヘンリー八世に処刑されている。つまり、エリザベス一世の即位も偶然の幸運のように見えるから、劇『ヘンリー八世』がアン・ブリンのエリザベス出産の「めでたし、めでたし」で終わっているのも、現実のエリザベス一世統治を正当化するためなのだろう。この作品が『ヘンリー八世』と呼ばれるのは後世のことで、最初は『All is trueすべて真実』というタイトルだった。つまり、初演当時の観客は、メアリー一世やアン・ブリンやウルジーのことをよく知っていたわけで、観客たちを「これが真実なのだよ!」と宥めるために、劇全体が「歴史修正主義」の産物なのだろう。つまり、ウルジーも含めて、誰もが本当の「悪者」にはなっていない。それだけに、細かい事情が分からない現代日本人には、劇中の人物の対立や科白の細かい意味はよく分らない。それを乗り越えて、「大いなる和解」が主題だと分る舞台にしたのはたいしたものだ。

[今日の絵] 9月前半

[今日の絵] 9月前半

1ヒエロニムス・ボス : 卵のコンサート1475-1480

今日からは「音楽」、絵は音を出さないが、音楽は絵に描かれる、音楽は最初は神話や宗教と結びついていたのか、この絵も悪魔など聖書の寓話性を感じさせる、ボス1450頃~1516は初期フランドルの画家、幻想的で怪奇な画風はブリューゲル等に影響を与えた

 

2 Orazio Gentileschi : ヴァイオリンを弾く若い女性(聖セシリア)1624

ラツィオ・ジェンティレスキ1563~1639はイタリアの画家で、アルテミジア・ジェンティレスキの父、弾いているのは世俗のミュージシャンではなく聖人、聖セシリアは2世紀頃のカトリックの聖人で、音楽家と盲人の守護聖人といわれる、彼女は天を仰いでいる、天上のミューズたちに聴かせているのか

 

3 Rembrandt : 音楽の寓意1626

楽譜を見て指揮をしているのは女神っぽく見える、兜からするとアテナだろうか、足元に楽器や楽譜が散乱しているのが面白い、彼女はこの世に降りてきて音楽を教えているのか、そして壁の絵は宗教画のよう

 

4 Lombard Schoolの画家 17Ce

ハープを持っているのは美しい肉体の天使、楽譜をじっと眺めて思案しているのが面白い、「難しそうな曲だな」とか思っているのだろうか、イタリアのロンバルド派の画家が描いたもの

 

5 Vermeer : ヴァージナルの前に立つ女 1672

ヴァージナルvirginalsはピアノに似た16、7世紀の楽器、裕福な家の女性が弾いている、壁の絵の一つはギリシア神話のエロスだから、ここでも音楽は神話と繋がっている、音楽は性愛と象徴的関係があるのか、昨日の絵のハープを持つ天使の美しい肉体もそうだったのか

 

6 Manet : 老音楽師 1862

さすがに19世紀、音楽は脱神話化されて世俗のものに、この絵は老音楽師を囲む集団が奇妙、右隣の男はマネ自身の落選した「アブサンを飲む男」1859の模写、左のジプシーの女はシュレシンジャー「さらわれた子供」1861から、白服の少年はワトー「ジル」からパクッたと言われる

 

7 Vasily Perov : Solitary Guitarist 1865

ワシリー・ペロフ1834~82はロシアの画家、民衆の絵をたくさん描いた、この「孤独なギター弾き」も、ほとんど仕事の口がない貧乏ミュージシャンに見える、練習で弾いているのか、溌剌とした元気さがなく、疲れて、表情も暗い

 

8 Cezanne : タンホイザー序曲 1869

セザンヌワーグナーが大好きだった、この絵は、ピアノ、人物、床、椅子や壁の模様など、色彩が黒・白・黒・白・・と並び、全体に楽譜のような音楽的なリズムが感じられる、この頃すでにオペラ以外にも「タンホイザー序曲」ピアノ編曲版の楽譜が普通に売られていたのか

 

9 Degas : オペラ座のオーケストラ 1870

中央にいるのはオペラ座バスーン奏者デジレ・ディオー、ただしオケの団員の並び方は実際と違い、ドガの知人たちを前景に集めたものになっている、みな真剣な表情だ、上部にバレリーナが見えており、ドガが踊り子たちを描き始めるのはこの絵以降

 

10 Renoir : ピアノの前のマンデスの娘たち1888

カチュール・マンデス1841~1909は、ユダヤ系フランス人で高踏派詩人、ルノワールとともにワーグネリアンとして知られている、左側の娘二人は彼の妻との子ではなく愛人との子らしい、右側はたぶんルノワールの娘だがこちらも非嫡出子、それはともかく彼の描く子どもは本当にいい

 

11 Lilla Cabot Perry:The Trio, Tokyo, Japan, 1898-1901

ペリーは夫が慶大教授として日本に滞在した時に家族ぐるみ来日、日本の家屋の室内で演奏する彼女の三人の娘たち、三人のドレスが美しく、その曲線性は、畳や床の間など和風の室内調度の直線性とよく調和している

 

12 Sam Klada :猫たちにセレナーデを弾くモーリス・ラヴェル

サム・クラダはブラジルのサンパウロで活動する現代のイラストレイター、猫の絵が好きらしい、この絵もたぶん最近のもの、ラヴェルが猫たちを前にセレナーデを弾いている写真が残っているのだろう、猫たちが音楽を聴いているというよりは、こちらをじっと見詰める目がいい

 

13 Serebriakova : Girls at the piano 1922

セレブリャコワの場合、「少女たち」と言っても、モデルはほとんど自分の娘、浅く腰かけたり、ピアノに凭れたり、姿勢とお行儀が少し悪いが、実際にこうだったのだろう、目が澄んで表情が生き生きしているのは、彼女の他の絵と同じ

 

14 Matisse : The Piano Lesson 1923

マティスの絵はどれも、色彩が美しいだけでなく、空間全体の作り出す均衡が素晴らしい、この絵も、右側は上下のベクトルが感じられるが、左側は空間がゆったりと広がり、安定した「重さ」があって、音が左側から右側へ見えない縦波となって広がっているかのよう

 

15 Yannis Tsarouchis : Half Naked Pianist 1971

ヤニス・ツァロウチス1910~89は現代ギリシアの画家で、船員など男性の絵が多い、この絵は、半裸で描かれているので、ピアノを弾くときの腕、肩、背中などの筋肉の動きがよく分る