雷ストレンジャーズ イプセン『青年同盟』

[演劇] イプセン『青年同盟』 雷ストレンジャーズ 下北沢 シアター711  9月17日

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 イプセンの初期の作品(1869)で、日本初演。世界的にもほとんど上演されないのではないか。戯曲はかなり長く、多数の登場人物の人間関係と利害関係が複雑にからんだ、ある意味でイプセンらしい劇だが、それを約100分間の楽しい喜劇にまとめている。人間関係の複雑さを、お面を頻繁に取り換えるミュージカル風のパフォーマンスで簡略化し、青年ステンスゴールが婚約に大失敗するという笑劇の部分がうまく前景化されている。俳優が一人何役もやらざるをえないからかもしれないが、大地主モンセンと元資本家ダニエル・ヘイレをともに女性に変えたので、全体が明るくなった。終幕の新聞屋の科白「土地の作法が全部でさあ」から分かるように、ノルウェーの地方の町を牛耳る守旧派の権力者たちと、よそ者である若い弁護士ステンスゴールとの戦いが主題の政治劇と言える。その点では、後年の『人民の敵』とも共通する。だが、「土地の作法」に無頓着な強引で独善的なステンスゴールが、「策士、策に溺れて」あっという間に失脚するところが喜劇なのだ。とりわけ、結婚を自分の政治的地位を強化するための手段としか考えていない彼は、同時に3人の女と婚約したつもりになって大失敗するが、それが劇の中核ともいうべき笑劇になっている。地元の人脈に明るい商人未亡人、大地主のおとなしい娘、「侍従」という貴族称号をもつ鉄工場主の大富豪の娘、この三人の女のいずれかと結婚するつもりになっている彼だが、「侍従」氏の誕生日パーティの席で、同時に、この三人の女とそれぞれの婚約者が現れてしまい、大恥をかいて終幕。この経過が、よく分かるように舞台化されている。(写真↓は、1986年に作られたノルウェーのTV映画から)

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 この作品を現代日本で上演する意義は、やはりその政治劇の側面だと思う。地方の町の政治経済を牛耳る権力者たちの生態と、彼ら守旧派の「土地の作法」がとてもよく表現されている。そして、それらと対決する新興ブルジョアジー自由主義者たち。この対決は、その現象形態は多様でありつつも、おそらく現代の世界のさまざまな場所で再演されているのかもしれない。そしてイプセン自身が、政治権力は世襲ではなく選挙で議員が選ばれる議会制民主主義に、熱い理想を抱いていたことも分かる。しかし、本作では、自由主義者として守旧派と戦うステンスゴールがあまりにも薄っぺらな人物なので、まったく共感できない。『人民の敵』のストックマン博士にも私は共感できなかったが、しかしイプセンの主旨はむしろ、議会制民主主義が「衆愚政治」に陥ることを示したかったのだろうか。すぐ熱狂する「大衆」は本作でも強調されており、この作品を「ポピュリズム」政治家への批判と取ることもできるかもしれない。しかし、それにしてはステンスゴールがあまりにも矮小な人物で、彼はポピュリズム政治家ですらありえないだろう。その意味では、見終わったあとに何とも言えない空虚感というか「後味の悪さ」が残る。しかしイプセン劇はどれも「後味が悪い」ところがその特質であるとすれば、本作も、この上演も成功していると言えるのかもしれない。(左から二人目、ステンスゴール、そして終幕)

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1986年にノルウェーで作られたTV版の動画が↓。

https://tv.nrk.no/serie/fjernsynsteatret/1987/FTEA00002686

近松門左衛門 『心中天網島』

[文楽] 近松門左衛門 『心中天網島』 国立劇場 9月7日

(写真下は↓「河庄の段」、小春(吉田和生)と、治兵衛の兄の孫右衛門(吉田玉男))

