[文楽] 近松門左衛門『曽根崎心中』

[文楽] 近松門左衛門曽根崎心中』 9月20日 国立劇場

劇場建て替えのため「さよなら公演」。人形遣いは、二人とも人間国宝の、吉田和生(お初)と吉田玉男(徳兵衛)。これまで、『曽根崎心中』は『心中天網島』に比べると、心中する必然性が弱いと感じていたが、これはこれでよいのだと分かった。九平次が徳兵衛から金を取ったのは完全犯罪で、徳兵衛は抵抗できないから死ぬしかない、お初は九平次に「徳兵衛が死んだらお前を可愛がってやるぜ」と言われたから、やはり死ぬしかない、ということなのだ。

 

曽根崎心中』の素晴らしいところは、最後の「天神森の段」で、二人の心中の心理、発話、行為を丁寧に真正面から表現していることにある。全体の筋は単純だが、とにかく言葉が美しい。すべてが完全な詩になっている。「天神森の段」はあまりに言葉が美しいので、一部を植村流に現代語に言い換えたくなった。以下がそれ。

 

・・北斗七星があんなに冴えて、水面に映って輝いているわ。私たちは死んで、織姫と彦星のように、天の川の星になるのね。この梅田の橋は、結婚を寿ぐカササギなのよ。・・おお、あそこに二つ人魂が飛んでいる。僕たち以外にも、ここで心中した人がいるんだね。・・ええ、あれは貴方と私の魂でもあるのよ。・・そうだ、あの二つの人魂が一つに合体するように、二つとも飛び方を間違えないでくれるといいね。僕たちもああして、あの世で一つになるのだから。・・僕は、あの世で、父と母と会いたい。・・貴方はいいわね、私の父と母はまだ元気で存命だから、私はあの世では会えないわ、それだけが悲しい、ああ、懐かしいお母さま、名残おしいお父さま、せめて私を夢に見てください、そうすれば会えるから・・・

 

最後の科白はとても悲しい。身売りされて遊女にならざるをえなかったわけだから、ふつうなら親を怨んでいてもよいはずだが、お初はそうではないのだ。

[オペラ] ヴェルディ《ルイザ・ミラー》 アーリドラーテ歌劇団

[オペラ] ヴェルディ《ルイザ・ミラー》 アーリドラー歌劇団 大田区民ホール 9月10日

アーリドラー歌劇団を初めて知ったが、東大出身の弁護士・山島達夫が創立したヴェルディのオペラのみを上演する団体。指揮もすべて山島。今回の舞台は、演出が木澤譲、ダンスの振付が能美健志で、全体にコンテンポラリーダンスを組み合わせた斬新なもの。合唱がいまいちだったが(合唱団の大部分がアマチュアだと思う)、ルイザを歌った鈴木麻里子は素晴らしく、他の主要歌手たち(主に二期会)もとてもよかった。

 

この作品は、5年前にMetライブで観たことがあるだけだが、25歳シラーの戯曲『たくらみと恋』を36歳のヴェルディがオペラ化したもので、全体に若々しい勢いがあり、若きゲーテやシラーが登場したとき「疾風怒濤Sturm und Drang」と呼ばれたが、おそらくそれがオペラで表現されている。コンテンポラリーダンスの激しい動きも、まさに「疾風怒濤」的だ。シラーの原作では、ルイザの恋人のロドルフォが、ルイザが強制的に書かされたニセ手紙に騙されたまま、ルイザが心変りしたと早とちりして、ルイザを殺そうとするところが『オセロ』的で、全体の『ロミ・ジュリ』的な展開と不調和な気がするのだが、そこはさらに考えてみたい。(写真↓、左から指揮の山島達夫、ルイザの鈴木麻里子、ロドルフォの小貫岩夫)

この作品は、娘ルイザと父ミラーの父娘愛が真の主題だから、『リゴレット』『ヴァルキューレ』『リア王』などと同様に、「父娘もの」のジャンルに属する傑作というべきだ。音楽も、ヴェルディのあの浮き浮きするような明るく美しい旋律美と(たとえば「乾杯の歌」のような)、荘厳で迫力あるベートーベン的な音響とが絶妙に交差するという意味で、真にヴェルティ的な作品なのだと思う。

 

