新国『トリスタンとイゾルデ』

charis2011-01-10

[オペラ] ワーグナートリスタンとイゾルデ』 新国立劇場, 1月10日


(写真右は第1幕の舞台。写真下は、左よりトリスタン、ブランゲーネとイゾルデ、クルヴェナールとブランゲーネ。ワーグナー歌手の中に混じると、ブランゲーネ役のツィトコーワは小柄だ。)

素晴らしい上演だった。マクヴィカー演出の舞台は、シンプルだが夢幻的で美しい。トリスタン役のグールド、イゾルデ役のテオリン、ともに十分な声量で、歌唱は充実感に溢れている。東フィルの音楽も、くっきりと澄んでいる。指揮は大野和士。演出も歌手もほとんど外国人だから「和製」とは言えないが、世界の一流歌劇場と比べても遜色のない舞台ではなかろうか。これほどの水準のワーグナーが東京で観られるというのは、本当に嬉しい。


トリスタンとイゾルデ」を絶賛したニーチェは、「これと肩を並べられるほど危険な魅力に満ち、無限の戦慄と甘美を併せ持つような芸術作品は、他にはない。・・・この作品は、まったくもってワーグナーの最高傑作である。彼は《マイスター》と《指環》によって、この《トリスタン》から癒された。健康になるということ、それはワーグナーのような人物においては退歩なのだ」と述べた(「トリスタンとイゾルデについて」1888)。今回の上演で私は、ニーチェの言う、《指環》でさえもが退歩であるような「無限の戦慄と甘美さの危険な魅力」が分ったような気がした。要するにこの作品は、「性愛と死の同一性」を謳っており、それだけを謳っている。演劇的要素が異様に少なく、人物の動きもほとんどなく、4時間ほぼ全部が音楽だけで表現されている《トリスタン》は、狂気と紙一重の世界ではなかろうか。性愛が甘美であればあるほど、そこには不可避に死の匂いが刻印されている。絡みつくような無限旋律によって、それが巨大な何かのように感情に前景化される。まさにニーチェが「戦慄」と表現したような体験だった。


たしかに『ロミオとジュリエット』も『曽根崎心中』も、似たような主題ではあるが、比較的短時間における演劇的表現によって、そこには「あっけなさ」のような「切れ」があった。だが、『トリスタン』は4時間ものあいだ「音楽漬け」にされるので、感情が隅から隅まで浸される。それは裏返せば、これほどの「力技」によってしか、性愛のおぞましさや動物性から、我々は浄化されないのか、我々はこれほどまでしなければ、性愛を「寿ぐ」ことができないのかという驚きでもある。ワーグナー自身がはっきり書いている。「[トリスタンとイゾルデは]完璧に上演すると聴衆は気が変になってしまうに違いありません。そうとしか思えません。ここまでやらなければならなかったとは!!」(当時恋人だったマティルデ・ベーゼンドンク宛て書簡)


今回、観て思ったのは、イゾルデは普通の人間の女性ではなく、やはり魔女の末裔だということだ。イゾルデの母(アイルランド王妃)にはまだ魔法の力が残っており、トリスタンとイゾルデの運命が決する「媚薬」は、母が魔術で調合したものだ。トリスタンは魔術的な力に巻き込まれてしまった犠牲者と言える。男性性を象徴する英雄の彼に何かメランコリーの「素質」があったにせよ、トリスタンはやはり、女性性の魔術的な力の前では受身の存在なのだ。今回のマクヴィカー演出は、イゾルデと侍女ブランゲーネとの対照を際立たせている。「夜」を象徴するイゾルデが、最初から最後まで性愛のオーラに包まれている肉食系女子であるのに対して、「昼」を象徴するブランゲーネは、性愛の匂いがまったくしない草食系女子。舞台では、ブランゲーネは繰り返し、膝を抱え込んで座り込み、うつむいたり、事態を傍観したり、無視したり、要するに、トリスタンとイゾルデの世界から徹底的に「距離を取ろうとする」存在として描かれている。原作にはブランゲーネのこうした振る舞いの指示はないから、演出家の解釈なのだろう。1階前列の良い席で鑑賞できた私には、少年のように可憐なブランゲーネを歌う、美しく小柄なエレーナ・ツィトコーワが、ひときわ印象的だった。(下の写真は、第2幕と第3幕の舞台。第2幕は、輪がLEDで光るとても美しい装置だが、私には男女の性器のように思えた。)