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 やっと『心中天網島』を通しで見ることができた。この作品は、一人一人の人物造形が細部まで完璧で、感情の揺れ動きが深く表現されており、全体の構成も素晴らしい。最初の「河庄の段」も、ち密な構成によって、内容の濃い、起承転結も含んだ、それ自体で完成度が高いものになっている。まず「河庄の段」が90分、そして30分の休憩をはさんで、残りの三段連続で110分という上演だった。「河庄」では、悲しみに沈む小春は終始うつむいてばかりで、とても暗い。太兵衛と善六のいやらしさと下品さもすごい。そして、治兵衛の愚かしさと対照的に、兄の孫右衛門は、弟だけでなく小春にも深い思い遣りをかけており、情もあつく倫理もしっかりしている人物だ。太兵衛と善六が箒を三味線にみたてて治兵衛をからかう「口三味線」のシーンはとても面白い。シェイクスピアの「劇中劇」と同じ発想なのだが、このシーンや、ダジャレなど言葉遊びで笑わせることができるのも、太夫の優れた語りがあればこそ可能になる。近松門左衛門は字余り字足らずが多く、語りも、それに三味線をうまく添わせるのも難しいらしいが、言葉のリズムの破調にも、たぶん近松作品の秘密があるのだろう(写真下は↓、太兵衛と善六)

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 しかし『心中天網島』が大傑作であるのは、何と言っても、小春とおさんという二人の女性の友情を核に据えたこと、そして、二人の女性を愛の主体として描き切っていることにあると思う。さらに言えば、二人の女性は、「情」としての男女の愛と、男女の愛における「倫理」とを、ぎりぎりまで両立させようとしたからこそ、小春は死に、おさんは離縁させられた。人間として何と立派な生きざまなのだろう! 二人とも正しく生きたからこそ、こういう結末になったのだ。おさんが、治兵衛に小春を身請けさせようと全財産を捨てるシーンは、ありそうもない人間行動だと批判する人もいるが、ここが『心中天網島』の一番の肝であり、おさんのこの行動という一点に、この作品のすべてが賭けられている。「小春を身請けして家に連れて来たらお前はどうするんだ」という治兵衛の問いに対して、おさんが「アッアさうぢゃ。ハテ何とせう、子供の乳母か、飯(まま)焚きか、隠居なりともしませう」と叫んで泣き沈むシーンは、終幕における小春と治兵衛の別行動の心中よりも、さらにそれ以上に、作品全体のクライマックスである。ここには、小春とおさんの友愛が賭けられており、宣長が『源氏物語玉の小櫛』を書いて儒者に反論したように、愛における「情」と「倫理」の葛藤と苦しみが、最高の水準と緊張において提示されているのだ。(写真下は↓、炬燵の横で対決するおさん(吉田勘彌)と治兵衛) 

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 今回の上演では、終幕の「道行名残の橋づくし」の段は、科白が原作よりも切り詰められていたが、これが普通の上演型式なのだろうか。しかし、疑問もある。小春が「自分は治兵衛と心中はするが、おさんとの約束を破りたくないから、それぞれ別の場所で死にましょう」という科白がカットされている。原作では、小春は「その文(=私は治兵衛と別れる、彼を心中させない、という小春のおさんへの手紙)を反故にし、・・義理知らず偽り者と世の人千万人より、おさん様一人の蔑み、恨み、妬みもさぞと思いやり、未来の迷いはこれ一つ。私をここで殺して、こなさん(=貴方)どこぞ所を変え、ついと脇で」と語るが、この上演では、「私をここで殺して・・」以下がカットされている。だがこの科白には、「二人が」心中するのではなく、それぞれが別の場所で死ぬことによって、おさんとの約束を守りたいという、小春のおさんに対する友愛が賭けられている。カットしてはまずい。あと、治兵衛と小春がともに髪を切って、法師と尼になったつもりになるシーンも、カットすべきではなかった。人形の被り物で表現したのかもしれないが(写真下↓)。

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今日のうた(100)

[今日のうた] 8月分

(写真(1948)は中村汀女1900~1988、虚子門下で活躍した、家庭生活や子どもを詠んだ優しい句が多い)

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  • 水脈(みお)の果(はて)炎天の墓碑を置きて去る

 (金子兜太1946、出征したトラック島からの引き揚げ船で詠んだ句、たくさんの同僚の兵士が死んだ、トラック島の現地には墓といってもごく簡素な「墓碑」があるだけ、それさえも「水脈の果てに置き去りにして」帰国の船中にいる) 8.1

 

