アラン・ロブ=グリエ 『囚われの美女』

charis2019-01-25

[映画]  アラン・ロブ=グリエ 『囚われの美女』  横浜シネマリン 1月25日


(写真右は、マグリットの絵『囚われの美女』に擬して、自然の光景の中に絵を連続させたもの、ヒロインのマリ=アンジュ[ガブリエル・ラズュール]が絵の中で動く、下もマリ=アンジュ、彼女はギリシア神話『コリントの花嫁』で冥界からきた吸血鬼)


本作はロブ=グリエ最後の映画(1983)で、もともとは『コリントの花嫁』という映画の予定だったが、途中でマグリットの絵を知ったため『囚われの美女』に変更された。彼の映画としては、もっとも物語があり、表象の女の美しさは変らないが、『快楽の漸進的横滑り』や『エデン、その後』に比べると、自然景と一体になったオブジェとなる度合いは小さく、冥界の女とはいっても、どこまでも人間を感じさせる。『快楽』『エデン』の女は、修道院の白壁に血を塗り付ける裸体であったり、チュニジアの砂漠と石と海を走り回り、火の中で踊り狂う女であり、その肉体が衝撃的なまでに美しく輝いたのは、カントのいう美=調和を突き破る瞬間に位置するからだろう。それに対して、本作のマリ=アンジュは調和の内部に存在する美と言える(下の写真3枚↓)。



本作は音楽がいい! 主にシューベルト弦楽四重奏で、ベッドシーンに完璧にフィットするのが驚きで、ベッドシーン以外は、バイクの凄いモーター音とシューベルト弦楽四重奏の「合奏」になっているのが独創的。写真下は、もう一人の美しいヒロインであるサラ[シリエル・クレール]、彼女も冥界から来た「死の天使」で、大型オートバイを疾駆する↓。



本作もロブ=グリエの他の映画と同様に、自然景の中に女の肉体をオブジェとして配置しようとする意図は同じだが、マグリットの絵という格好の実例を応用し、活人画の手法を前景化したために、肉体がエレガントになり、衝撃度はそれだけ弱まったように感じられる。絵や鏡の中の生身の女は、砂漠や海で石になりかけた女に比べると、肉体の超越性が弱いのはなぜだろうか。写真下は↓、マネの絵「皇帝マクシミリアンの処刑」を模したもの。

下記はそれぞれ3分間の動画、内容は違い、とても美しい。
https://www.youtube.com/watch?v=ZaR_0GzMIAo
https://www.youtube.com/watch?v=aZu-tvXJyKA
下高井戸シネマでも2月9日〜16日に、今回のロブ=グリエ6作が上映されるそうだ。

ベケット『ハッピーな日々』

charis2019-01-24

[演劇]  ベケット『ハッピーな日々』 蜂巣もも演出 アトリエ春風舎 1月24日


(写真右は、ウィニーを演じる岩井由紀子、原作では「50歳くらいの女」だからかなり若い、写真下は舞台装置の円丘、アトリエ春風舎は観客40人くらいの地下小劇場だが、この円丘はシンプルで美しく、とてもいい、これは開演時の光景で、ウィニーは眠っており、後には夫のウィリー[亀山浩史]が眠っている、パンツ一枚というのはこの演出独自のものなのか)

青年団若手自主企画の公演で、蜂巣もも演出、戯曲は長島確の新訳による(私は新訳を持っていないので、以下の引用は旧訳)。ふつう『しあわせな日々』と訳される本作のタイトルは、乾杯の音頭の「しあわせな日々を!Happy days !」に由来している。原作は1962年で英語。ウィリーは「60歳くらいの男」だから、もう死が近い老年の夫婦の物語だ。第1幕ではウィニーは腰から下は砂の円丘に埋まっていて動けず、第2幕では、首まで埋まって動けない。この円丘は、人生における時間を表わしているのだろう。一生の時間の全体を1として、すでに生きた時間を分母、死までの時間を分子とすれば、分子はどんどん小さくなり、やがてゼロになる。自分の人生のうち過去の比重が高まり、未来はほとんどない。それは普通に考えれば「しあわせではない」状態のように思われるが、はたしてそうなのか? これが本作の主題だと思われる。そして、ウィリーも四つん這いでやっと動くほど、体の自由がきかない。ウィニーの体は埋まっているが、身振りと表情は活発でよく動く↓。

