ヘンデル『リナルド』

[オペラ] ヘンデルリナルド』 北とぴあ 11月29日

(写真は舞台、左から総大将ゴッフレート、英雄リナルド、ゴッフレートの弟エウスターツィオ、そして誘惑するサイレンたち)

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オケは、寺神戸亮指揮のレ・ボレアード。1711年、ヘンデル26歳の作品。男性はバリトンが一人いるだけで、カウンターテナーが活躍する作品。カウンターテナー中心のオペラは初めて見たが、とてもよかった。マッチョであるはずの総大将ゴッフレートもメゾソプラノの小柄な女性(布施奈緒子)なので、全体が男なのか女なのかよく分からない不思議な作品。昨年見た『アルチーナ』(ヘンデル)もトランスジェンダー作品で、男の役をほとんど女が歌う宝塚のような不思議な作品だったが、『リナルド』も似たところがある。『リナルド』は、オケの音楽が腰が据わっているというか、構造がしっかりして、全体が通奏低音のようなので、カウンターテナーたちの高音域の歌とよくマッチする。反対にリュリのオペラでは、オケの音楽全体が抒情的な旋律となって、ふっと流れる感じがあるが、ヘンデルのオケの音楽はどこまでもやや低音域の通奏低音的な感じだ。それがまた歌と対照的でとてもよい。そしてチェンバロの旋律が、オケの音楽の中からふっと浮かび上がることがあるが、その旋律は澄んで明るく天国的で、ものすごく美しい。物語はタッソー『解放されたエルサレム』にもとづいているそうだが、よくあるお姫様の救出物語で、別にどうということはない。主役の英雄リナルドやアルミレーナ姫が、どちらかというと凡庸な役柄であるのに対して、敵のサラセン軍の魔女アルミーダ(湯川亜也子)がすばらしい。アルミーダこそ本当の主役ではないかと思ったが、それは歌手がよかっただけでなく、アルミーダは主役たちと違って恋人に裏切られて激しく苦悩するからだと思う。『アルチーナ』もそうだったが、前半は話がなかなか進まずやや退屈だったが、後半は大いに盛り上がって、ほぼ完璧な構成といえる。マッチョ役を女性やカウンターテナーが歌うことによって、全体がやや“倒錯的”ではあるけれど、いや、そうだからこそ、このうえない美が現出するのだ。そこが『リナルド』や『アルチーナ』の魅力なのだろう。(写真下は、魔女アルミーダとアルミレーナ姫、その下はサイレンに誘惑される英雄リナルド)

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今日のうた(103)

 [今日のうた] 11月ぶん

(写真は吉屋信子1896~1973、少女小説で名高い作家だが、俳句や短歌も詠んだ)

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  • 秋しんしんからだの奥に霧ながれトランクはわが紺いろの馬

 (小島ゆかり『六六魚』2018、作者にしては難解な歌だが、詩的な美しさがある、駅か空港で、お気に入りの紺色のトランクに腰かけているのだろう、秋の空気の冷たさを「からだの奥に霧ながれ」と形容した) 11.1

 

  • 解読不能のメールを真夜くれて夫はいづくに酩酊すらむ

 (松山紀子『わたしの森も末端である』2019、これはいかにもありそうな情景、いつも残業などで遅くなる時は丁寧なメールをくれる夫が、今夜は「解読不能の」メールを送ってきた、少し心配する妻) 11.2

 

  • 女子トイレの多さは少女(をとめ)のあきらめし夢の数なり大劇場の午後

 (栗木京子『ランプの精』2018、作者は宝塚を見に劇場にいるらしい、宝塚は女性ファンが多い、トイレに並ぶ彼女たちを見て、この中には、少女のころ自分も宝塚に入ることを夢見た人たちもたくさんいるだろうと感じる) 11.3

 

  • 美知子さんみちこさんとてわれよりも妻にやさしき母なりしかな

 (山野吾郎『百四本の蝋燭 ― 母を偲ぶ百首』2019、104歳で亡くなった母を偲ぶ歌、作者の妻が「美知子さん」なのだろう、母が妻を呼ぶその声がいきいきと記憶に甦る、作者もかなり高齢のはず) 11.4

 