  • 浴衣着て農夫に土の匂なし

 (寺山修司「山彦」1953、17歳の作、夏祭りの夜か、それとも普通の夜だろうか、知人の農民がさっぱりした「ゆかた」を粋に着こなしている、一瞬の違和感、でもすぐに、農民だからいつも「土の匂い」がなければならないわけではないと苦笑する) 8.2

 

  • 灯をともし潤子のやうな小さいランプ

 (富澤赤黄男『天の狼』、1938年頃だろうか、作者は動員され中国の華中を転戦中の句、すぐ前の句には「銃聲がある」とある、長女の潤子は小学校1年生くらい、句群の前書きに「潤子よお父さんは小さい支那のランプを拾つたよ」とある) 8.3

 

  • 隼人(はやひと)の名に負ふ夜声(よごゑ)のいちしろく我が名は告(の)りつ妻と頼ませ

 (よみ人しらず『万葉集』巻11、「夜中に来て私の名を呼んだ貴方に対して、私は、宮廷警備の兵士の隼人が出すあの大声にも負けずに、はっきり自分の名を叫んだわ、この声は私よ! さあ私を妻にして!」) 8.4

 

  • 心がへするものにもが片恋はくるしきものと人に知らせむ

 (よみ人しらず『古今集』巻11、「僕の心を、貴女の心と、取り換えてください、ああ、そうすれば、片思いに僕がどんなに苦しんでいて、もうほとんど死んでしまいそうなのが、貴女に分かるでしょう」) 8.5

 

  • 白露の玉もて結へるませのうちに光さへ添ふ常夏の花

 (高倉院『新古今』巻3、「とこなつ」は今の「なでしこ」、「ませ」とは低い垣のこと、「白露の玉で結ったように、白露がたくさんついている低い垣に、なでしこの花が咲いている、白露の光も花に一緒に寄り添って、なんて美しいんだろう」) 8.6

 

  • 夜もすがら契(ちぎ)りしことを忘れずは恋ひん涙の色ぞゆかしき

 (中宮定子1001『後拾遺集』、23歳で亡くなった中宮定子が一条天皇に宛てた辞世の歌、「夜もすがら契しこと」とは、生前の定子が一条天皇と七夕の夜に交わした愛の誓い、道長が長女の彰子を強引に「中宮」にさせたため、追われた定子の最晩年は苦しかった、今日は七夕) 8.7

 

  • 白露のなさけ置きける言の葉やほのぼの見えし夕顔の花

 (藤原頼実『新古今』巻3、「白露[=男性]が愛の言葉をかけたのかな、ほんのりと白い夕顔の花[=女性]が見えたよ」、『源氏物語』の夕顔の歌を踏まえる、植村は今日から山籠もりするので、しばらく「今日のうた」は休みます) 8.8

 

・桃色の炭酸水を頭からかぶって死んだような初恋

 (田丸まひる『硝子のボレット』2014、作者1983~は、自分の高校生の頃の初恋を回想しているのだろうか、「胸キュン」なんてそんな小さなものじゃなかった、「桃色の炭酸水を頭からかぶって死んだようになった」な、私は、あの時) 8.16

 

  • ああ君が遠いよ月夜 下敷きを挟んだままのノート硬くて

 (永田紅『日輪』2000年、作者1975~は生物学研究者、京大大学院修士の頃か、夜遅くまで実験室で実験をしているが、ふと、彼のことが気になって窓辺へ行く、実験ノートを手放さず硬く握りしめながら) 8.17

 

  • 沖あひの浮きのごとくに見えかくれしてゐるこころというけだものは

 (辰巳泰子『紅い花』1989、歌集の刊行時、作者は23歳、この歌は失恋の歌らしい、「見えかくれしてゐる沖あひの浮き」とは、失った彼氏なのか、それをまだ獲物として狙っている作者の「けだもののようなこころ」とも重なるのか) 8.18

 

  • 海を見てきましたといふ葉書など少女らに書きながき夏の日

 (永井陽子『小さなヴァイオリンが欲しくて』2000、作者1951~2000は孤独に生きた人、しかし、たくさんのもの、こと、人を、この人らしく愛した人、淡い恋を詠んだ彼女の歌は美しく悲しい、この歌も彼女らしい歌)  8.19

 