アーリドラー歌劇団を創設し、上演の企画・オケの指揮を独りで行う山島達夫は、プログラムノートにこう書いている。「仮に二日間の上演すべて満席にできたとしても、多額の赤字は必至です。もちろん生じた赤字は、すべて主宰者である私の責任となります。それにもかかわらず、私がヴェルディの自主上演に人生を捧げているのはヴェルディをキーワードにした「コミュニティ」の再生という私なりの壮大な「夢」があるからです。」10日は6割の入りだった。つまり、彼は弁護士で稼ぎながら赤字を埋めているのだ。凄いではないか。筑駒の同窓会名簿で調べたら、彼は44期生だから、まだ若い。合唱団の充実が課題だろうが、これからも頑張ってほしい。

 

[今日の絵] 9月前半

[今日の絵] 9月前半

1 Andrea Mantegna:聖マルコ1448

マンテーニャ1431~1506はイタリア・ルネサンス期に、パドーヴァで活躍した画家、この絵は残された絵で一番若い時のもの、窓の欄干に左肘をついており、親指は顎を押さえている、「聖人」にしては意外な姿勢で、顔も面白いオジサンという感じだ

 

2 Adriaen Isenbrandt : ロザリオを持つ青年

アドリアン・イーゼンブラント1490頃~1551はオランダの画家、宗教画や肖像画を描いた、この絵は代表作の一つだが、かすかに不安を感じているような表情が、繊細に描かれている

 

5 レンブラント:自画像1650

レンブラント1606~69は生涯に自画像をたくさん描いているが、若いときのものを除くとどれも、深い<疲れ>のようなものを感じさせる、画家である自分を懐疑しているのか、最後まで、画家である自己に百パーセントの自己肯定感を持てなかったのか

 

6 Orest Kiprensky : Newspaper Readers in Naples 1831

オレスト・キプレンスキー1782~1836はロシアの肖像画家、プーシキンの絵など有名、イタリアにも滞在、この絵は、左側の男が新聞を読み上げ、他の三人が熱心に聞いているが視線はバラバラ、重大事件なのか、彼らはナポリ在住のポーランド人らしく、政治的事件なのだろう

 

7ゴッホ : ウジェーヌ・ボックの肖像(別名「詩人」)1888

ウジェーヌ・ボック1855~1941はベルギーの裕福な実業家の出身で、画家・詩人。ゴッホを経済的に援助した友人。ゴッホはボックを「ダンテを思わせるような風貌の持ち主で、オラニエ公ウィレム1世時代のフランドルの紳士貴族を連想させる」 と評したとか

 

8 Cezanne : Peasant 1891

セザンヌの人物画はどれも表情に深みがあるように感じられる、線よりは色彩で「形態」を表現しているからだろうか、この絵も「農夫」だが、「素朴」「朴訥」という感じではなく、その表情に深い「精神性」のようなものが感じられる

 

9 Picasso : The suicide (Casagemas) 1901

ピカソが19歳のとき、友人のカルロス・カサヘマスは失恋の悲しみで自殺、その額にはピストルの痕があるが、顔は眠っているようにも見える、意図的にそのように描いたのだろう

 

10 Thomas Eakins : Selfportrait 1902

エイキンズ1844~1916はアメリカの画家、彫刻家、写真家で、写実を追究し「アメリカ近代美術の父」と呼ばれることも、解剖を描いた「グロス・クリニック」が代表作、この絵も、自分を美化することなく「ありのまま」を描いたのだろう

 

11 Serebriakova : Portrait of a son Alexander 1925

セレブリァコワ1884~1967はウクライナ生まれのロシアの画家、家族をたくさん描き、どの絵も描かれた人物への愛情に溢れている、これは息子のアレクサンドル、まだ十代だろう、当時彼女は、夫の亡きあと4人の子供を必死で育てていた

 

12 Balthus:Self portrait 1940

バルテュス1908~2001といえば少女の絵ばかり有名だが、これは自画像、対象を見詰める鋭い視線、絵筆や布を握る手など、絵を描くまさにそのときの画家の様子がみごとに表現されている

[演劇] 加藤拓也 『いつぞやは』

[演劇] 加藤拓也 『いつぞやは』 シアター・トラム 8月29日

(写真↓は大腸ガンで死期も近い一戸(平原テツ)と高校時代の同級生真奈美(鈴木杏)、下は手術で切り取った大腸を見せる一戸。急遽代役で主役の一戸を務めた平原は、一戸という一人の男を「必然性のある可能態として再現した」(アリストレス『詩学』)素晴らしい役者)