  • 銀色の高層ビルを仰ぐときおもふ近代断髪の女

 (米川千嘉子『牡丹の伯母』2018、高層ビルが立ち並ぶ都心のビジネス街で、颯爽としたキャリウーマン風の女性たちがビルからたくさん出てきたのだろう、昔、女が勤めに出て働くようになった頃の「近代断髪の女」の苦労をふと思う) 11.5

 

  • 声かかるほどに榠樝(かりん)の色づきし

 (依田明倫1928~2017、カリンの実は武骨な形をしているが、その黄色はよく目立ち、ちょっと「声をかけたくなる」親しみがある、我が家近くのカリンの樹にもたくさん色づいているので、通るとき思わず見てしまう) 11.6

 

  • 切株におきてまつたき熟柿(じゅくし)かな

 (飯田蛇笏、「よく晴れた秋の日、柿の木から捥いだ柿を、大きな切株の上に置いてみた、しっかりと熟した柿は赤く美しく光っている、本当に「まつたき熟柿」だなぁ」) 11.7

 

  • 菊の鉢廻転ドアに抱き悩む

 (吉屋信子、「こぼれんばかりに菊の花が咲いた大きな鉢を抱え持っている私、回転ドアのところにきた、ちょっと立ち止まってしまう、うまく通り抜けられるかしら」) 11.8

 

  • 逢ふことをいづくにてとか契るべき憂き身のゆかむ方を知らねば

 (選子内親王『新古今』巻20、「どこへいけば観音様に逢えるのかしら、どこで契れば(=約束すれば)逢えるのかしら、分んないわよ、だって私、方向音痴だもん、ただ浮き世を漂ってるだけだもん」、釈教歌なのに「逢ふ」とか「契る」とか恋の語彙で詠んでる、観音様は彼氏じゃありませんよ!) 11.9

 

  • 昼解けば解けなへ紐の我が背なに相寄るとかも夜解けやすけ

 (よみ人しらず『万葉集』巻14、「どういうわけかしら、昼間はなかなかほどけなかった私の下着の紐が、夜になると自然にほどけちゃう、そうよね、貴方が来る前触れよね、ああうれしい」) 11.10

 

  • 風をだに恋ふるは羨(とも)し風をだに来むとし待たば何か嘆かむ

 (鏡王女『万葉集』巻4、「風の音にさえ恋を感じるなんて羨ましいわ、風の音にさえ彼が来ると心がときめくなら、嘆くことないじゃない」、額田王の「君待つと我が恋ひ居れば我が宿の簾動かし秋の風吹く」に姉(?)が応えた歌) 11.11

 

  • わが恋はゆくへも知らず果てもなし逢ふを限りと思ふばかりぞ

 (凡河内躬恒古今集』巻12、「僕の恋は、どこに行くのだろう、どこかで終わるのではなく、永遠に続くのだろうか、あぁ、今はもう、ただひたすら貴女に逢いたい、逢うことが終りだと思うから」) 11.12

 

  • 秋風や模様のちがふ皿二つ

(原石鼎1915年、縁側か、あるいは外に向けて開け放たれた部屋だろうか、秋風が吹く寂しい夕方、そこに置かれた二枚の皿の「模様がちがふ」ことにあらためて気づく)11.13

 

  • 美(よ)きひとの後(あと)吸入をせんとする

  (山口誓子1935、作者は同年、肋膜炎を再発して治療を受けていた、この句も医者のところだろう、誰か知らない美しい女性の後に、酸素吸入の順番が回ってきた、何だか得した気分になっている作者) 11.14

 

  • あるものを着重ねつゝも肌寒し

 (高濱虚子1956、本格的な冬になれば分厚いセーターなどを着るが、秋はまだそこまで寒くない日もあるから、寒い日はつい「あるものを着重ねて」しのぎ、肌寒い思いをする、虚子晩年の句) 11.15

 

  • 焼栗も客も飛び行く夜寒かな

 (内藤丈草1662~1704、秋の夜もすっかり寒くなった、焼き栗を客が買って、「それを抱えて飛ぶように家に帰ってゆく」、江戸時代には焼き栗がどのように売られていたのだろう) 11.16

 

  • 火美(うるわ)し酒美しやあたゝめむ

 (山口青邨、酒の熱燗がうまい時期になった、「あたため酒」とも言うが、酒がうるわしいだけでなく、酒をあたためる火までうるわしい) 11.17

 

