[今日の絵] 6月後半

[今日の絵] 6月後半

16 van Eyck : The Virgin Reading 15Ce

今日から「読書」。読書とは他者の言葉に耳を傾けることであり、他者と自分のコンテクストを共有することでもある。だから特有の表情や姿勢になる。この「読書する聖母」は彼女の知性が強調されている

 

17 Franz Eybl : Lesendes Mädchen 1850

読んでいるのは少女、やや眼が近い、右手を胸に当てており、何か深く思い当たるものがあるのだろう。アイブル1806-80はオーストリア肖像画家、どの絵も表情に個性がある

 

18 Daniel Huntington : The Fair Student 1858

タイトルは「よき学生」だが、この時代はまだ女性の大学生は僅かだっただろう、しかし彼女は書き込みや線の引かれたような学術書らしきものを熱心に読み耽っている

 

19 Leopold Carl Müller : An Afternoon's Delight

タイトルは「午後の楽しみ」、彼女は画集のようなものを眺めている、背景は写実よりはむしろ神話的、ミュラー1834-92はオーストリアの画家で、オリエンタリズムエジプト人などを多く描いたが、これは珍しく白人女性

 

20 Paul Barthel : Woman Reading 1900

活字から目を離しているが、真剣な眼差し、書かれていることについて突っ込んで考えている表情だ、バルテル1862-1933はドイツの画家で、室内の女性を多く描く、背景も細部まで描き込む重厚な画風

 

21 Bertha Wegmann : Resignation, Young Lady at the Breakfast Table 1890

朝食時に真剣に読み耽っている彼女はたぶん学生、「あきらめる」とタイトルにあり、「本が難しくて準備が間に合わない、今回は試験を受けるのをあきらめる」ということか、ベークマン1847-1926はドイツ系のデンマークの女性画家、読書や思索的な女性を描いた

 

22 Louis Antoine Estachon : Reader in a Park Landscape 1850

この絵では、膝の折り方だけでなく、腕、手、指先などがすべてこの本を読む体勢に叶っているが、背景は写実ではなく神話的、エスタション1819-57はフランスの画家

 

23 Nicaise De Keyser : Margaret at the Church 1864

読書は他者の声を聞くことだが、時には自分に戻り、他者の声を自分の中で反復するから、そのとき眼は文字から離れ、字を見詰めている時とは違う表情になる。この本は聖書だろうから「罪」のことを考えているのか

 

24 Alfred George Stevens : The Bath

タイトルは「入浴」だが本を読みながらの入浴、実際にもよくあったのだろう、この浴槽は現代と違って普通の居間に置かれている、彼女は頭に手を当て、読んだことを何か考えている。スティーヴンス1817-75 英国の画家、彫刻家

 

25Vittorio Amedeo Corcos : Dreams 1896

読書の途中ではなく、読み始める前か読み終わった後だろう、彼女の横にあるのは恋愛小説だろうか、タイトルは「夢」だが、表情は浮かない、そして手の位置や形は読書と関係ある。コルコス1859-1933はイタリアの画家

 

26 George Agnew Reid : Forbidden Fruit 1889

タイトルは「禁断の果実」、少年がこっそり納屋に隠れて、大人以外は読むのを禁じられている官能小説?を読み耽っている、手を頭に当てて「ふーむ」と考えているのか、これも立派な読書、リード1860-1947はカナダの風俗画家

 

27 Augustus M. Gerdes : Woman Reading by the Firelight 1900

タイトルによれば、「暖炉の明かりで」本を読んでいる、ランプの光とは明るい部分と影の部分のでき方が異なるので、顔や体全体の表情もやや違って見える。ゲルデス1869-1952はドイツ生まれでアメリカの画家

 

28 Albert Anker : 祖父の信仰 1893

孫がおじいさんに聖書を読んであげている。孫とおじいさんの表情がそれぞれにいい。子どもが衰えた老人に聖書を読んでいる姿は、ヨーロッパの絵にはわりと多い。アンカー1831-1910はスイスの国民画家と呼ばれ、スイスで生活する村人や子どもの絵で名高い

 

