ヤエル・ロネン『コモン・グラウンド』

charis2018-12-13

[演劇] ヤエル・ロネン『コモン・グラウンド』 東京芸術劇場・地下アトリエ 12月13日


(写真右はポスター、それ以外はマキシム・ゴーリキー劇場の舞台写真、下は、今はベルリンで働く難民の若者たちが故郷のボスニア・ヘルツェゴビナへ一緒に行った5日間の旅行、背景はかつて住んでいたアパートか)

2014年以降、ヨーロッパで上演されて大きな衝撃を与えた演劇『コモン・グラウンド』を、小山ゆうなが主宰する雷ストレンジャーズが中心となり、リーディング上演したもの。雷ストレンジャーズは、小さいが非常に問題意識の高い劇団で、その劇団名と同様に、この作品も「異邦人もの」と言える。現在、ベルリンの劇場などで働いているボスニア・ヘルツェゴビナ出身の若者たちが、一緒に故郷に旅行する。二人の仲良しの女の子は、それぞれ父親が、虐殺されたり、強制収容所の看守だったりで、加害者/被害者という複雑な関係にある。他の若者たちも多かれ少なかれ、家族の誰かは内戦の当事者であり、旅行の先々で大きな衝撃を受ける。ちょっとした交通事故でも、男たちは激しく罵り合う。クロアチア語ボスニア語、セルビア語は、互いに標準語/関西弁くらいしか違わず、旧ユーゴスラビアでは言葉どこでも通じたのに、なぜ民族がバラバラになり、ホロコーストが再び起こったのだろうか。朝鮮半島のように冷戦によって分割されたのでもない。登場する若者はみな、たとえばボスニアで生まれセルビアで育ったなど経歴そのものが多層的で、「自分は何人である」という国籍アイデンティティを持っていない。公演案内には、「イスラエル出身のヤエル・ロネンが、旧ユーゴ、ドイツ、イスラエル出身者とともに加害者・被害者の共有地(コモン・グラウンド)を笑いと皮肉で描く」とあるが、内容は、集団虐殺、大規模なレイプ、戦犯裁判など重く苦しい話なので、私は「笑いと皮肉」を楽しむことはできなかった。ただ、これほどまでに出自において引き裂かれた若者たちが、今、ベルリンで互いに良い関係を構築し、ともに生きていこうと苦闘する姿に感動した。この作品の核は、故郷訪問によって若者たち自身の内に新たな対立と葛藤が生じ、それをどう克服しようとしているか、という点にある。原作のベルリンでの上演は、映像を背景とした語りと音楽が中心なので↓、今回のような簡素なリーディング上演でも、原作の主旨は一定伝わったと思われる。


この上演を見て一番感動したのは、音楽の歌声と、それと同時に画面に映された歌詞、すなわち美しい詩である。日本語で歌われるが、ところどころが現地語で歌われ、しかしその部分は日本語の歌詞から意味は分かる。『コモン・グラウンド』は、旧ユーゴ内戦で人間がどのように傷ついたかを、演劇という形式で表現している。アリストテレス詩学』第9章によれば、詩作(演劇など創作された文学作品のこと)は、歴史記述と同じ対象と課題を持つが、前者は普遍的な言葉で対象の必然性を示し、後者は偶然に現実化した対象を個別的に記述する点が違うだけだ。本作が前者だとすれば、映画『ショアー』は後者だと言えるかもしれない。どちらも、現に起こったことを「再現(ミメーシス)」することによって、辛い記憶を次の世代に伝えることを目的としている。演劇は、詩作であるから、ある意味「虚構」であるが、それは虚構としての虚構ではない。アドルノが「芸術は娯楽ではなく認識であり、虚構を通じて我々に真理を洞察させる」と述べたことが、本作にはとてもよく該当する。内戦で、人々が何を行い、何を感じ、何を考え、何を言ったのか。本作の演劇に登場する人物は、ほとんど実話の本人であるそうだが、演劇においては、それを「普遍的な言葉によって必然性を示す」のでなければならない。本上演の冒頭で、『アンナ・カレーニナ』をもじって、「幸福な国はどこも似たり寄ったりだが、不幸な国は、その不幸さがそれぞれに違う」と語られたが、この「それぞれに違う不幸」を普遍的な言葉で示すのが演劇という芸術なのだ。本作が日本でも再演され、演劇の持つ「認識の力」を多くの人が味わってほしいと思う。言葉の問題では、舞台でも語られた「民族浄化」という日本語では、原語ethnic cleansingのもつ残酷性(cleanseとは、汚れをごしごし削ぎ落とすこと、日本の洗剤クレンザー)があまり反映していないと感じた。写真↓は今回の俳優たち。

 下記にマキシム・ゴーリキー劇場のビデオ映像があります。2分弱。
https://www.youtube.com/watch?v=A7xHSe33TVU
 ヤエル・ロネン自身が本作を紹介する映像も。8分。
https://www.youtube.com/watch?v=0hTUYEJS_wE