  • くらがりへ人の消えゆく冬隣

 (角川源義、冬がもうそこまで来ている、日没も早くなり「くらがり」が増えた、歩いている人が「くらがりへ消える」感じが、なんとも侘しい) 11.18

 

  • 秋深みならぶ花なき菊なれば所を霜の置けとこそ思へ 

(西行山家集』、所を置く=距離を置く、遠慮する、「秋も深まり花はみな枯れて菊だけが残っている、霜よ、せめて菊のある場所をよけて降りてほしい」、西行には理屈っぽい歌も多い) 11.19

 

  • 有明のつれなくみえし別れより暁(あかつき)ばかり憂きものはなし

 (壬生忠岑(みぶのただみね)『古今集』巻13、「せっかく来たのに貴女は逢ってくれなかった、夜が明け、月が空しく照っていた、あれ以来、明け方は僕にはとても辛い」、「来れど逢はず」のふられた歎き、百人一首にも採録) 11.20

 

  • あしひきの山鳥の尾のしだり尾の長長し夜を独りかも寝む

 (よみ人しらず『万葉集』巻11、「山鳥の尾はとても長いよ、その長い尾みたいに、今夜も長いなあ、ああ、この長い夜を僕はまた独り寝で過ごすのか」、百人一首では人麻呂作とされているが、作者不詳の歌) 11.21

 

  • 待たましもかばかりこそはあらましか思ひもかけぬ今日の夕暮れ

 (和泉式部『日記』、「もし貴方を待っていたら、こんなつらい思いをしたかしら、貴方の代わりに手紙も持たない童が来たなんて、ああ、こんな悲しい今日の夕暮れ」、敦道親王が来なかったのを恨む歌) 11.22

 

  • つらからば恋しきことは忘れなでそへてはなどかしづ心なき

 (馬内侍『新古今』巻15、「私をそでにした貴方が恨めしいなら、貴方への恋しさなんか忘れそうなのに、そうならないだけでなく、どうしてこんなにそわそわしちゃうのかしら私」、昔の恋人に手紙をもらった返し) 11.23

 

  • 流れ出でむ憂き名にしばしよどむかな求めぬ袖の淵はあれども

 (相模『新古今』巻15、「貴方と付き合うと噂が世間に流れるでしょう、それが怖くてためらっちゃうのよ、私の袖の淵には涙が一杯にたまって、身を投げられるほど深いけれど」、噂が怖くて恋しい男と付き合えない歎き) 11.24

 

  • 母と子と拾ふ手許に銀杏散る

 (高濱虚子、母と小さな子が、きれいな落葉を選びながら拾っているのだろう、その「手許に」どんどん新しい銀杏の葉が落ちてくる、銀杏が散り始めると、落葉の量は半端でない) 11.25

 

  • はじめより掃かでありたる散紅葉

 (後藤夜半、「掃いた形跡がまったくなく、散った紅葉がすべて、そのまま地面にある、家の人に何かあったのだろうか」、「紅葉」は秋の季語だが、「紅葉散る」は冬の季語、初冬の寂しさを感じさせる) 11.26

 

  • 水草や水ある方に枯れ残る

 (正岡子規、「このあたりの多くの草は枯れてしまった、水草も少しづつ葉の縁から枯れているが、池の水の一番深いあのあたりは、緑の水草がまだ残っている」) 11.27

 

  • 枯草と一つ色なる小家かな

 (一茶、枯草と同じ色のあの小さな「小家」には、貧しい一家が住んでいるのだろう、そこにいる見えない人々への共感、一茶らしい優しさが感じられる) 11.28

 

  • ごめんごめん俺のでんわは糸電話 鳩がとまると通じへんねん

 (田中道孝『角川短歌』11月号、作者1959~は本年度の角川短歌賞受賞者、建設技師だろうか、工事現場の歌が並ぶ、大きな工事現場に連絡用の細い電線が張られているのか、そこに「鳩が止まった」) 11.29

 

  • わたくしが眠ってしまえばこの部屋は月のみの射す密室となる

 (鍋島恵子『角川短歌』11月号、作者の寝室には月の光が射して美しい、しかし一人でいる孤独のようなものも感じられる、眠ったまま死んでしまっても誰も気が付かない、作者1977~は本年度の角川短歌賞受賞者) 11.30

