ヴァン・ホーヴェ演出『イヴの総て』

[演劇] ヴァン・ホーヴェ演出『イヴの総て』NTlive  恵比寿ガーデンシネマ 1月21日

(写真は↓、イヴ(L.アンダーソン)とマーゴ(G.アンダーソン)、そして舞台、マーゴの自宅の居間、台所、楽屋が舞台の上で一体の空間になっている)

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ホーヴェは『オセロ』『ヘッダ・ガブラー』が素晴らしかったので、ぜひ見たかった。本作は、2019年4月のナショナル・シアターの上演で、もとの映画(1950、監督マンキウィッツ)は非常に有名で、それを演劇化。映画版に比べて、一つ一つの場面が「濃い」というか、とにかく登場人物の存在感がすばらしい。映画では比較的「浅い」話だと思っていたが、こちらは作品に深みと奥行を感じる。それはおそらく、映画は異なる時空を自由に切り取って編成されるのに対して、演劇はつねに一つの空間を共有するから、人と人との関係性がより濃密になるからだろう。写真下は↓、終幕近く、マーゴのガウンを着たイヴが、マーゴの恋人ビルに迫るシーン。鏡の前はマーゴの定席だが、そこにイヴが座るとマーゴに見える。向こう側からカメラで写して上部の大きな画像にアップされるので、一つの空間が二重化される。

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インタヴューでホーヴェは、「この作品は映画よりもマンキウィッツの脚本が素晴らしいので舞台化した」と述べていたが、科白が非常に洗練されていて、それだけでも演劇向きなのだろう。スター女優と、演出家、劇作家、批評家が互いに複雑にからむところが物語を面白くしている。写真下↓は大物批評家のドゥイット(S.タウンゼント)。彼こそ実はキーパーソンで、最後の大逆転でイヴは「彼の奴隷」「彼の女」にさせられてしまう。深みのある人物で卓越した演技がすばらしい。

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映画が作られた1950年と言えば、映画が興隆して演劇を脅かし始めたのだろう。本作は、新進女優が女を武器に使ったりして古参女優の役を奪っていく話だが、「陰謀渦巻く演劇界の醜い内幕を描く」というのが映画の視点だと思う。ハリウッドとブロードウェイの対立が話を面白くしたのだ。ホーヴェの演劇版は、映画に比べて、主人公のイヴを肯定的に捉えているように思えた。役を奪う前のイヴの科白「女優は舞台に立つ見返りに、客席からの拍手を受けます、報酬はそれだけで十分です、愛の波が押し寄せてくるのですから」が素晴らしかった。たぶんこれがこの作品のキーコンセプトで、イブは本物の大女優になるだろう。

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30秒ですが動画が、とても美しい舞台。

https://www.youtube.com/watch?v=0ulINtr-rVI

美と愛について(3) ― 愛の受動性、デカルト『情念論』

美と愛について(3) ― 愛の受動性、デカルト『情念論』

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 デカルトは『情念論』(1649)において、「愛amour」について論じている。ここでは「情念les passions」という言葉が使われているが、それは情念そのものが「受動的passif」であるがゆえに付けられた名である。デカルトによれば、まず6つの基本情念が存在する(§69)。それは「驚き」「愛」「憎しみ」「欲望」「喜び」「悲しみ」である。それ以外の情念は6つの基本情念の派生態として説明される。 

 「驚き」というのは、われわれの感覚や知覚に何か新しいものが現れることである。テーブルの上においしそうなケーキを見つければ、「おっ・・・、いいな」と感じる。これが「驚き」と「愛」である。冷蔵庫に腐ったチーズを見つければ、「おっ・・・、嫌だな」と感じる。これが「驚き」と「憎しみ」である。つぎに、「そのケーキを食べよう」と感じたり、「そのチーズを捨てよう」と感じるのが「欲望」である。そしてそのケーキを食べて、美味しければ「喜び」が、不味ければ「悲しみ」を感じる。あるいは、チーズを捨てて冷蔵庫がきれいになれば「喜び」を、チーズが冷蔵庫にこびりついて取れなければ「悲しみ」を感じる。このように、われわれを行為に導く端緒は感情であり、そして行為とは、何らかのよきもの(=善)を得て、わるいもの(=悪)を退けることである。そして行為が達成される満足/達成されない不満足が、「喜び」/「悲しみ」である。このように、われわれの生活はすべて、感情 → 行為 → 感情 というサイクルから成り立っている。行為において、AにしようかBにしようかと迷い、どちらがよいかを考えてから選択することはもちろんある。この場合は思考や知性も働いているが、その場合でも最終的には、Aの方が「いいな」とか、Bは「嫌だな」と感じるからそちらを選ぶのだから、やはり感情が行為を導いている。人に対して感じる「愛」も、まずは「驚き」の次にくる感情であり、デカルトは次のように述べている(野田又夫訳、谷川多佳子訳より)。