  • きみとの恋終りプールに泳ぎおり十メートル地点で悲しみがくる

 (小島なおサリンジャーは死んでしまった』2011、作者1986~の失恋直後の歌か、気持ちを鎮めようとプールでひたすら泳ぐ、深く潜ってプールの底を凝視しながら進む、十メートルの印が見え、突然突き上げる悲しみ) 8.20

 

  • 君は君のうつくしい胸にしまわれた機械で駆動する観覧車

 (堂園昌彦『やがて秋茄子へと至る』2013、作者1983~の彼女はバレーを踊っているのだろうか、彼女の体がゆっくりと滑らかに回転する、まるで「うつくしい胸にしまわれた機械で駆動」しているかのように) 8.21

 

  • 「ぼくネ」を「俺さ」とあわてて言いかえる <男の美学>は似合わないのに

 (林あまり『MARS ☆ANGEL』1986、作者1963~の学生時代の歌だろうか、彼氏はきっと可愛い男の子なのだろう、そんな彼氏を作者は大好きなのだ、[植村は山籠りで少し休みます]) 8.22

 

  • 冷蔵庫、お前のようにどっしりと構えていたい(精神の比喩として)

 (佐藤りえ『眠らない樹vol.2』2019、冷蔵庫が擬人化されているのが面白い、しかも「どっしりと構えている」というのがその美徳となっている、自分の家の冷蔵庫をそんな風に見る人はあまりいないだろう) 8.26

 

  • 邪魔ものを乗りこえるとき掃除機が子犬のような抵抗をする

 (杉埼恒夫『パン屋のパンセ』2010、「掃除機で床を掃除してるんだけど、床には大小さまざまなモノがあって、そういう<邪魔もの>のせいでなかなか進めない、掃除機本体も、子犬のようにまとわりついて、抵抗する」) 8.27

 

 (高濱虚子、アサガオは日没8~10時間後に咲くので、普通は早朝に咲く、「しらじらと夜が明け始め、空には星が一つ見えるだけになった、もう開いた紺色のアサガオが美しい」) 8.28

 

  • 朝顔や星のわかれをあちら向

 (加賀千代女1703~75、昨日の虚子の句「暁の紺朝顔星一つ」のように、アサガオは早朝に咲く、この句も「星のわかれ」とあるから早朝だろう、わずかに空に残っている星との別れのはずなのに、アサガオの花は「そっぽを向いている」) 8.29

 

  • 下り立ちて芙蓉の蜘蛛を拂ひけり

 (椎花、「あっ、庭に咲いている芙蓉の花に蜘蛛がいるぞ、いかんいかん、すぐ、庭に下りて蜘蛛を拂ったよ」、わざわざ「下り立ちて」と言ったのがいい、作者は、昭和の冒頭の頃、東大俳句会にいた虚子門の人か、今、我が家の近所の芙蓉が美しい) 8.30

 

  • 稲妻のゆたかなる夜も寝べきころ

 (中村汀女、子どもたちが「あっ、また光った」と言って、なかなか寝ないのだろう、「ゆたかなる」と詠んだのが、作者らしい優しさを感じる) 8.31

ケラ 『フローズン・ビーチ』

[演劇] ケラ・サンドロヴィッチ『フローズン・ビーチ』  シアタークリエ 7月31日

(写真↓は舞台、カリブ海のある島の豪華な別荘の一室、1887年、1995年、2003年の三回、友人である4人の女たちがこの部屋に集まる。写真下は、左から市子(ブルゾンちえみ)、千津(鈴木杏)、愛(花乃まりあ)、咲恵(シルビア・グラブ))

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今回は、ケラは上演には関わっておらず、鈴木裕美による演出。1999年の岸田戯曲賞受賞作品で、選考委員が言ったように、その時代の気分が先鋭に表出されている。「バブル期からその崩壊までの過程の、その時代感覚を軽やかに辿っている」(別役実)、「今のむかつくという気分に、あっけらかんと正直であり、なおクレバーな作品。市子というキャラクターはこれまでの日本の戯曲に出てきたことのない新しい狂人である」(野田秀樹)。1887年から2003年までの16年間、バブル期の狂気に近い躁状態から、崩壊後の鬱状態への転換が、4人の女性の感情と思考と行動にうまく表現されている。彼女たちは皆、高校生の頃から薬物でラリったり、どこかぶっ飛んだところがあり、親友でありながら激しく互いを憎むところもある。相手を殺そうとするのだが、いつも思わぬ偶然が働いて失敗し、殺人は行われない。そして、16年後は、バブル経済は崩壊し、島も別荘も地盤沈下で海中に沈むが、4人は和解する(写真↓)。

