[哲学] 谷口一平:「マイナス内包」としての性自認の構成

[哲学] 谷口一平:「マイナス内包」としての性自認の構成 『情況』2024冬号

 

大変に面白い優れた哲学論文。ただし、植村はその主張内容は誤っていると思うので、その部分のみを「反論」として以下に箇条書きにする。(引用数字は『情況』の頁数)

 

(1) 「「性自認」が哲学的困難を孕むのは、それが本質的に「心身問題」だからである。・・決定的役割を、心=魂が同時に身体性をも有しているという、この驚異の事実が演じている。・・・超越論的統覚でもある「脳」だけが、マイナス内包としてジェンダーを超越論的に構成する異能をもつ。」87

 

 最初の「心身問題だから」、という部分は正しい。しかし「心=魂が同時に身体性をも有している」というとき、その「同時に身体性をも有する」その「有する仕方」の谷口の理解は誤っている。「脳が超越論的統覚でもある」というのも誤りで、「超越論的統覚」とは脳ではまったくなく、「私は・・と思う」という文構造のことであり、「マイナス内包を構成する」などということはありえない。統覚の超越論的構成とは、チョムスキー生成文法で文の無限な構成を考えたように、時空的表象を無限に内側に繰り入れて「私は・・・・と思う」という文に統合することである。『純粋理性批判』「カテゴリーの超越論的演繹」は「内感の自己触発」として、統覚の超越論的構成を行うところが肝である。つまりそれは、大森荘蔵の「重ね合わせ」のような「脳透視」による心身問題の解決であり、クオリアが志向性を持つというのは、脳や、視神経、網膜、水晶体、外の空気など、認識の途中の因果過程をすべて飛ばして、対象そのものをフレーゲのいうbedeutenすることである。だから「性自認」も、このような構造から捉えなければならない。

 

(2) 「人称装置が様相化装置である」(85)とか、「中心化された可能世界」(86)とかも、根本的に誤っている。「中心」というのは「今、ここ」と同じく時空規定であり、時間と空間は一つしかなく、いかなる世界もすべて時空的に繋がっている(時空は「歪む」ことはあっても、裂け目、切れ目はない)。だから時空を超越した複数の可能世界というものはなく、世界はただ一つしかなく「可能世界」というものは存在しない。存在するのは「現実世界」ただ一つしかない(これが『純粋理性批判』におけるライプニッツ批判の中核)。つまり「中心」とは、「今、ここに現実にある」世界しか存在しないということである。だから、「中心化された可能世界」とか、「机の向こうに座っている牧田恵実さん(86)から私=谷口一平の世界が開けている可能性」(86)などありえない。

 

(3) 谷口が、原罪神話やキルケゴール『不安の概念』の「個体」概念を援用して、「性自認」の問題を捉えようとしたことは、必ずしも間違っているとはいえない。「性自認」とは、たしかにキリスト教でいう「受肉の秘儀」そしてラカンのいう「象徴界への参入」だから、言葉の問題、つまり記号が志向性をもち(=SinnとBedeutungを持ち)、クオリアが内包化されるという問題である。植村の考えでは、「性自認gender identity」とは、個体における統覚の超越論的統一が、文構造によってクオリアを内包化し、それぞれのgenderを<引き受ける>ことだと思われる。「脳がマイナス内包を構成する」ことでは決してない。この点が谷口と見解を異にするが、しかし植村も、「性自認」がどのような<引き受け>であるかについては、まだ思案中なので、谷口の提案も考慮したうえで、そう遠くないうちに論文にまとめたいと思う。