>さて愛にしても憎しみにしても、その対象が・・われわれの本性に適合しているとか、あるいはそれに反しているとか、われわれの内的感覚または理性が判断するものを、それぞれ「善」または「悪」と呼んでおり、われわれの外的感覚によってわれわれの本性に対する適不適が示されるものを、「美」または「醜」と呼んでいる。そしてその場合、外的感覚とは主として視覚をさすのであって、視覚だけで他の感覚のすべてを合せたもの以上の重要性をもつ。以上のことから、二種の愛が生じる。善いものへの愛と、美しいものへの愛である。後者を「快agrément」と名づけることができる。前者の愛とも、よく愛の名を与えられる「欲望」とも、混同しないためである。 (§85)

「快」は、好ましいものの享受を、人間に属する善のうち最大の善として示すために自然が特に設けたものだ。ゆえに、ひとはこれを享受したいととても熱く欲する。・・・ひとはある年齢とある時期に達すると、自分を不完全なものと見なし、自分は一つの全体の半分にすぎず、異性のもう一人が残りの半分であらねばならないかのごとく考える。こうして自然によって、このあと半分の獲得が、ありとあらゆる善のうちで最大のものとして漠然と示される。ひとは異性の人たちを多数見るからといって、同時にその多くを望んだりはしない。・・・むしろ、ある一人の人間において、同じときに他の人において認めるものよりいっそう自分の好む何かを認めると、精神はそのただ一人の人間に対して、所有しうる最大の善として追求しようとする。・・・このように快から生まれるこの傾向、この欲望は、前述の愛の情念よりもっとふつうに、の名で呼ばれている。この恋はまた、いっそう不可思議な効果を持ち、物語作者や詩人たちに主要な題材を供している。(§90)

 ピーパーと同じく、デカルトは「美しいものへの愛」は主として視覚から生じると述べており、それを「快」と呼んでいる。この「快agrément」という語は「魅力」「愛嬌」などの意味もある。そして、われわれは第二次性徴の年頃になると、異性のうちにこの「美」を発見し、それをこの世で最大の善として激しく欲し、追求する。デカルトは、「美」と「愛」との根源的な結びつきを、このように明確に語っている。

 

PS :美と愛が最高に一体となったシーン、『魔笛』の、グロッケンシュピールが鳴って、追っ手たちが踊り出す場面、音楽は、和解と愛をもたらす恩寵、スカラ座2016(3分間)。

https://www.youtube.com/watch?v=DadCneF5dLk

映画  ウォン・カーウァイ『欲望の翼』

[映画] ウォン・カーウァイ欲望の翼』 恵比寿ガーデンシネマ 1月14日

(写真↓は主人公ヨディ[レスリー・チャン]、そして冒頭、「今夜、夢で会おう」と売り子の少女スー[マギー・チャン]を誘惑するシーン)

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1990年の作だが、1960年の香港に生きる「怒れる若者」を描いた作品。ニコラス・レイ『理由なき反抗』(1955)の香港版と言おうか、レスリー・チャンが美しい。ジェームズ・ディーンに比べると「繊細な弱さ」のようなものがわずかに少ないが、孤独で、内向的で、切れやすく、美しい青年。

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映画の作りが、かなり前衛的だ。瞬間、瞬間を鋭利に切り取ってゆき、現在と現在が分離するので、現在と現在の間の時間は消えてしまい、時間が流れない。音楽はたまに差し挟まれるだけで、カツカツという足音や豪雨の雨脚の音など、自然音が横溢しているので、これも時間を断片化するのに役立っている。空間的に広い光景はほぼ登場しない。香港の石造りの古いアパートの急階段と、息の詰まるような狭い室内、夜の急坂しか登場しないのだ。人がたくさんいる街の光景は一度もない。小さな空間と一緒に切り取られた瞬間瞬間を人は生きているので、人生に長さや広がりはないのだ。だからこそ、それとの対比で、ほぼ例外として登場するヨディの出生地フィリピンのジャングルの光景は、抒情的な音楽と相俟って、夢のような心地がする。冒頭の「今夜、夢で会おう」というナンパ科白もすごいが、翌日、嫌がるスーと、「1分間だけ一緒に腕時計を見詰める」という「1分間友だち」になり、それが2分間になり1時間になり、スーはヨディの恋人になる、という仕立てがいい。誰が考えたのだろう。出典の小説でもあるのか。こんなに狭い時空の瞬間を生きているのに、その瞬間瞬間の生はとても濃い。だから、荒廃した心象風景の中の若者がこのうえなく美しい。