加藤拓也を観るのは初めてだが、「人と人とのありうべき繋がり」「人と人との望ましい距離感」を追究した傑作だ。現代の若者たちは、互いにクールな関係を好み、あまり「熱い」「濃い」関係を好まないと言われる。それはその通りなのだが、一方で彼らは、互いの距離を上手く保つために、過剰なくらい繊細な気遣いや気配りをする。これが本作の主題。数年前まで友人たちと演劇をしていたヘボ役者の一戸は、ステージⅣの末期の大腸ガンになり、故郷の青森に帰るが、その前に、かつての演劇仲間と一度会いたくてたまらないが、「ガンで故郷に帰るから一度会いたい」などと言えば仲間たちは心配するだろうから、「(自分でチケットを買い)たまたま演劇を見に来て」、偶然会ったという形にした。しかし歓談しているうちに、ぽろっと自分のガンのことを言ってしまい、仲間たちは衝撃を受ける。しかし、一戸は「俺、別に悲観してないんだ」とわざと明るく振る舞い、仲間たちも受けた衝撃を隠して、明るく冗談を言い合う。悲しみや辛さを隠すために、人はわざと明るく振る舞うことがあるが、その明るさにはある種の危うい緊張があり、悲しみを抑圧しているピリピリした痛みが伴う。その緊張の痛みをさまざまな角度から照らし出して見せるのが、本作の実質的な内容だ。演出の加藤から俳優たちに、「本当はこう反応したいけどみんなの前で感情を出すのは恥ずかしいからそれを隠す」という指示があったらしいが(プログラムノート)、たしかに人間はこのように生きている。一戸と仲間たちは、一緒に歌ったり踊ったり、異様な躁状態になってゆく(写真↓)。そういえばチェホフ劇にも似たような局面があり、ごく最近観たS・ホームズ演出『桜の園』も、異様に高揚した躁の気分に溢れていたが、おそらく本作と同様、悲しみや辛さを隠すために人は過剰に明るく振る舞うのだ。

本作は細部がとてもよくできている。たとえば、SNSで友人が投稿しているのを見つけたが、フォローするかどうか悩むシーンがある。それが友人である場合、どちらが先にフォローするかで、互いに相手とどのような離感にあるかに微妙に影響する。そこまで現代の若者は気を遣っているのだ。私のような年配者の世代とは、人と人とのつながり方、距離の取り方が、少し違ってきているのか。あるいは、誰かが話している最中に仲間の一人が全然別の話題を話し始めるシーンが何回かあるが、これは最初の話を聞いていると辛くなるからあえて聞かない、話題を変えようという、屈折した気配りなのかもしれない。そして、最初は「もう、やりたいことは特にない(だから死んでもいい)」と言っていた一戸が、仲間たちと交流するうちに、「まだやりたいことあったな」に変わってくる。真奈美に対して、「お前バツ2で子持ちか、俺も結婚してみたいな、子供もほしいな」と言う。それに応えて真奈美は死の直前の一戸と結婚する。それも、これみよがしにやるのではなく、終幕、一戸の死を電話で連絡してきた真奈美から、仲間たちはそのことを知って泣く。一見アバズレに見える真奈美は、人の気持ちがよくわかる優しい人間だった。そのことを我々は事後報告という形で過去形で知る。この過去形が『いつぞやは』というタイトルに含意されている。一戸自身も、死期が半年ないというのに、強がりや冗談を連発しつつ、よく歩けないほど衰えた母に優しく付き添っている。優しさの感情を人に堂々とみせつけるのはとても恥ずかしくてできない。だから優しさと反対のように見える言動もする。人間の<優しさ>というもののデリケートな在り方を、実に繊細に多面的に提示するのが『いつぞやは』なのだ。

 

あと、プログラムノートにあった是枝裕和と加藤拓也の長い対談が、きわめて充実している。演劇における演技、映画における演技、それぞれの科白と録音方法やカメラの位置、そして人物の動きが物語とどう関係するかなど、演劇や映画における表現の問題が立ち入って論じられている。美学の優れた論文を読むような充実感がある。

 

1分半の動画↓、ただし一戸は平原テツではなく最初に予定されていた窪田正孝

【いつぞやは】稽古風景 - YouTube

 

[今日の絵] 8月後半

[今日の絵] 8月後半

16Paris Bordone :ヴェネツィアの恋人1527

「恋」を描いた絵は多いが、平安時代の和歌と同様、恋の難しさ辛さが主題になっている場合が多く、ラブラブの絵は少ない、パリス・ボルドーネ1500~1571はイタリア・ルネサンス期のヴェネチア派の画家、宗教画、神話画、肖像画を描いた、ティツィアーノの影響が強い

 

17 ポール・ドラローシュ : フィリッポ・リッピとルクレツィア・ブーティ1822

19世紀の絵だが、リッピ1406~69はローマ法王にも寵愛されたルネサンス期の巨匠(下は23歳の自画像)、50歳の時、23歳の美人修道女を誘惑して愛人にし大スキャンダルに、これがその絵、だがコジモ・デ・メディチの取り成しで罰せられず