29 Aaron Shikler : Woman reading (the artist’s wife) 1962

他の絵もそうだが、指が本に触れている/いないで、本は体の一部なのか/わずかに距離があるのか、つまり人と本との質料的関係が微妙に異なる、形相的関係は同じだとしても。シクラー1922-2015はアメリカの肖像画家、ケネディレーガン等の肖像で名高い

 

30 Simon Leclerc : Reader

現代のカフェで一心不乱に読書する若い女性、手前の中年男女は険しい表情で何か言い争っているのか、奥の女性はやや迷惑顔。サイモン・ルクレールは現代カナダの画家、陰影の濃いパンチの効いた人物画を描く

 

7月上旬に東京に転居します。ネット環境がしばらく中断するので、「今日の絵」はお休みします。

[今日のうた] 6月

[今日のうた] 6月

 

契りしを違(たが)ふべしやはいつくしき疎忌(あらいみ)真忌(まいみ)きよまはるとも (和泉式部の恋人『家集』、「和泉が、「今は身を清めていなければならないのよ」と、やって来た恋人を追い返したら、翌朝「精進潔斎の最中だからって、約束したのにすっぽかすのはひどい」と手紙) 6.1

 

年ふれど憂き身はさらに変はらじをつらさも同じつらさなるらん (禎子内親王の女官『千載集』巻15、「貴方に捨てられてから長いけれど、私は今もつらい気持ちでいます、貴方の薄情さもきっと今もおなじでしょうに、今頃、また逢いたいなんて身勝手すぎるわよ」) 2

 

さしてゆく方は湊(みなと)の波高みうらみて帰る海人(あま)の釣舟 (よみ人しらず『新古今集』巻15、「貴女に逢いたくて今日も行ったのに、ハードルの高い貴女はやはり逢ってくれなかった、ああ恨めしい、港を目指したけれど波が高く、浦を見ただけで戻って来た漁師のうらみよ」) 3

 

たそかれの荻の葉風にこの頃の問はぬ習ひをうち忘れつつ (式子内親王『家集』、「貴方が来てくださらないことは、もうこの頃は慣れてしまいすっかり忘れていたのに、今日の日暮れ、荻の葉のかさっという音に貴方の来訪を錯覚してしまった、あぁ寂しい」) 4

 

引っ越しのたびに育ての母親が増えるみたいにどの町もすき (中村杏「読売歌壇」俵万智選 6.2、「住む町もまた、自分を育ててくれる。引っ越しを前向きにとらえる考え方、素敵だなと思う。「町」の中には、人々をはじめ、自然環境や歴史なども含まれるだろう」と選評) 5

 

まな板を首に差し出す果実たち光と色を混ぜるように切る (石村まい「毎日歌壇」水原紫苑選 6.2、「果実にはたしかに首がある。永遠に殺すことのないものたちの光と色」と選評) 6

 

葉桜やもう手をつなぐこともなく (伊藤直司「読売俳壇」正木ゆう子選 6.2、「子供と子供、親子、恋人、夫婦。想像する組合せは色々。しかしこの季語ならば、親子と特定できる。入学の時までは手を繋いでいたのに、あっという間に親離れしたのだ」と選評) 7

 

揺れ残るふらここ二つ春夕焼(ゆやけ) (佐藤建「毎日俳壇」小川軽舟選6.2、「今しがたまで子供が2人こいでいたブランコ。ブランコはまだ遊び足りないような」と選評) 8

 

蛇のあとしづかに草の立ち直る (邊見京子、蛇が草を通ってゆく仕方は独特の味がある、蛇は草をスーッと分けて、草は「そのあとしづかに立ち直る」) 9

 

あひふれしさみだれ傘の重かりし (中村汀女、梅雨雨の中、夫と二人で歩いているのか、体をやや寄せ合うので傘が触れ合い、傘がいつもより「重く」感じられる) 10

 

多摩川を越えて本気になりし雷 (大牧広、電車で多摩川の鉄橋を超えるとき、広い空に雷がたくさん見えるのだろう、私もたまに荒川の鉄橋を超えるときに似た経験をする) 11

 