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作中、何度もつぶやかれる「脚のない鳥」がいい。「脚のない鳥は飛び続け、疲れたら風の中で眠り、そして生涯でただ一度地上に降りる。― それが死ぬ時だ」(テネシー・ウィリアムズ『地獄のオルフェウス』)。プログラムノートによれば、監督のウォン・カーウァイは、「自分は俳優に演技をさせない、シナリオを事前に配り俳優が役を理解してしまうと、自己流の解釈で「役に扮しよう」とするからダメだ、そのつどの自分の指示だけでナチュラルに振る舞ってくれればそれでいい」と、ロベール・ブレッソンと同じことを言っている。説明的な要素を極力排して映像だけで見せるのが、映画の王道であり、本作はまさにそれ。だが、一度見ただけでは物語がやや分りにくいことも事実で、特に、最後のギャンブラーとおぼしき男の身支度シーンは、誰なのか、全体とどう関係するのかまったく分らない(笑)。(写真↓は出生地フィリピンに戻ったヨディ)

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2分間の映像がありました。

https://www.youtube.com/watch?v=yyQu4NaaJMo

美と愛について(2) ― 愛の受動性、ピーパー『愛について』

美と愛について(2) ― 愛の受動性、ピーパー『愛について』

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 たとえば、私たちは生れてきた赤ん坊を愛する。そのとき、私たち親が赤ん坊に愛を与え、贈っているのだろうか? 否、愛を贈るのは赤ん坊の方であり、私たちは愛を贈られるのである

 ドイツのカトリック哲学者ヨゼフ・ピーパー1904~97は、プロテスタント系の哲学者たちがエロスとアガペーを対立的に捉えるのに対して、両者を連続的に捉えた人として知られる。彼の『愛について』(原著1972、稲垣良典訳1974)では、「愛とは、われわれのもとにやってきて、いわば魔法のようにふりかかるものである」(邦訳p26、以下同様)と言われている。つまり、愛は何よりもまず、受動的な経験、受動的な感情なのだ。われわれは「私はあなたを愛するIch liebe dich」と言い、「愛する」という他動詞があるので、愛を、志向的経験、意志、行為などと考えてしまう。しかし、志向や意志や行為の前に、「誰かに魅せられる」という「魔法のようにふりかかる」受動的感情がまず存在するからこそ、そこから「愛する」という志向、意志、行為が生れるのである。ピーパーは次のように言う。

>英語の「be fond of (・・が大好き)」「fondness (愛情)」のfondとは、本来、<魔術にかかった、魔法で変えられた>というほどの意味であり、・・「一種の魅了されたさま」を意味する。ここには、愛というものに含まれている受動的性格が明らかである。愛するとき、われわれは自ら活動し、能動的であるというよりは、むしろ愛にあたいするものによって動かされ、変容せしめられるのではないか、つまり、「始動せしめられる」のではないか? 愛とはなによりも、愛されるものに夢中になること、愛されるものに魅了されることではないのか?・・・これは、ラテン語のaffectioでもって言いあらわされていたことの書き換え、つまり「魅せられてあること」にほかならない。(p22f.)

 愛とは、まずは「愛する」のような能動形ではなく、「相手に魅せられた!」という受動的経験であり、自分の中に相手へのそのような感情が生じることは、自分が意図したことではなく、相手から贈られたもの、相手から恩寵のように与えられたものである。ピーパーは、この「相手に魅せられる」という経験を表わすロシア語についても注意を喚起する。

>ロシア語には、「目で愛するmit den Augen lieben」(=lubovatsja)という言葉がある。つまり、視ることにおいて実現されるところの愛である。あるものがそれあるがゆえにそもそも愛の対象となるところの特質とは、美であるアウグスティヌスにも、「美しいものだけが愛される」「われわれは美しいものだけしか愛しえない」(『告白』『音楽論』)という言葉がある。あるいは、「美とは視るに悦ばしきものなりpulchrum est quod visu placet」という古代の定義もあり、このような同調的な熟視 ― それはいまだ<所有>への意志をまったく含まない ― がなければ、真の愛というものはありえないことになる。(p24)