杉原邦生演出『グリークス』

[演劇] 杉原邦生演出『グリークス』   横浜KAAT  11月21日

(写真↓はコロス、今回の舞台はコロスが素晴らしく、全体の主人公であるように感じた、コロスはすべて登場人物が兼ねていて、中央がエレクトラ、その左テティス、左端イピゲネイア、右から二人目アンドロマケ、右から三人目ヘレネ(たぶんアフロディーテも)、ヘレネが美女でないのは重要な演出意図)

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私は『グリークス』は、コクーン蜷川幸雄演出(2000)、昴の上村聡史演出(2016)を見ているので、この杉原邦生演出は三度目になる。10時間は辛いが、本当に見応えがある。今回の杉原演出は、フェミニズム版ともいえるもので、女たちの存在感が素晴らしい。一人一人の女たちがそれぞれ、全身で、激しく、自己を主張し、出番でないときはコロスとなって、大いに歌い、語る。トロイ戦争では結局女たちが一番苦しむのであり、クリュタイメストラも、ヘレナも本当は決して悪くないのに、男たちと神々の身勝手のおかげで、悪女にされてしまった。そうした苦しみと葛藤を経て、最後の「タウリケのイピゲネイア」終幕では、自由へと解放された女たちが全員集合して円陣を組んで踊る。ここは本当に素晴らしかった。私は今まで、『グリークス』はなぜこの十個の作品で構成されるのか、「(エジプトの)ヘレネ」などかえって話が混乱するのでは、と疑問に思っていたが、今回の演出で、この十個の構成の意味が分かった。(写真下の2枚は↓、帰還したアガメムノンカサンドラカサンドラと終幕のイピゲネイアが日本の巫女姿なのがいい、その下はクリュタイメストラ)

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冒頭の三女神の美人コンテストも、本当は男たちの欲望に沿ったゲームであり、ヘレネも含めて女たちはみな(女神たちも)、男たちの性的欲望の被害者なのだ。私は最前列中央の席だったので、一人一人の顔がよく見えたが、アフロディーテが美人でないのに衝撃を受けた。だが、これこそ演出の意図なのだ。美人コンテスト、アウリスのイピゲネイア、で始まり、タウリケのイピゲネイア、で終わる構成は、女たちの解放というフェミニズムの線で考えるとよく分かる。「(エジプトの)ヘレネ」も、神々の恣意性や遊びを非難する主旨であり、ヘレネは神々の遊びの被害者だという点がポイントなのだ。ヘレネを美人でなく造形したのも、重要な演出意図。『グリークス』の主人公は女たちであり、神々への批判、男性への批判が基調トーンになっている。女たちが激しく自己を主張するのに対して、男たちはどこか滑稽キャラになっている。メネラオスギリシア悲劇の原作でも滑稽キャラだが、この上演は、アガメムノンアキレウスも滑稽キャラになっている。(写真下は、メネラオスアガメムノン、そしてアキレウステティス(彼の母)、アキレウスが甘えん坊の坊やになっているのがいい)

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それにしても、女たちは本当に輝いている。エレクトラクリュタイメストラ、アンドロマケが、それぞれきわめて個性豊かで、激しく自己を主張するのは原作もそうだが、今回は、それに加えてカサンドラ、イピゲネイア、ヘルミオネ、クリュソテミスなどもそれぞれ個性的で、激しく自己を主張する。そして、登場する神々が徹底して滑稽キャラなのがいい。アフロディーテは不器量なねえちゃん、アポロンは芸人の下品なおっちゃん、アテナは本を担いだ元気な本屋のおかみさんだ。そう、『グリークス』は女の解放の物語なのだ。ギリシアの原作も、じっくり読んでみると、そういう側面があるのかもしれない。アリストファネス『女の平和』だけではないのかもしれない。(写真下は、左からプリアモス、ブリセイス、アキレウス)

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 動画です↓。30秒ですが、女たちが輝いています。

https://www.youtube.com/watch?v=FRtFspKIFOo

映画『マチネの終わりに』

[映画] 平野啓一郎原作『マチネの終わりに』  11月16日 熊谷シネティアラ21

(主人公の二人は、卓越した人物で素晴らしい魅力をもっているが、彼らの恋は人生で3回しか会えなかった、そしてその後、4回目は別れの出会いであり、ニューヨーク・セントラルパークですれ違い、目と目が合って微笑みを交わすだけ)