蛍火の明滅滅の深かりき (細見綾子、螢は光が輝くときよりも、光が消えるときが、ずっと印象が強い、まさに「滅の深かりき」) 12

 

金魚屋の水とんがりてゆれてをり (上野章子、私が小学生だった65年くらい前は、リヤカーに水槽をたくさん積んだ「金魚屋」がよく家の前に来た、どの水槽の水も一斉に「尖がって揺れる」のが独特) 13

 

短夜の戯画の狐とちぎりけり (後藤綾子、短夜の夜は、よく眠れずに、浅い奇妙な夢を見ることが多いのか、「戯画の狐と契る」のは楽しい夢だったろう) 14

 

短歌ぐづぐづと晴れねば女梅雨(おんなづゆ)といふ 言ひしはつまらぬ男なるべし (小島ゆかり『希望』2000、「女」偏など「女」を部首にする漢字は、ネガティブな意味のものが多いというが、「女〇〇」もそうなのか、きっとその言葉を作ったのは男なのだろう) 15

 

機関車より降り佇ちし大地微動ださえなくて未明のオリオン冴ゆる (和田国基「朝日歌壇」1972年5月 前川佐美雄選、作者は機関車の運転手か、夜行列車が未明にしばらく停車した時、ちょっと機関車から降りてみた、「微動だにしない」大地に天上のオリオンが「冴える」) 16

 

潜水夫の呼吸はマイクに伝わりて真昼静けき海に響きぬ (今田卓三「朝日歌壇」1972年5月 五島美代子選、潜水夫がかなり深海の作業をしているのだろう、まだ画像はなく、声のみで海上の船と遣り取りをしているのか、しばらく「呼吸の音 」だけが海上に聞こえている) 17

 

自由とは孤独の花よ鉄線花 (蓮 光雨女「朝日俳壇」1971年5月 中村草田男選、鉄線花はキンポウゲ科クレマチス、一輪咲いた姿は、たしかに強さと孤独を感じさせる) 18

 

梅雨大河雪舟ならば墨一色 (豊田麗水「朝日俳壇」1971年6月 山口誓子選、梅雨が降り続く「梅雨大河」、たしかに墨絵のようになる) 19

 

梅雨晴の白雲いまだ収(おさま)らず (高濱虚子1923、梅雨の途中でも、大きく晴れて、もう完全に夏空になってしまった日もある) 20

 

紫陽花の花の密室覗かれず (山口誓子1984、たしかに紫陽花の花は、中央の小さく密集した部分に特有の味わいがある) 21

 

蛇いでゝすぐに女人に会ひにけり (橋本多佳子『紅絲』1951、唐招提寺での体験、蛇と出会った、そして「すぐに女性と会い」、そして弥勒菩薩を拝んだ、というのだが、「蛇の直後に女性と会う」ことで、それが詩になる)

 

人類のほかは裸足や梅雨に入る (島田雄作「朝日俳壇」6.22 長谷川櫂/高山れおな共選、「何とひ弱な我ら人類よ」と長谷川評、「上五中七の事実を生かすのは「梅雨に入る」から来る皮膚感覚だ」と高山評) 23

 

草笛や短く鳴ってもう鳴らず (高橋完次郎「東京新聞俳壇」6.22 石田郷子選、「何気なく吹いたら音が出た。でもそのあとはどうやっても鳴ることがなかった。草笛の下手な人が必ず経験すること。リアリティがある」と選評) 24

 

真夜中に縄跳びをする妹のわたしもそこに行きたかった (おおつか なお「東京新聞歌壇」6.22 東直子選、「妹の生き方を「真夜中に縄跳びをする」姿に象徴させた。過去形の結句に複雑な思いが滲む。肉親でも、どうしようもなく遠く感じることもあるのだ」と選評。妹はたぶん初恋をしたのだろう) 25

 

そんなもの食べてなさそなタレントが出てる食品コマーシャルあり (佐々木美彌子「朝日歌壇」6.22 永田和宏選、ひょっとして、その方がコマーシャル効果があると期待してそういう人選になったのか) 26

 