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「ボディコン・スーツ」「ビート・たけしのフライデー殴り込み」「村上春樹の『ノルウェーの森』」「バブルの崩壊」「オウム真理教事件」などの話題が、感情の狂騒と躁/鬱に対応して、実にうまく取りいれられている。女の生々しい欲望があちこちに顔を出すのもとてもいい。選考委員が何人も言っているように愛の双子の姉の萌の死が、後半の展開とは無関係に終わっており、劇の「全過程が的確に構造化されているとはいえない」(別役)。ただ、野田を始め多くの委員が言った「前半は良いが後半は作りが雑」というのは違うと思った。恋愛も結婚も友情も破綻し、激しく苦しむ彼女たちが、16年間を経て、憎しみ合う若者から、友情と友愛と取り戻す大人の女性へと変るのが、この作品の素晴らしいところだ。前半は、彼女たちに共感できず、いったい何だコイツラはと感じたが、舞台の最後には、彼女たちの誰をも、とても愛おしく感じる。終幕、愛のピストル自殺が失敗に終り、「さあ、生きるわ!」と決心した彼女が、嬉しそうに三人を追って海に飛び込み、四人の歓声が上がるシーンはとてもいい。登場人物たちへの愛おしさで終わるということは、この演劇が成功しているということだ。

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今日のうた(99)

[今日のうた] 7月分

(下の絵は野沢凡兆(生年不詳~1714)、芭蕉の弟子たちの中でシャープな句を詠んだ人)

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  • 立ち読みをしたる心にもち帰る意地悪そうな写真のアリス

 (杉崎恒夫『パン屋のパンセ』2010、『不思議の国のアリス』の著者ルイス・キャロルは写真家でもあり、意地悪そうな少女の写真も残っている↓、アリスのモデルなのか、この歌の作者は、買わずに「心にもち帰った」) 7.1 

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  • ぽぽぽぽと口から小鳥を吐いていると思い込んでいた空也上人像

 (穂村弘『角川・短歌』2019年4月号、鎌倉時代に作られた空也上人像↓、念仏を唱えているから、口から吐き出しているのは仏像、でも、小鳥と思っていたという作者、ひょっとして小鳥と語り合った聖フランチェスコと混同している? いいじゃん! 作者はミッションスクール卒業の人) 7.2

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  • 漁師さんと結婚しようと言われてる 海のない街の女子高生が

 (サツキニカ・女・25歳『ダ・ヴィンチ』短歌欄、穂村弘選、「本物の<漁師さん>からも<結婚>からも限りなく遠い。そんな<女子高生>たちの世界に充ちた他愛なさの魅力」と、穂村評) 7.3

 

  • 飲み過ぎてしゃがみ込んでる女の子 たき火のようにみつめる男子

 (柳直樹・男・42歳『ダ・ヴィンチ』短歌欄、穂村弘選、「そんな時、<男子>は手際よく介抱したりしない。<たき火のように>という比喩に惹かれます。それは手を触れることができない神聖なもの」と穂村評) 7.4

 

  • 覚えたてのひらがなで書いた「すきです」のお返しはガンダムの絵でした

 (ほうじ茶・女・23歳『ダ・ヴィンチ』短歌欄、穂村弘選、「恋という概念が伝わらない・・・と呆然としました」と作者コメント、その男の子は「すきです」が分からなかった? それとも本当は分っていて絵を返した?) 7.5

 

  • 「あたし」って打つ子に「私」で打ち返す今の私は嫌な顔してる

 (こんこん・女・35歳『ダ・ヴィンチ』短歌欄、穂村弘選、「きっと色んなことが合わないだろうなと思いました」と作者コメント、「<あたし>と<私>」の微妙な違いが、二人の世界の決定的な違いを示しているようです」と穂村評) 7.6

 

  • ローソンと月の光と入れ替えるくらいしなけりゃ閉じないよ目は

 (吉野・女・26歳『ダ・ヴィンチ』短歌欄、穂村弘選、「<ローソンと月の光と入れ替える>のひりひり感がいい。思わず目を閉じて、思わずキスする。そのためには、<月の光>のうねるような眩しさが必要らしい」と穂村評) 7.7