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 原作の小説が大好きなので、さっそく映画版を見に行った。たいていは小説を映画化すると、つまらない作品になることが多いが、本作は違う。人の人生は、みな孤独で寂しいけれど、人生でたった3回(東京で1回、パリで2回)会うだけで、そして4回目は別れとして出会うだけで、人間は何と美しく輝くのだろう!原作の最後、ニューヨークの蒔野の演奏会が終り、セントラルパークで偶然すれ違う二人は、こう描かれている。「蒔野は、彼女を見つめて微笑んだ。洋子も応じかけたが、今にも崩れそうになる表情を堪(こら)えるだけで精一杯だった。バッグを手に立ち上がると、改めて彼と向かい合った。蒔野は既に、彼女の方に歩き出していた」(p402)。だが、映画では、この「彼女の方に歩き出す」シーンがない。二人は10メートル以上離れており、涙目になった彼女の顔で映画は終わる。二人は体をわずかに動かし始めるが、近づいて抱き合うのではなく、それぞれが未来に向かって前に歩き始めるように私には見えた。二人はもう会うことはないだろう。永遠の別れ。だが、宇宙の時間がそのとき止まり、二人の愛の「永遠の今」が現出する。二人がともに口にした「未来は過去を変える」とは、こういうことなのだ。

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愛がこれほど美しく描かれている作品はめったにない。それは、愛を贈与されるものとして描いているからである。愛の贈与とは、愛する側が愛される側に愛を与えるのではない。その逆である。愛される側が愛する側に愛を贈与するのである。洋子が蒔野に愛を贈与するというのは、蒔野の中に洋子への愛の感情を灯すことである。暗闇の中に小さな灯がともるように、それはまるで恩寵のように贈られる。洋子はそれを意識して行うわけではない。まったく無意識に愛を贈与しているのだ。そして蒔野にとって、洋子から愛が贈与される(=洋子に対して愛を感じる)のは徹底して受動的な経験である。まったく同様のことが、蒔野から愛の贈与を受け取る洋子にも言える。つまり、相思相愛とは、どちらも相手から愛の贈与を受け取るという受動的な感情の生起であり、「愛する」という能動性、他動詞的な要素は一つもない。原作の小説を読んだとき私は、蒔野のマネージャーの早苗が、蒔野の携帯から偽のメールを洋子に打って二人を別れさせるところが、何か不自然に思えた。だが、映画では、まったく不自然に感じない。早苗の蒔野への愛がそうさせたのであり、彼女の自由意志ではなく、牧野が無意識に贈与した愛がそうさせたのだ。洋子も蒔野も自由意志によって主体的に行動しているようには見えない。贈与としての愛を受け取ることにおいて、人間はどこまでも受動的なのだ。蒔野の孤独は非常に深い。長いスランプに陥った彼が演奏家として復活できたのは、彼の演奏を洋子が聴いたから、そしてその喜びを彼女が蒔野に伝えたからである。音楽が二人を結びつけ、音楽が、洋子を通して、蒔野を救済したのだ。そう、音楽もまた恩寵である。映画の全篇に流れる蒔野のギターは、彼の祈りのように、そして運命が贈与する讃美歌のように聞こえる。

 

原作で二度引用されるリルケ『ドゥイノーの悲歌』。映画もこれがすべてを語っている、

「・・・天使よ! 私たちには、まだ知られていない広場が、どこかにあるのではないでしょうか? そこでは、この世では遂に、愛という曲芸に成功することのなかった二人が、・・・彼らは、きっともう失敗しないでしょう、・・・再び静けさを取り戻した敷物の上に立って、今や真の微笑みを浮かべる、その恋人たち・・・」(リルケ『ドゥイノーの悲歌』)

 

ニーチェは、芸術は生の最高の肯定、祝福であり、生へ誘惑する偉大な女であると述べている。「芸術における本質的なものは何といっても[人間の]生存の完成状態と充実の産出にある。芸術は、本質的に生存の肯定、祝福、神化である」「芸術は生を可能にする、生へ誘惑する偉大な女であり、生への大きな刺激剤である」(『残された断想』白水社版全集第10巻p541、第11巻p50)。ニーチェに加えて言うならば、彼のいう「生の最高の肯定、祝福」の絶頂に当たるものが「永遠の今」であり、芸術は「生を可能にする偉大な女」であるから、「永遠の今」は「愛の現出」の祝福でもあるだろう。『マチネの終わりに』から、まさしくそれを私は感じた。