この作品で重要なのは、ウィニーの科白が全体の99%くらいで、ウィリーは1%くらいしかないことである。ほとんどウィニーが一人でしゃべりまくっている。それも、自分の人生の過去にあったことばかりを、断片的でちぐはぐだか、反省的に語りまくる。この科白量の落差は、夫婦で言葉の対話がほとんどないことを示している。ごくたまに夫が、妻の問いにほとんど無関係なことを、ボソッと言うだけだが、それでも妻は、「まあ、あなた、きょうはわたしに言葉をかけてくれるのね、しあわせな日になりそうだわ!」と叫ぶ。二人には行為といえるものはほとんどない。しかしそうであればこそ、ウィニーがバッグから歯ブラシを出して歯を磨いたり、ごそごそバッグの中から生活用品を取りだしたり、日傘をさしたりするのは、数少ない重要な行為なのだろう。ウィニーがそれを嬉々として行うのも当然だ。本作が不思議なのは、開幕後ずっと、溢れるばかりのウィニーの独白の言葉が空回りしていて、返事をしないウィリーともども、二人は「しあわせ」とは思えないにもかかわらず、最後の最後に、いなくなっていると思われたウィリーが正装であらわれ、四つん這いになりながらも、ウィ二ーに近づき、ほとんど聞こえないかすれ声で「ウィン」と呼びかける終幕は↓、感動がどっと押し寄せる! ウィリーがそこに現れるだけで、舞台は一気に静かな感動に包まれる。夫が生きていて、そこに現われるだけで、死も近い妻は、「ああ、ほんとに今日はしあわせな日、今日もまたしあわせな日になるわ!」と叫んで、小声で歌を口ずさむ。これは小さなしあわせでしかないのか。いや、二人にとっては十分に大きなしあわせなのだろう。今回の上演は、奇を衒わないオーソドックスな演出というべきで、たぶん本作はこういう作品なのだろう。2月上旬に横浜で劇団「かもめマシーン」の上演があるので、そちらも見て比べてみたい。(下の写真は↓、2015年ニューヨーク公演と1979年イギリス公演)

アラン・ロブ=グリエ 『エデン、その後』

charis2019-01-23

[映画]  アラン・ロブ=グリエ『エデン、その後』  横浜シネマリン  1月23日 


(写真右は、パリの大学の向かいにあるカフェ「エデン」、モンドリアンの絵の構図の中に若者たちがいる、下は、チュニジアの砂漠で炎の中で踊り狂うヒロインのヴィオレット、宗教的な儀式の生贄の娘なのか、映画全体でもっとも衝撃的で美しいシーン、その下は、終幕、砂漠で自分の分身に会うヴィオレット)


アリストテレスは「眼は、見ることを喜ぶ」と言ったが、ロブ=グリエが1970年に撮った本作も、視覚芸術としての映画をとことん突き詰めた映像美が素晴らしい。女性の美しい肉体が完全にオブジェとなって、石、砂漠、海と調和している。ヴィオレットを演じたカトリーヌ・ジュールダンは19歳だが、彼女のやや硬質な肉体は、石に立ち混じると輝くように美しい。これはやはりチュニジアの太陽光と石の家でしか撮れない映像美だ。有名な絵画のシーンに擬する「活人画」の手法も使われており(中条省平氏の解説)、マルセル・デュシャンの『階段を降りる裸体No.2』を生身の人間が実演し↓、「デュシャン」をまねた「デュシュマン」という怪しい男が、カフェ「エデン」では重要な役割を果たす。モンドリアンの絵の直線や、角ばった石の家、砂漠の地平線、砂丘の縞模様、海の水平線などと調和して人間の肉体はかくも美しくなるのに驚かされる。彼女たちの肉体は、幾何学の一部なのだ。↓



ロブ=グリエの映画は現実と虚構が複雑に入り組んでいるが、考えてみれば、絵画は現実の対象を直接見るわけではなく、虚構の対象を見るわけだから、「活人画」の手法はもちろん、石、砂漠、海の中に人間の裸体を配置するのは、生身の肉体を「絵のような」肉体に変え、視覚対象としての肉体を超越的なものにしているのだろう↓。



最後の分身のシーンもそうだが、ヴィオレットは、同性愛的に描かれているシーンが特に美しく見える↓。本作は上映された当時、「『不思議の国のアリス』と『O嬢の物語』の恐るべき邂逅」と評されたそうだ。



14分の動画がありました。映像美がよく分かります。
https://www.youtube.com/watch?v=PxZ6EzyhGnA

アラン・ロブ=グリエ 『不滅の女』

charis2019-01-11

[映画]  アラン・ロブ=グリエ『不滅の女』  渋谷、イメージフォーラム 1月11日


(写真右は、ヒロイン役のフランソワーズ・ブリオン、写真下も同じ、彼女はオブジェとなって、いずれも石の中に立ち混じり、白と黒の光と影になっている)