 

  • 空も地もひとつになりぬ五月雨(さつきあめ)

 (杉山杉風1647~1732、作者は芭蕉の弟子、「梅雨でしとしとと降る雨によって、自然の景は完全に塗り込められてしまい、空も地も見分けがつかない」、現代ではコンクリートや鉄のビル、道路、高圧線など人工物によってなかなかこうはならないかもしれない、明日、人工物だけが見える芭蕉の句を紹介する) 7.8

 

 (芭蕉1688、琵琶湖で詠んだ句、「琵琶湖は梅雨のしとしと降る雨によって、すべての視界が塗り込められたけれど、あの大きくて長い瀬田の唐橋だけが浮かび上がっている」、昨日の杉風の句のような自然景と違って人工物は塗り込められにくい) 7.9

 

  • 五月雨(さみだれ)に家ふり捨ててなめくじり

 (野沢凡兆、作者は蕉門、「梅雨の雨に誘われて、ナメクジが殻を捨てて這い出してきた」、当時はナメクジはカタツムリが殻を抜け出してきたものと誤解されていた、しかしこの句は、家を出て旅に立つ誰かを寓意的に詠んでいるらしい) 7.10

 

  • 腹あしき僧こぼしゆく施米(せまい)哉

 (蕪村、「怒りっぽい坊さんだな、ありがたそうな表情も見せず、せっかく受け取った施米の米を袋からこぼしながら行ってしまった」、「施米」とは国が貧僧に米や塩をほどこす行事のこと、蕪村には僧を風刺した句が幾つもある) 7.11

 

  • 夜(よ)を起きて人の昼寐ぞすさまじき

 (正岡子規1895、「あいつ、また夜更かししてちゃんと寝ないから、すごい鼾かいて昼寝しているぞ」、「すさまじき」と詠んだのが上手い、友人か知人だろう) 7.12

 

  • うき世いかに坊主となりて昼寐する

 (夏目漱石1896、次の句からすると、最近坊主になった若い知人が漱石の家に来ているのだろう、彼は今まで寺で厳しい修行をしていたのか、「うき世」では無邪気に昼寝しているよ、と) 7.13

 

  • 津の国のこやとも人をいふべきに隙(ひま)こそなけれ芦(あし)の八重ぶき

 (和泉式部『後拾遺集』、「摂津の国の昆陽[こや]のように、貴方に「来や[来てね]」と言いたいけど、芦の八重ぶきに隙間がないように、周囲の人目に隙がないのよ、だから難しいわ」、言い寄る男をやんわり断った) 7.14

 

  • ちり積める言の葉知れる君見ずはかき集めても甲斐なからまし

 (小馬命婦『範永集』、作者は清少納言の娘、歌人の藤原範永に貸した『枕草子』あるいは『清少納言集』を返してもらったときの歌、母の「草子」は、言葉の達人である貴方(=範永)に読んでもらってこそ本懐です、と) 7.15

 

  • 斧(をの)の柄(え)のくちし昔は遠けれど有りしにもあらぬ世をもふるかな

 (式子内親王『新古今』、「仙人の碁を見ていたら斧の柄が朽ちるほど時間がたち、王朝が交代していた、という中国の故事ではないけれど、お父様(後白河法皇)が亡くなって、私は、まったく違ってしまった世を過ごしています、ああ、なんて悲しいの」、「有りしにもあらず」が強烈な表現) 7.16

 

  • わが恋は人知らぬ間の菖蒲草(あやめぐさ)あやめぬ程ぞ音(ね)をも忍びし

 (宮内卿玉葉和歌集』、作者が17、8歳のとき「千五百番歌合」で詠んだ歌、「あやむ」は怪しむ、「私の恋は、見えない水面下の菖蒲の根のように、誰にも怪しまれないように、まったく声も出さずに、ひたすら忍んできたのよ、わかってね」 7.17

 

  • 世のつねの松風ならばいかばかりあかぬしらべの音もかはさまし

 (建礼門院門院右京大夫『家集』、「せめて私が人並みの琴の腕なら、どんなに貴方と合奏したいでしょう、でも下手だからダメなの」、琵琶の名手である西園寺実宗から「貴女の琴と合奏しようよ」と口説かれて断った) 7.18