 

18 ルノワール:散歩道1870

画家29歳の初期作品、林の中を歩く恋人たちは当時よく描かれた主題、木漏れ日の光などルノアールらしい工夫がみられる、デートに熱心な男性がとても嬉しそうなのに対して、女性の表情はそれほどでもない

 

19 Frederik Hendrik Kaemmerer : Tea in the Garden, autumn 1870

ケンメラー1839–1904はオランダ生まれでパリで活動した画家、最後は自殺したといわれる、この絵は、秋の、枯葉散るテラスでお茶する二人、でも足元の倒れた籠といい、彼女は機嫌が悪いのかも

 

20 Edmund Blair Leighton : Yes or No? 1890

レイトン1853~1922は英国の画家、ヴィクトリア朝に特有の甘美な画風の人、中世の騎士などを描いた、この絵は当時の男女だろうが、男性が求愛しても女性はYesと言わないことの方が多かったのだろう

 

21 William Brymner : In the Orchard (Spring) 1892

ウィリアム・ブリムナー1855~1925はスコットランド生まれのカナダの画家、風景や人々の生活を味わいのある画風で描いた、この絵は、花の咲き始めた春の果樹園を散歩する恋人だろうか、だが二人の表情はどこか重苦しく、さえない

 

22 Ferdinand Julius Fagerlin:The Desperate Suitor 1896

ファーゲルリーン1825~1907はスウェーデン生まれのドイツの画家、生活する人々の表情を生き生きと描いた、この絵は求婚する男で、左手に小さな花を持参しているが、女性の表情からしてまったく希望はもてない、求婚にしては体勢がよくないのではないか

 

23 Talbot Hughes : 秘密の逢引き1898

タルボット・ヒューズ1869~1942は英国の画家、歴史的な衣装をつけた肖像画を描いた、この絵も、おそらく同時代の服装ではない、森の中といい、どこか寓話的に描かれている

 

24 ジョン・ウィリアム・ゴッドワード: 80歳と18歳1898

左は富豪の老人か、「ぜひ後妻に」とプロポーズしたのか、彼女は、「年齢差がありすぎる、でも夫はすぐ亡くなるだろう、その後は未亡人として財産をすべて相続し、恋愛も自由だから、それもありかな」と思案か

 

25 Henri Tanworth Wells : Victoria Regina 1887

ウェルズ1828~1903は英国の画家、細密な肖像画を描いた、これは代表作だが、恋の絵ではない、1837年6月20日、若いヴィクトリア王女が早朝に起こされて、父王の死を受けて女王に就任したことを知らされた瞬間のシーン、跪いているチェンバレン卿の仕草は恋人のようだ

 

26 Picasso : Man and woman in café 1903

「青の時代」1901~4のピカソの絵は、どれも悲しみの感情が溢れている、この絵も、カフェの恋人たちなのだろうが、二人に当然あるべき「喜びのようなもの」が感じられない

 

27 Laurens Alma-Tadema : これ以上聞かないで1906

ローレンス・アルマ=タデマ1836~1912はイギリスの画家、古代エジプトなどの神話的な絵が多い、この絵も実景というよりはどこか神話的、左の若い男性(異国の王子様?)が花束を持参し求愛したのだろうが・・

 

28 Munch : 二人、孤独な人たち1934

ムンクに描かれる人はほとんどが寂しそうだ、この二人もそれぞれが孤独な恋人か、空が分割されているのが不安な気分を醸し出している

 

29 Edward Hopper : Summer evening 1949

ホッパー1882~1967の絵はすべて、アメリカ人がいかにもアメリカ人らしく描かれている、都会と田舎と両方描いたが、これは田舎の恋人たち、男の子は真剣に熱心に口説いているが、女の子はあまり乗り気ではなさそう

 

30 Jacqueline Osborn : Table in the Corner 2014

ジャクリーン・オズボーンは現代イギリスの女性画家、割と古風な服装の男女を描く人だが、この絵は今の男女だろう、夕陽に映る椅子や足の長い影が印象的だ、二人の関係はあまりうまくいっていないのだろう

 

31 Dennis Sarazhin

デニス・サラジン1982~はウクライナ生れの画家、熱い感じの肉体を描く人、この絵では女性はそうでもないが(肘から先の手はともかく)、手前の男性の肉体性がそう、古い大きな木の舟に乗っているが、舟も独特の肉体性を感じさせ、彼女が手にしている小さな花が美しい