棘(とげ)はあなたを弱くさせない とりどりの野薔薇(のばら)めざめよ詩のふところに (石村まい「毎日新聞歌壇」6.23 水原紫苑選、「詩の抽象から具体の野バラを呼び出す、逆方向のメッセージが力強い。詩人から詩への限りない愛のメッセージ」と選評) 27

 

棘こそが生きてる証(あかし)薔薇の花 (野田文子「読売新聞俳壇」6.23 矢島渚男選、「私は薔薇を愛したドイツ詩人リルケが薔薇の棘に刺されて死んだという俗説で事実痛いしバラが恐ろしい。感受性はいろいろで、詩としてどちらが上か分からない」と選評) 28

 

涼しさや哀悼に美辞つらねざる (蜂尾雅彦「毎日新聞俳壇」6.23 井上康明選、「葬儀に際して弔辞を述べたのは、古くからの友人だろう。とつとつと語った哀悼のことばは真率で、会場を涼風が吹き渡る」と選評) 29

 

消しゴムに消すも白紙に残りたる筆圧のごとき君との二年 (原田浩生「読売新聞歌壇」6.23 俵万智選、「鉛筆で書かれた文字は、いちおう消すことができる。けれど強い筆圧で書かれたそれは、紙へのくぼみとして残り続ける。君との二年は、消せないそのくぼみなのだ」と選評) 30

 

7月上旬に東京へ転居します。ネット環境が中断するので、「今日のうた」しばらく休みます。

[今日の絵] 6月前半

[今日の絵] 6月前半

1 Francesco Bergamini : Vida de Pueblo

今日からは裏町の光景。裏町は生活感に溢れている。この絵のタイトルは「村(町)の生活」、どこの国か分からないが、大都市ではなく田舎の小さな町だろう、人々は貧しそうだが、明るい活気を感じさせる。ベルガミーニ1815-1900はイタリアの風俗画家

 

2 Johan Barthold Jongkind : ランデルノーの聖トマス通り1851

ランデルノーはフランスのブルターニュ地方の小さな町、「聖トマス通り」と立派な名前だが、普通の裏通りだろう、でも肉屋や人々に活気がある。ヨンキント1819-1891はオランダの風俗画家、町や村をたくさん描いた

 

3 Anton Burger : in Frankfurt

昨日のランブルノーと違ってフランクフルトは大都市だが、裏通りは意外に似ている、でも裕福な商人らしき人達も裏通りを歩いているのは、さすが商業都市か、売り子らしい少女が猫と一緒に座っている、小さな古道具屋もある。ブルガー1824-1905はドイツで人気の風景画家

 

4 Paul Weber : 朝の光の中のオレヴァーノ・ロマーノ1887

オレヴァーノ・ロマーノはイタリアの高地にある小さな町、空が広く朝日を受けて全体が明るい、馬車も馬も大都市とはずいぶん違う。ウェーバー1823-1916はドイツの風景画家、アメリカにも住んだ

 

5 Victor Gabriel Gilbert: The Fruit Seller

タイトルは「果物売り」だが野菜も売っているようだ、おそらくはパリの、この裏通りは、固定した小売店ではなく露店が並ぶのか、それぞれの露店は意外に明るい。ジルベール1847-1933はフランスの画家で、パリの市場をたくさん描いた人

 

6 Vincenzo Migliaro : Primavera 1900

タイトルは「春」だが、大都市の裏通り、奥は港まで見えており、ナポリだろうか、裏路地の右側が古美術商なのがいい。ミリアーロ1858-1938はナポリ生まれのイタリア人画家

 

7 Luigi Loir : La Serenata

ロワール1845-1916はオーストリア生まれで、パリの光景をたくさん描いた、これは珍しい裏通りの絵、古美術商らしい右手二階の窓の女性にセレナードを歌っている、求愛ではなく、こうやって投げ銭をもらうのか、子どもも聞いていて、パリはやはり裏通りも「芸術の都」

 

8 Ettore Roesler Franz

フランツ1845-1907はイタリアの画家、都市をたくさん描いた、裏通りも好きだったようで、人々が生き生きとしている、細い通りを跨いで洗濯物を干すのはヨーロッパでも南方の都市か、金持ちは裏通りに住まないだろうから、まぁ庶民の習慣だろう