(写真下は、中央がマネージャーの早苗)

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『マチネの終わりに』における「永遠の今」は、プログラムノートを読むとよく分かる。監督の西谷弘によれば、最後のセントラルパークの出会いの場面を原作から少し変え、池の所にした。その理由は池の中の「噴水を丸い地球に見立てる」ためである。つまりそこはコスモロジカルな宇宙空間であり、全宇宙の時間が止まり、そこに立ち尽くす二人に「永遠の今」が現出するのだ。

また洋子を演じた石田ゆり子はインタビューでこう語っている。

> ―― 洋子と蒔野は、三度しか会わなかった二人ですね? /・・・人と人が出会う。その関係性でいちばん大事なことは、相手の人生を否定しない。尊重していくこと。どんなに愛しても、その人は自分のものにはならない。自分の人生も人のものにはならない。それぞれ自分の人生を生きていく過程で出会うしかないわけです・・・。そういう意味でこの二人の関係って、せつないけれど理想的で。結ばれない恋かもしれないけど、でも永遠の絆を伴っている。

> ―― そして、ラストの洋子の表情・・・ / 特別な時間ですよね。その時間だけが永遠に残るような時間だろうと思いました。

石田は、『マチネの終わりに』の核心を本当によく理解している。運命すなわち他者に対する二人の関係性の総体が、二人の身体に内面化していること、それが出会いをもたらし、互いに惹かれあって、二人は恋に落ちる。このように運命が贈与する愛は、「永遠の絆を伴い」そして「永遠に残る特別な時間」である、と彼女は明言している。

(写真↓は、大崎で蒔野に会えなかった洋子)

f:id:charis:20191121053119j:plain 1分半の動画がありました。

https://natalie.mu/eiga/gallery/news/354613/media/41727

今日のうた(102)

[今日のうた] 10月ぶん

(写真は原石鼎1886~1951、虚子門下で、大正期の「ホトトギス」で活躍した)

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  • 秋晴れの日本は首相をヒトラーに喩へようとも罰せられぬ国

 (栗木京子『ランプの精』2018、作者はデモに参加して、そして詠んだ歌の一つ、表現の自由は、人間の権利の根本に関わる問題、愛知トリエンナーレ「表現の不自由展」を見れば分かる) 10.1

 

  • 地下室で君は目を弓のようにしわたしに触れた鮮やかな夜

 (川谷ふじの『角川短歌』2019年8月号、作者は2000年生まれの若い人、第61回短歌研究新人賞受賞、初恋のときだろうか、彼氏が「目を弓のようにし」たというのがいい、作者も「地下室で」緊張していたのが分る) 10.2

 

  • 照らすもの持たないままに灯台の放つあかりは闇を横切る

 (伊波真人『角川短歌』2019年7月号、作者1884~は歌誌「かばん」会員、灯台のサーチライトは何かを照らすためのものではない、海上からその光の点が確認されればよいから、その放つ「あかり」はつねに闇の先まで届く、そしてこれは何かの比喩でもありうるだろう) 10.3

 

  • 夕焼けの空に穴ありわたりゆく先頭の鳥見えなくなりぬ

 (小島ゆかり『六六魚』2018、雁など渡り鳥の姿をよく見る頃になった、遠くなるまでずっと見続けていると、あるところで突然フッと視野から消えてしまう、まるでそこに穴があるかのように) 10.4

 

 (稲畑汀子ムクゲの花は本当に季節が長い、我が家のご近所では7月から咲き始め、今は別の家のムクゲが咲いている、夕方になると花をたたむのがとてもいい) 10.5

 

  • 逢ひにゆく袂触れたる芙蓉かな

 (日野草城、芙蓉の花は美しい女性の姿を思わせる、作者は女好きで名高い俳人、自分の袂に触れた芙蓉の花を、これから「逢いにゆく」女性に見立てないわけにはゆかない) 10.6

 

  • コスモスに雨の狼藉残りをり

 (岩垣小鹿、たくさんのコスモスが咲くとき、方向や角度は揃っておらず、奔放に、乱雑に、咲いているのが、コスモスの野性的な美しさ、そして、にわか雨が降った直後は、水滴の重みでもうメチャメチャ、まさに「狼藉が残っている」) 10.7

