[演劇] 木下順二『オットーと呼ばれる日本人』 民藝 紀伊国屋サザン 5.17
(写真↓は、舞台中央が尾崎秀実、右へアグネス・スメドレー、ゾルゲ。そして本人たち、毛沢東、朱徳、スメドレーの貴重な画像も、延安か)
初演が1962年、本上演が4回目で、丹野郁弓演出。評伝劇あるいは歴史劇の傑作だ。全篇、張りつめた緊張感に満ち、3時間40分があっという間。私は、シェイクスピア『ヘンリー五世』を想い出した。一番驚いたのは、尾崎の政治活動のスケールの大きさ。東大法卒→朝日新聞社員(含中国特派員)→首相近衛文麿のブレーンを務め、「ゾルゲ事件」で刑死した尾崎だが、「(暗号)オットーと呼ばれる日本人」は、革命家、ジャーナリスト、思想家を兼ねていた。舞台上の科白も、「帝国主義の矛盾の結節点が上海から東京に移った」とか、マルクス主義者のターム。思わずゾクっとしてしまう。最近の研究によれば、尾崎、ゾルゲ、スメドレーたちは、上海での中国共産党指導者である周恩来とも接触があった。尾崎の構想は、ソ連+共産主義中国+日本で「アジア共栄圏」を作り、欧米の帝国主義諸国家と対抗するというもの。それはユートピアすぎて不可能、と嘲笑するゾルゲとの議論が全体で一番面白かった。世界情勢の認識をめぐって二人は対立したが↓、二人ともそれぞれ非常に深く世界情勢を捉えている。1941年8月の時点で、世界革命という視点からは、あとは独ソ戦にソ連が勝つことだけが課題であり、日米開戦で日本は惨敗すればよい、とするゾルゲ。日米開戦だけは阻止したいと考える尾崎。結果的には、ゾルゲが正しく、尾崎構想は挫折した。ゾルゲは「日本での任務はすべて終了」とコミンテルンに電報を打つ。実に見事! ゾルゲは、KGB出身のプーチンが「国家の英雄」と讃えるだけの凄い人物だと思う。一方、尾崎は中国情勢を一番正しく捉えていた日本人と思われ、ちょっとした科白の端々から、中国革命を深く理解していることが分る。近衛文麿、西園寺公一、犬養健や、尋問での思想検事など、当時の体制エリートが尾崎を高く評価していた理由はたぶんそこで、尾崎は「スパイ」というちゃちな存在ではない。41年10月のゾルゲ+尾崎逮捕、そして刑死により、個人としての彼らの存在は終わったが、世界革命運動の一コマとしてみるならば、二人は非常に大きな功績がある。帝国主義の矛盾の結節点のど真ん中かつ最前線にいたのだから。
本作の登場人物はすべて実在だが、「ゾルゲ尾崎事件」はまだ全貌が明らかになっておらず、特に、戦後、アメリカでの「赤狩り」と連動した、日本GHQのウィロビーやラッシュによって「歴史修正」された部分がかなりある。戯曲は、それらが分る前の1962年に書かれたので、細部に修正すべきところはあるが、大筋は正しいだろう。また尾崎が魅力的な男性だったこともよく分る。美人の妻は兄の妻を奪ったわけだし、スメドレーも愛人だったのだから。(写真↓は、尾崎と妻、思想検事と弁護士など)