上毛新聞に書いたコラム(4)

[上毛新聞コラム]  「視点」  2005年7月18日掲載


新しい仕方で作ろう――― 良い人間関係    植村恒一郎


ニート」を初めとして、「人間関係が苦手」な若者が増えているといわれる。世の中に「濃密な人間関係」が減ってきたともいわれる。確かにそうなのかもしれない。だが、「人間関係が苦手」とか、「濃密な人間関係」とか言っても、何を基準にそう言えるのか、はなはだ曖昧な話ではないか。たとえばケータイは、相手に直接つながる便利さがあるが、若者は電話よりはメールを使っている。電話で呼び出せば、相手の「今」を拘束するが、メールならそれがない。それだけ相手への思いやりが深いわけだ。これを「人間関係の希薄化」と見るのは一面的すぎるだろう。

長山靖生氏の近著『いっしょに暮らす。』(ちくま新書、二〇〇五年四月)は、「濃密な人間関係」を居住形態という視点から分析している。長山氏によれば、昔は本当の意味での「一人暮らし」はまれだった。子供時代を終え、さまざまな理由で親元を離れた若者は、外で「一人暮らし」をしたのではない。進学した者は寮や下宿に住み、働く若者は「住み込み」で働いた。「大屋―店子(たなこ=間借り人)」という言葉があるように、下宿の大屋は親のように振る舞い、間借り人の生活全般に介入した。学生寮には「ストーム」「鉄拳制裁」などのうっとうしい習慣があり、住み込みで働く若者は集団生活だった。いじめもしごきも当然あった。今のように、プライバシーの守られる各戸別のアパートやマンションに、単身者が住むことはなかったのである。

 しかし他方では、こうした集団生活は、それを終了すれば「一人前」の大人として一人立ちすることができた。それが「結婚して所帯を持つ」ということである。つまり、集団生活は、社会における自分の生活の「上昇」へのステップであり、「結婚」は同時に「上昇」でもあった。たとえば貧しい農村の娘は、都市に出て住み込みの「お手伝いさん」として働き、やがては「奥様」から縁談を世話されて、都市生活者の妻となることもできた。

 昔の社会では、生まれてから結婚するまでずっと集団生活で、「いっしょに暮らす」ことに慣れていた。その濃密な人間関係が、結婚して所帯を持つためのトレーニングにもなった。しかし生活水準が向上した今、結婚に「上昇」という動機付けはもうない。子供の頃から個室をあてがわれ、親元を離れても快適な「一人暮らし」に慣れた若者が、「所帯を持つ」ことに少しちゅうちょしたとしても、それは当然のことではないか。未婚率の上昇には、客観的な根拠があるのだ。

社会が成熟すれば、個人のプライバシーと生き方の多様性が尊重され、人間関係の濃い薄いも当然変わる。他者との「良い人間関係」は、われわれがもっとも望むものであると同時に、困難なものでもある。「この寂しさこそ、幸せの始まり」というのはシェイクスピアの言葉だが、人間関係を新しい仕方で作らねばならない時代になったのである。