 (なにかが)美しい!という経験は、まずは目によって、つまり見ることにおいて与えられる。音による美的経験については、またあらためて別に考察したい(おそらく、人と人のシニフィアン[=声]による結びつきが象徴界を形成するというラカンの命題が重要になるだろう)。ここでは、<視ることにおける美によって実現される愛>という原初的な経験に注目しよう。ここで言われているように、「それはいまだ<所有>への意志をまったく含まない」純粋な受動的な感情である。それが、愛されるものへの志向、意志、行為に発展するのは、その次のステップであるが、それらは何よりもまず最初に、このような「魅せられている」という受動的経験がなければ生じないのである。次回は、デカルト『情念論』によって、それを別の角度から検討する。

 

PS : 美と愛が最高に一体となったシーン、『魔笛』のパパパ、ギター演奏版とブラスバンド演奏版(各3分)、どちらもとても美しい。

https://www.youtube.com/watch?v=g164MhCY9SI&NR=1

http://www.youtube.com/watch?v=R_Xu5b9j6IM

 

映画 『パラサイト ― 半地下の家族』

[映画] 『パラサイト ― 半地下の家族』 TOHOシネマズ日比谷  1月7日

(写真はキム一家の住む半地下の家、朝鮮戦争時に作られた防空壕だが、現在でも住居として低所得の人々が住んでいるらしい、水圧の関係で水洗トイレが部屋の天井近くにあるのが悲しい、兄のギウと妹のギジョン、ギジョンがすごくいい!)

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 どういうジャンルにも入れにくい映画だが、私には、非現実が現実とコインの表裏のように一体になったシュールな不条理劇に見えて、ゴダール的な映画だった。嘘っぽさがどんどん重なっていった末に、まさかと思うとんでもないことが起こるのだが、この「まさか」の方に現実味があり、嘘っぽさが見事に回収されてしまう。そしてまた終幕にまた別の「まさか」があり、この「まさか」が抒情的で美しい終幕になっている(父と息子のモールス信号の会話)。つまり、「まさか」だったものが、いつのまにか必然に感じられる。そう、映画の作りが抜群に上手いので、偶然が必然になるのだ。そして描かれている家族愛が、この作品をこのうえなく美しいものにしている。二つの家族が登場し、主人公のキム一家は、詐欺で生きている貧困層だが、強い家族愛で結ばれていて『万引き家族』とよく似ている↓。

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 全員が失業中だったキム一家が、IT企業の社長で大富豪のパク一家に、家庭教師、運転手、家政婦などとして次々に全員「就職」し、いわばパク一家を乗っ取ってしまうのが「パラサイト」の意味だが、この「パラサイト」は嘘っぽい。「話がそんなうまくいくわけないじゃん、この後、どういう筋にするつもりなんだろう」と心配しながら私は見ていた。つまり「パラサイト」そのものがとても薄っぺらでシュールなのだ。だが、その後に来る「まさか」の出来事が「まさか」ではなくなるので、われわれは夢なのか現実なのかが分からなくなり、ここがまさにゴダール的。

 キム一家の四人が一人一人とても個性的に造形されているのがいい。大富豪のパク一家もよく造形されているが、キム一家が深い家族愛で結ばれていて、全員が以心伝心でとっさの危機に対処するのに対して、パク一家はどこか凡庸でぼんやりしており、危機管理能力がまったく欠如している。この違いも本作を面白くしている。『万引き家族』『家族を想うとき』『パラサイト』は、どれも貧困家族が主題になっていた。映画というものは、世界的な経済格差という現代の最大の問題としての現実を、どんなにシュールにしても、デフォルメしても、不条理化しても、やはり描いてしまうのだ。『パラサイト』は俳優が素晴らしい。特に妹のギジョン(パク・ソダム)!彼女が死んだのがとても悲しい。(写真↓は富豪のパク一家、妻は若くて可愛い(チョ・ヨジョン↓は韓国の石田ゆり子かな)、なるほどと納得)

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冒頭3分半の映像が↓。便器のすぐ上にだけ電波がきてスマホが繋がる!

https://www.youtube.com/watch?v=XbBWQYSiBrY