 

9 Alfredo Roque Gameiro : アルファマのサンミゲル通り 1925

アルファマはリスボンの旧市街、楽器を手に歌ったり、陽気な雰囲気がいい、毛布か絨毯だろうかカラフルなのも楽しい。ガメイロ1864–1935はポルトガルの画家、都市、港湾、群衆などを描いた

 

10 William Herbert Allen: 大陸の通りの風景

アレン1863-1943はイギリスの風景画家、屋外の絵が多く、空を含めた光と影の描き方に特徴がある、この絵はヨーロッパのどこかの都市の裏通りだろう。狭い裏通りなのに、明るい空、屋根、窓、外壁など、調和と気品が感じられる裏町だ

 

11 松本俊介1912-48 : ゴミ捨て場付近 1942年頃

松本が住んでいた東京・下落合の裏町、右側の建物は目白変電所、彼が描く東京の街はどれも荒涼として寂しいが、それは東京という街の本質の一つだろう、彼は軍部の美術への干渉に抵抗した画家でもあった

 

12 画家不詳 : ペルーの絵「朝の裏路地」

いつの絵か分からないが、服装からして20世紀前半だろうか。人々は概して貧しいのだろうが、雰囲気は明るく、ゆったりと歩く姿がとてもいい

 

13 Clark Hulings : Street Repairs 1968

ヒューリングス1922-2011はアメリカの画家、路地裏をたくさん描いた、これは「道路の修理」だから、手前に積まれた石が関係ありそう、洗濯物にカラフルが少し混じるのも1968年だからか

 

14 アレクサンダー・ミラー1960~

ミラーは現代イギリスの画家で、労働者階級をたくさん描いている。この絵も、工場地帯にある労働者住宅の裏通り、洗濯物はいかにもだが、左下で遊んでいる子どもがおしゃれに見えるのは不思議

 

15 Igor Shcherbakov : Afternoon Walk

街は古いが最近の絵、午後といっても影が長い、緯度の高い場所の街だろう、裏路地にはたいがい子どもがいるのだが、ここにはいない、ロシアも高齢化社会なのだろう。イーゴリ・シェルバコフ1990~は現代ロシアの画家

[演劇] 岸田理生『リア』 劇団うつり座

[演劇] 岸田理生 『リア』劇団うつり座 上野ストアハウス 6.1

岸田理生1974-2003は初見だが、『リア』はユニークな作品だと思う。シェイクスピアリア王』の、長女ゴネリルが父リアを激しく憎むという、その一点だけを借用して主題にしており、娘が父を倒して、その権力を奪うという物語。男の子なら「父殺し」はフロイトによって前景化されたが、考えてみれば、女の子にも「父殺し」の欲望があってもおかしくはない。自分の子を支配したいという母性権力を欲望するのとも違って、あくまで父性としての権力を欲望する女の子の物語。

 

シェイクスピアの原作と違って、コーディリアは登場せず、代わりに次女ゴネリルが父親思いの優しい娘になっている。そして、父リアの影武者のような「母」も登場するので、おそらく母性の権力性との葛藤も描かれているのだろうが、そのあたりはよく分からなかった。全体に凝った作りなので、戯曲を読まないと細部は理解できない。ただ、演劇表現としてやや欠点があると思うのは、1時間45分全体が阿鼻叫喚の絶叫調なので、鑑賞はとても疲れる。これは劇団のせいで、作品のせいではないかもしれないが、憎悪の深い感情を表現するには、静かな時間を間に挟むことも必要で、それがないと感情表現が単調になりすぎる。とはいえ、『リア王』には複雑な主題が輻輳していることに気づかせてくれるユニークな作品だ。

 

[今日のうた] 5月

[今日のうた] 5

 

母のこと「オーイ」と呼ぶな名を呼べと彼氏のできた娘の小言 (重親峡人「読売歌壇」4.28 栗木京子選、「交際中の相手と父親をつい比べてしまう娘。もし自分が「オーイ」と呼ばれたら嫌だ、と気付いたのだ。一方、作者のほうは小言をもらってどこか楽しそうに見える」と選評」) 5.1