 

  • ざつと降れば三十分ですむ雨が出し惜しみして夕べまで降る

 (馬場昭徳『夏の水脈』2019、たしかにこういうことはある、天気予報ではすぐ上がるはずの雨が、降ったり止んだりして、「夕べ」までぐずぐずしている、「出し惜しみして」がいい) 10.8

 

  • 外国に似た遠さかな東京もわがふるさとも「内地」と呼ばれ

 (松村由利子『光のアラベスク』2019、作者1960~は、毎日新聞の記者だった人、2006年から石垣島に住む、そこでは作者の故郷の福岡県も東京も、ひとしく「内地」と呼ばれる) 10.9

 

  • ゆふあかねしづかに充ちて回送の電車に下がる吊り革の群れ

 (小谷陽子『ねむりの果て』2019、「ゆっくりとホームを通り過ぎてゆく回送電車には、人は誰もいないが、室内に夕陽の光が溢れて、たくさんの吊り革が揃って揺れている」、「ゆふあかねに揺れる吊り革」というのがいい) 10.10

 

  • コーヒ店永遠に在り秋の雨

 (永田耕衣『殺佛』1978、当時78歳の作者には、仕事の打ち合わせなどにも使ったなじみのコーヒー店が近所にあった、その店がよほど好きだったのだろう、秋雨の降るある日、店は「永遠に在る」ように感じる) 10.11

 

  • 猪(ゐのしし)もともに吹かるる野分かな

 (芭蕉1690、「いやあ、すごい台風だな、あそこにいるずんぐりした猪も、動けないほど吹きまくられて、うずくまっている」、当時、芭蕉滋賀県大津の「幻住庵」に滞在していたが、付近には猪が出没したと『幻住庵記』にある) 10.12

 

  • 山川に高浪も見し野分かな

 (原石鼎1886~1951、台風で増水すれば、山沿いを流れるたいして大きくない川にも「高浪」が立つ、今回の台風19号でも、山川ではないが、植村の住む近所の荒川、利根川、そして東京の浅川や多摩川の増水や高浪には驚いた、四つの川はどれもよく知っているので) 10.13

 

  • 音もなく殖えて悲しや秋出水(あきでみづ)

 (高濱虚子、「台風一過、刈り入れを待つ稲や家々が、音もなく増水した出水につかっている、悲しい光景だ」、「秋出水」とは台風などで川が増水して溢れること、今回の台風19号でも同様の状況が) 10.14

 

  • 月に行く漱石妻を忘れたり

 (夏目漱石1897、「僕は月に見とれて、すっかり夢見心地になっていたので、妻のことを忘れてしまったよ」、漱石は熊本の第五高等学校に赴任したばかり、妻は隣りで月見をしているのではなく、流産したばかりで東京で静養していた、昨夜は中秋の名月) 10.15

 

  • 木犀の昼はさめたる香炉かな

 (服部嵐雪、「ひんやりとするの秋の昼間、木犀のいい香りが漂ってくる、でも香りは夜よりわずかに少ないかな、<ちょっとさめた香炉>みたい」、今年はだいぶ遅かった我が家の金木犀は、台風で花芽がかなり散って、そして咲いた) 10.16

 

  • だれのこころも知りたくないというわれに金木犀は錆びて香りぬ

 (米川千嘉子『牡丹の伯母』2018、秋になって初めて金木犀の香りを感じる時、人の心に去来する感情や内容は千差万別だ、たまたま「誰の心も知りたくない」というネガティブな心情だった作者は、香りも「錆びて」感じる) 10.17

 

  • うつくしう 嘘をつくなう 唄うなう うい奴ぢや さう 裏梅のやう

 (小池純代『梅園』2002、「裏梅のやう」というのが、とても印象的だ、「裏梅」とは、梅の花を裏からみた形をデザインしたものらしい) 10.18

 

  • 解き衣(きぬ)の恋ひ乱れつつ浮き真砂(まなご)生きても我はありわたるかも

 (よみ人しらず『万葉集』巻11、「ほどいた着物のように乱れに乱れて貴方を恋している私は、流れに浮いた砂のように生きているのね、ずっといつまでも」、男の訪れを待つ女の漂流するような苦しさ) 10.19

 