ロブ=グリエが最初に創った映画『不滅の女』(1963、L'immortelleが原題だから「不死の女」)。彼がシナリオを書いたレネ『去年マリエンバートで』が1961年だから、2年後。両者は、その映像美の素晴らしさ、光と影だけから映画が成り立っている点が共通している。イスタンブールに教師として赴任したフランス人の男が、ある謎の女と波止場で知り合う↓。女は男の部屋にやってきて、デートをし、セックスもする仲になるが、女は本名も教えず謎のまま↓。どうもセリムの後宮に外国から女を連れてくる秘密組織に関係するらしく、マフィアの親玉のような怖い男性の影もちらつく。そうこうするうちに、女は失踪し、やっと見つけ出すが、彼女が運転する自動車が事故をおこし、彼女はあっけなく死ぬ。死を受け入れられない男は、彼女の修理された自動車を探し出し、自分が運転するうちに、同じ場所で事故をおこし、彼も死ぬ。


「不死の女」というタイトルは、最後、死んだはずの女がまた映像に現われるからだろうが、それ以上に、彼女が生身の女というよりは視線に捉えられた<表象の女>だからだろう。彼女は非常に美しい肉体を持つ女だが、完全にオブジェになっていて、まるで大理石のようだ。映画全体が、イスタンブールのモスクや廃墟など、白い石の輝きに満ちており、彼女の肉体もまた、光景の中の石の輝きと同質のものだ。こんなに冷ややかなエロスを映像美に結晶させたのが、本作の際立った功績と言える。(写真↓)


二人は頻繁にデートもセックスもするが、どこかよそよそしく、二人の間に愛はまったく感じられない。映画の中で繰り返し「エトランジェ(=よそ者)」という言葉が発せられるが、G・ジンメルが、夫婦はもっとも「よそ者の関係だ」と言ったのを思い出した。相手が男/女という普遍的な性質を持っていればよいので、相手はいくらでも替えがきくから、「この人でなければならない」という必然性のないもっとも偶然的な関係なのだ(「よそ者についての補論」1908)。あと、本作では男たちの<視線>が怖い。オブジェ=よそ者を凝視する視線。女の肉体もまたそのように凝視される。(写真↓)



4分弱の動画がありました。冷ややかなエロスの美しさと、視線の怖さがよく分かります。
https://www.youtube.com/watch?v=wJJ45UJrZgQ

アラン・ロブ=グリエ 『快楽の漸進的横滑り』

charis2019-01-03

[映画]  アラン・ロブ=グリエ 『快楽の漸進的横滑り』  渋谷・イメージフォーラム 1月3日


(写真右は、ヒロインのアリスを演じるアニセー・アルヴィナ、映画『フレンズ』(1970)のヒロインとして有名だが、この映画(1974)でもとても可愛い少女顔、写真下は、彼女が監禁されている女子修道院の監獄、ぜんぜん監獄らしくない美的な部屋、彼女の輝くように美しい肉体の暴力性がこの映画の主題)

アラン・レネの映画『去年マリエンバートで』のシナリオを書いたアラン・ロブ=グリエの映画をようやく見ることができた。不条理性の唯美主義というのだろうか、オブジェとなった肉体の視覚的暴力性と美しさに衝撃を受けた。少女の美しい肉体が、それを見る人を打ちのめす暴力性として炸裂する。<見る性愛>というのは、こうした衝撃そのものを楽しむ快楽なのだろうか。物語そのものはまったくの不条理劇。二人の若いレズビアンの女性が(お金がなくなると娼婦をする)、ベッドに縛って体を傷つける遊びをしているうちに、うっかり殺してしまい、殺した少女アリスは修道院の監獄に収容される。彼女をいじめる修道女たち。捜査の警部や神父たちもアリスの肉体の魅力に打ちのめされて狂ってしまう。最後、美しい女弁護士と最初の殺害を「再現」するごっこゲームをするうちに、アリスはその女弁護士を殺してしまい、話は「最初にもどる」。ミシュレ『魔女』も素材に生かされているのか、修道院の地下室には拷問器具が並び、アリスは相手の喉に小さな傷を残して血を吸うので、魔女のアレゴリーなのかもしれない。写真(どれも左がアリス)↓



それにしても、視覚された肉体の暴力性をここまで美しい映像美に昇華させたロブ=グリエの手腕には驚かされる。修道院でアリスが着ている囚人服は、ものすごく可愛いミニワンピースだ(写真↓)。そして、海岸で転落した少女の周りに集まる少女たちは、まるで日本の女子高校生のよう↓。




全裸のアリスが赤い液体を体に塗り、白壁にプリントしてゆくシーンの色彩美は凄い。白い肉体に黒いヘアが美しく、壁に赤をプリントしてゆく裸体と壁がまっ白に輝く。↓

このシーン、3分弱の動画もありました。
https://www.youtube.com/watch?v=rZ6SK4ba3zs&list=PLOgijXIbP2jWUdyUX9NCCqA3LnmlfmamQ&has_verified=1
また、今回上映の6作の短い動画紹介もありました。
https://www.youtube.com/watch?v=aIVl4x-cEcY