 

暴力を見せられている感覚で月を見ていた死んだオオカミ (入間しゅか「毎日歌壇」4.28 水原紫苑選、「オオカミは月の暴力、光の暴力、美の暴力に耐えかねて去ったのかもしれない。詩人ではなく、詩である存在の痛み」と選評) 2

 

秒針の今長針に重なりて吾子の入試の時は終わりぬ (吉村まさい「朝日歌壇」1972春、五島美代子選、母はおそらく大学入試会場の外で待っているのだろう、娘か息子の試験の出来はどうなのだろうか、と) 3

 

山の音音せぬ声を聞きたりき人の孤独ははかり知れざる (高井寿一郎「朝日歌壇」1972春、五島美代子選、ひっそりと物音ひとつしない深い山中で、かすかな人の声が聞こえたような気がした、ひょっとして人がいるのだろうか、それとも空耳だろうか、いずれにしても人間は実は孤独に生きている) 4

 

春泥を如何に越え来し修道尼 (「朝日俳壇」1972春、山口誓子選、修道女が、裾回りを泥だらけにしながら教会へたどり着いたのだろう、真摯でかつユーモラスな光景) 5

 

メーデーを終り看護婦帰りいそぐ (高田一大「朝日俳壇」1972春、加藤楸邨選、看護婦は忙しい、つねに患者が待っている、メーデーが終わっても急いで職場に戻る) 6

 

竹の葉のさしちがひ居る涅槃かな (永田耕衣『加古・傲霜』1934、竹の葉が互いに「差し違える」ように乱れている、「涅槃」とは真逆の感じなのに「涅槃」) 7

 

手品師の指いきいきと地下の街 (西東三鬼『旗』1940、三鬼の句は、どこの国ともどこの町とも分からない感じだが、手品師の指が「いきいき」しているのだけはリアル) 8

 

旅びとが起きあがる影もおきあがる (富澤赤黄男『魚の骨』1940、「これはまたわが姿なり」と前書、「旅びと」は作者なのだ、実に含意の豊かな句) 9

 

その五月われはみどりの陽の中に母よりこぼれ落ちたるいのち (今野寿美『花絆』、五月といえば新緑が美しい、五月十日生まれの作者は、五月が好きなのだろう、「その五月」「みどりの陽の中に」がいい) 10

 

風に飛ぶ帽子よここで待つことを伝へてよ杳(とほ)き少女のわれに (小島ゆかり『憂春』2005、作者には娘が二人いて、とても仲のいい母娘、服を取り換えて楽しんでいる歌もある。この「杳(とほ)き少女」はたぶん中学生くらいの娘だが、自分の分身のように感じているのか) 11

 

てのひらに水面を押せばあふれつつこの直接もきみを得がたし (小野茂樹『羊雲離散』1968、おそらく、教育大付属中学高校以来の同級生で恋人、そして後に妻となる青山雅子が、他の男性と結婚してしまった直後の歌か) 12

 

むくわれぬ恋のように裏側のある物いつまでも乾かない (東直子2007『十階』、日常にいくらでもある散文的な光景だが、それがそのまま詩になるのが短歌の魅力) 13

 

この街に味方はいない水溜まりにしみこんでゆく私の影も (江戸雪『百合オイル』1997、作者は鋭い感受性の人、「水溜まりにしみこんでゆく私の影」に敵意を感じてしまう) 14

 

バゲットを一本抱いて帰るみちバケットはほとんど祈りにちかい (杉崎恒夫『パン屋のパンセ』、フランスパンのバケットBaguetteは、たしかに独特の存在感がある、「抱いて帰る」や、「祈りにちかい」に、いたく共感する) 15

 

さようなら。人が通るとピンポンって鳴りだすようなとこはもう嫌 (穂村弘『手紙魔まみ、夏の引っ越し(ウサギ連れ)』2001、人が通るとセンサーが反応して音を出すのは、改札とか、店員の少ない店の入口とか、大きな建物の入口にもあるだろうか、警戒されているようで何だか感じが悪い) 16

