歌舞伎版『十二夜』

[演劇] 7.16昼の部  シェイクスピア十二夜』  蜷川幸雄演出  歌舞伎座


(1) 小田島雄志訳をもとに、今井豊茂の脚本。全体を三幕に分ける完全な歌舞伎形式。ヒロインのヴァイオラは「琵琶姫」、伯爵令嬢オリヴィアは「織笛姫」、オーシーノ公爵は「大篠左大臣」、執事マルヴォーリオは「丸尾坊太夫」など、名前が旨い。尾上菊五郎(マルヴォーリオ)と尾上菊之助ヴァイオラ)の親子が、要の役だ。舞台は壁全体が鏡になっている。役者の後姿や、花道、そして観客席を真正面に映し出すという大胆な仕掛けだ。衣装が光り輝き、大きな船が舞台に繰り出す。回転舞台が多用されて、ダイナミックな視覚美が映える。


明治時代にはシェイクスピアは歌舞伎風に演じられた歴史があるが、『十二夜』はたぶん初めてだろう。あだ討ち物(ハムレット)、大岡裁きヴェニスの商人)、心中物(ロミ・ジュリ)等と違って、『十二夜』のような「ロマンチック・コメディー」は歌舞伎の概念にない。そもそも『十二夜』の日本語初訳は他の作品よりだいぶ遅かった。98年に観た同じ蜷川演出『十二夜』(埼玉芸術劇場)は、平安貴族の服装だったが、歌舞伎様式ではなかった。その意味でも、この公演は日本演劇史に残る快挙。


(2) 伝統的な歌舞伎の音楽の他に、微妙な恋愛感情が吐露される場面はチェンバロが鳴る。歌舞伎にシェイクスピアを飲み込むのではなく、歌舞伎とシェイクスピアを”対等に融合”しようとしているのだ。宝塚や帝劇のミュージカル版『十二夜』もあるが、それらとは比較にならない深いレベルで、異文化衝突の「苦闘」が演じられた。


まず第一に、『十二夜』全体に溢れる「言葉遊び」を、どのようにして「芝居がかった台詞」である歌舞伎様式に取り込むのか。たぶんシェイクスピア劇中もっとも美しい作品である『十二夜』は、美的に洗練された会話が多く、笑劇風に笑わせればよいというものではない。男女のドロドロした深い情念を表現するのは、歌舞伎のお家芸だが、ロマンチックな恋愛感情の「跳ねるような、はじけるような、美しさ」を作り出すのは難題だ。小田島雄志がプログラムノートで言っているように、歌舞伎は25音を七・五調二回に分けて二息でしゃべるが、現代演劇は25音を一息でしゃべる。つまり、テンポが二倍違うから、歌舞伎の語りはどうしても「重い」。今回は、原作の言葉遊びがよく分るように苦心の脚本が作られたが、しかしテンポが遅いので、やや冗長に感じられることも事実。シェイクスピアに固有の、「感情が疾走する」感じを出すのは本当に難しい。


(3) もう一つの問題は、歌舞伎の女形は「うますぎる」ことだ。シェイクスピアでは、声変わり前の少年俳優が演じたが、その表現力の幅は限られたものだった。歌舞伎の女形は表現力の深みが違うので、どうしても「しっとりとした大人の女」になる。だが、ヴァイオラもオリヴィアも、その本性はピチピチした「少女」なのだと思う。菊之助(27歳)のヴァイオラはさすがに輝くような美しさがあったが、中村時蔵(50歳)のオリヴィアは「貫禄」がありすぎる。オリヴィアは「すぐ舞い上がってしまう」未熟な娘なのに。


菊之助ヴァイオラと双子の兄セバスチャンとの一人二役なので、最後二人が出会うシーンでは、セバスチャンを演じた。だが、ヒロインのヴァイオラをこそ演じるべきではなかったか。セバスチャンは影武者でよい。最後の大団円でヴァイオラの影が薄かったのが少し残念。(舞台写真はないが、チラシは↓)
http://www.kabuki-za.co.jp/info/kougyou/0507/7kg_11.html