[演劇] シェイクスピア『ハムレットQ1』

[演劇] シェイクスピアハムレットQ1』 渋谷PARCO劇場 5.14

(写真↓は、オフィーリア[飯豊まりえ]、ハムレット[吉田羊]、王クローディアス[吉田栄作]、そしてホレーシヨ[牧島輝]、吉田が演じるハムレットは美しい、飯豊まりえはオフィーリアの他にフォーティンブラスも演じ、これも美しい王子だった)

森新太郎演出、『ハムレット』の最初の戯曲原稿といわれる『ハムレットQ1』を上演。分量が通常の上演台本『ハムレットF1』の6割で、各人の科白が短い。本上演も、上演時間がぴったり2時間半。今回のQ1版が通常のF1判と違うと感じたのは、(1)母ガートルードに対するハムレットのドロドロした性感情というフロイト的問題が消失していること、(2)<深みのある科白>がF1判より少ないこと、(3)ハムレットは、(a)竹を割ったような直情径行の体育会系キャラと、(b)思索的で優柔不断な苦悩系キャラとの両面を高度にもつ青年だが、そのうち(b)が消えて(a)だけになったこと、(4)『ハムレット』の一要素である、宮廷政治劇の要素が希薄なこと、等々である。ハムレットが、対立するクローディアスやポローニアスのハムレット包囲網の中でどんどん孤立していく過程が、各人物の言動のコミカルな要素を前景化したので見えにくくなってしまった。その反面、演劇の流れとしてテンポがよく、『ロミ・ジュリ』ほどではないが、時間が速く流れ、通常F1判フル上演のような時間的滞留感がない。何よりも、ハムレットの長大なモノローグがないのはいい。ただ、F1『ハムレット』でシェイクスピアが表現しようした、多面性・総合性が希薄になった。『ハムレット』は、宮廷政治劇だけでなく、仇討ち復讐、青春の若者の素晴らしい友情の崩壊、息子/母のドロドロした性感情、人間の狂気性など、実に多様な主題が輻輳している。その多様性が総合されるには、やはり一定の長さが必要で、F1版は無駄に長いわけではない。

ハムレット役を女性にしたのは、サラ・ベルナールが演じたこともあり、ハムレットは性を超越しているようなところがあるので、とてもよかった。ノルウェー王への大使二人も、バリバリのキャリアウーマンOL風の女性だし、旅芸人4人も女性、そしてフォーティンブラスをオフィーリア役の飯豊まりえが演じたのもいい。とにかく、吉田ハムレットも、飯豊フォーティンブラスも、少年のような凛とした美しさがある。ただ、ハムレットはただ四六時中、大声で怒っているばかりになったのは、上記の(b)の側面が希薄になったからだろう。また、「尼寺へ行け」のシーン、ハムレットが女の甲高い声になって人形を引き裂いてみせるシーンは、ハムレットの狂気を示すためだろうが、ここは微妙なところだ。ハムレットは「狂気を演じる」のだが、実際は演じ切れておらず、クローディアスはそれに気づいている。「狂気のふりをすることの失敗」もハムレットの重要な要素であり、それとオフィーリアの発狂との絶妙な対照が必要だ。旧ソ連のコージンツェフ監督版の映画『ハムレット』は名作で、ハムレットが宮廷で孤立してゆく過程とオフィーリアの発狂が、実に恐ろしいものに描かれていた。それに比べると、本作では、あらゆる場面でコミカルな言動を前景化しているので、オフィーリアの発狂もあまり「怖い」感じがしない。「尼寺へ行け」のシーンも、本当は、心が凍るような怖いシーンであるべきだと思う。吉田栄作のクローディアスは、長身でハンサムなため、どこか淡々としてクールにみえる。兄王と常に比べられてきた激しいコンプレックスと、性格のゆがみ、いじけからくる<醜さ>があまり表現されていないように思われた。とはいえ、これだけ明確にハムレットを人物造形し、全体を軽快な時間の流れ2時間半に収めた今回の舞台は、非常に貴重なものだ。

3分の動画

吉田羊が復讐に燃える王子演じる『ハムレットQ1』ダイジェスト│エンタステージ (youtube.com)