 

木隠(こがく)れて茶摘みも聞くやほととぎす (芭蕉1694、「木の間に遠く見え隠れしながら茶摘みをしている娘たち、あの娘たちも、過ぎてゆくほととぎすの鳴き声を聞いているのだろうか」、遠景の茶摘み娘が独特だ、1694年は芭蕉の最後の年) 17

 

駒どりの声ころびけり岩の上 (斯波園女、駒どりが岩の上で鳴いているのだろう、「声ころびけり」がいい、作者は芭蕉の弟子の女性俳人) 18

 

蝸牛(かたつぶり)何おもふ角(つの)の長みじか (蕪村1768、「何おもふ」と言ったのがやや一茶的か) 19

 

恋のない身にも嬉しや衣がへ (上島鬼貫、「恋のない」と言っているのは、鬼貫の内心は、「恋をしたい」からだろう) 20

 

何をして腹をへらさん更衣(ころもがへ) (一茶1810、一茶は47歳、独身、江戸の貧乏暮らし、おそらく今日は仕事がないのだろう、だからせっかくの更衣も張り合いがない) 21

 

うすうすと窓に日のさす五月かな (子規1893、五月には、夜明けが次第に早くなるが、しかし光の強さはまだそれほどではない、窓に「うすうすと」日がさす感じだ) 22

 

行春を尼になるとの便りあり (虚子1896、知人の女性だろう、その人から「尼になる」との便りを受け取った時、虚子はどのように感じたのか、「行く春を」とあるから、尼になるのを「惜しむ」のか、しかし「尼になるのを惜しむ」というのはどういう感情かよく分からない) 23

 

薔薇を見る少女らの帽すでに白く (富安風生1940、ちょうど衣替えの頃だろうか、薔薇の花を見ている女学生たちの、それまで紺の帽子だったのが白の帽子に変っている、薔薇の花以上に瑞々しい少女たち) 24

 

みちをしへ道草の児といつまでも (阿波野青畝1927、青畝は27歳、男の児に「道を教え」たら、何となくその児と「いつまでも」おしゃべりしていた、「道草をくう」のはその児だけでなく、青年青畝も一緒に「道草をくう」、彼はたぶん子ども好きなのだ) 25

 

北限の花を惜しみて春惜しむ (縣展子「朝日俳壇」5.25 長谷川櫂大串章/高山れおな共選、「これでいよいよ今年の春も終り。「北限の花」が心に染みる」と大串評) 26

 

人間のふりして人参のくせに (横浜 J子「東京新聞俳壇」5.25 石田郷子選、「解釈を試みれば二本足の形に育ってしまった人参を叱っている場面か。理屈抜きに明るいリズムを楽しみたい」と選評」) 27

 

動画もう撮ってるって気づくまでの顔、無重力で宇宙だった (葉山 あも「東京新聞歌壇」5.25 東直子選、「気軽に動画を撮る時代ならではの一瞬。無防備な表情に「無重力で宇宙」を見出し、その内面に壮大な未知の世界を感じていることが伝わる」と選評。時代の先端を詠んでいる) 28

 

館内の鳥が骨折した事も日誌に綴る守衛の仕事 (貴田雄介「朝日歌壇」5.25 佐佐木幸綱/川野里子共選、「病院とか図書館など、公共の施設で守衛の仕事をしている作者だろう。日誌を書くという時点をクローズアップして、うまい」と佐佐木評) 29

 

岡に寄せ我が刈る萱のさね萱のまこと柔(なご)やは寝ろと言(へ)なかも (よみ人しらず『万葉集』巻14、「君は、海辺の萱を刈り取って陸地に寄せたように柔らかな肌をしているね、どうして柔らかに僕と打ち解けて一緒に寝たいと言ってくれないの」) 30

 

流れては妹背の山の中に落つる吉野の川のよしや世の中 (よみ人しらず『古今集』巻15、「妹山と背山の間を割って、急流が流れ落ちる吉野川のように、僕たちもあっという間に逢えなくなってしまった、でもまぁ、これで<よし>としよう、これが女と男の仲というものさ」) 31