  • 秋の野の尾花にまじり咲く花の色にや恋ひむ逢ふよしをなみ

 (よみ人しらず『古今集』巻11、「秋の野のすすきに混じって咲く花は特に目立つよね、よし僕も、それを真似て、はっきり人目につくよう行動するからね、だって君はこっそりと逢ってくれないんだもの」) 10.20

 

  • 玉水(たまみづ)を手に結びてもこころみむぬるくは石の中も頼まじ

 (よみ人しらず『新古今』巻14、「この澄んだ水を手にすくって飲んでみよう、ひんやりと新鮮ならがいいが、もしぬるかったら、石井戸の水を飲むのはやめよう、僕たちの間はもうマンネリになったのだから」) 10.21

 

  • 松の葉の地に立並ぶ秋の雨

 (内藤丈草1662~1704、「秋雨が静かに降っていて、松の樹がすっかり濡れている、樹の下を見ると、落下した松の葉が、苔むした庭にそのまま突き刺さって、何本も立っている」、寺の庭だろうか、非常に観察が細かい)10.22

 

  • 樅(もみ)の木のすんと立(たち)たる月夜哉

 (上嶋鬼貫1661~1738、「モミの大木が月夜にすっきりと立っている」、モミの木といえば、クリスマスツリーの連想で西洋由来のものと勘違いしていたが、昔から日本にも自生していたのだ、この句は「すんと立たる」がいい) 10.23

 

  • 大原女(おはらめ)や野分にむかふかゝへ帯

 (斯波園女1664~1726、「台風の風にもかかわらず、しっかり帯を結んだ大原の女たちが、荷を頭に載せて、京都へ向かって歩んでゆく」、「大原女」とは工芸品などを頭に載せて京都へ売りにゆく大原の女たち、「かゝへ帯」は、腰に巻きつける帯) 10.24

 

  • 恥もせず我(わが)なり秋とおごりけり

 (立花北枝 ?~1718、作者は金沢の人、1689年に芭蕉を家に迎えた時の句、「こんなみすぼらしい我が家なのに、「うちの秋の庭はいいですよ」と自慢して、芭蕉先生をお迎えしてしまった、先生どうぞおくつろぎください」) 10.25

 

  • なみなみと零(こぼ)れ出そうな心抱きプラットフォームに沿って歩めり

 (川谷ふじの『角川短歌』2019年8月号、まだ十代の若い作者2000~は恋をしているのだろうか、それとも何かを一身に考えているのか、プラットフォームをまっすぐ歩いている、「なみなみとこぼれ出そうな心」を抱いて) 10.26

 

  • 月にむかい汝を負へば背中よりふたたびわれへ入りくるような

 (江戸雪『椿夜』2001、生まれた赤ちゃんを背負って月を見ているのだろう、赤ちゃんが動いたのか、自分の体の外にいるはずの赤ちゃんが「ふたたび自分の体の中に入ってくるように」感じた、「汝」と言ったのがいい) 10.27

 

  • きみが胸にわが影いくつ残したる互(かた)みに違ふ時間を生きて

 (今野寿美『花絆』1981、恋が始まった頃の歌だろう、作者は20代半ば、笑わない暗い少女だった作者が恋をしたのは歌人の三枝昂之、それぞれ仕事で忙しかったのか、数少ない過去のデートを回顧して懐疑する切なさ) 10.28

 

  • 単純な倫理に科学責めたれば愛より確(しか)とわれを憎むや

 (米川千嘉子「夏空の櫂」1985、20代前半の作者、情報工学専攻で東大大学院生の彼氏の、科学者らしい素朴な倫理観を批判したら、「科学は男女の愛よりずっと確実だ」と強く反論された、「私嫌われちゃったかしら」と悩む作者) 10.29

 

  • お二階にヨガしてをられ花芒(はなすすき)

 (梶川みのり『転校生』2004、ご近所の裕福な御宅だろう、「お二階」でヨガをして「をられる」のはたぶん奥様か、庭にはススキの花ががたくさん咲いている、ススキとヨガの取り合わせがとてもいい) 10.30

 

  • かたすみのかたいすすきを描(か)く絵筆

 (宮本佳代乃、俳誌「豆の花」2012年4月、さまざまな花が活けられた大きな花束を絵に描いているのだろう、花束の中央にある色鮮やかな花ではなく、むしろ地味な「かたすみの、かたい」ススキを描くとき、絵筆が生き生きと動いている) 10.31