 

  • 干竿の路地につきぬけ木槿

 (蜻川[せいせん?]、ムクゲは秋の季語だが、我が家の周囲ではすでに美しく咲いている、この句は都会の下町だろうか、民家の干し竿にぎっりしり洗濯物が干してある狭い路地を突き抜けたところの家の生垣に、木槿が咲いている、そういう木槿はひときわ美しい、作者については調べたが分らなかった) 7.19

 

  • ものゝ絵にあるげの庭の花芙蓉

 (高濱虚子1949、芙蓉の花は大きくてとても美しいが、どこか「絵に描いたような」ところがある、そこをぴたりと捉えた句だろうか、秋の季語だが我が家の周囲でも咲き出した) 7.20

 

 (正木ゆう子『水晶体』1986、面白い句だ、作者はたぶんいつになく特に美しく装ったのだろう、アマリリスの花のごとくに、男の友人(あるいは夫?)が、「あっ」という感じで、ちょっと伏目がちになって作者を見詰めるのを楽しんでいる)  7.21

 

  • 誰も見ていないオウムと風の接吻

 (寺山修司「暖鳥」1952、作者が高校1年の作、海辺のホテルで詠んだ句で、ホテルで飼われているオウムが風にキスするような動きをしたのだろう、寺山らしい独創的な把握) 7.22

 

  • 流れ星蚊帳(かや)を刺すかに流れけり

 (金子兜太『少年』、1944年か45年に出征したトラック島で詠んだ句、野営しているのか、蚊帳の中から夜空がくっきり見えている、そこへ「刺すように」流れ星が流れた) 7.23

 

  • 正直に梅雨雷(つゆかみなり)の一つかな

 (一茶、当時「梅雨雷」という言葉があったのだろうか、梅雨に雷が混じるようになると、梅雨明けも近い、「正直に」と詠んだのが卓越、さて、関東地方も梅雨雷となっている、そろそろ梅雨も明けるか) 7.24

 

  • かたつむりつるめば肉の食ひ入るや

 (永田耕衣『與奪鈔』1960、「つるむ」とは交尾のこと、梅雨どき、我が家に植えたきゅうりの茎や葉には、かたつむりがよく付着しているが、たしかにかたつむりの肉には特別な粘着性がある) 7.25

 

  • 小脳を冷やし小さき魚をみる

 (西東三鬼1936、代表句「水枕ガバリと寒い海がある」のすぐ前の句なので、「小脳を冷やし」とは「水枕によって大脳の後ろにある小脳がまず冷える」のだろう、うつらうつらする夢に「寒い海」や「小さな魚」が見えたのか) 7.26

 

  • 端居(はしゐ)して何かを思ひ出さざる

 (加藤楸邨穂高』1940、「端居」とは、昔、暑い日に室内の暑さを避けて、縁側などでくつろぐことだが、たいして涼しくはなかっただろう、「わざわざ端居して何かを思い出そうとしていたのに、それが思い出せない」、というのか) 7.27

 

  • 人だけが人を見ているゆうぐれの手信号 まだ滅んでいない

 (北山あさひ『眠らない樹vol.2』2019、昨年9月、北海道胆振(いぶり)東部地震の大停電、交通信号がすべて消えた夕暮れ、人間が手信号で交通整理をしている、「人が人を見る信号」だが、街は「まだ滅んでいない」) 7.28

 

  • 夜の空に後ろ姿の火星見ゆ近づくものは遠ざかるから

 (香川ヒサ『眠らない樹vol.2』2019、昨年夏の「火星大接近」を詠んだのだろうか、「後ろ姿」というのがいい、目の前の街路を人が通り過ぎるように、火星もまた作者のすぐ前を通り過ぎた) 7.29

 

  • ひつじ雲あわく千切れていくように家族はいつまで家族だろうか

 (天道なお『眠らない樹vol.2』2019、「幸福な家族」というものはたしかにある、だがトルストイも言うように、それは非常に漠然としたものだ、本歌の「ひつじ雲があわく千切れてゆく」ように、幸福な家族の存在時間は短い) 7.30

 

  • 下僕から召使への昇格にあと何個スタンプがいるのか

 (佐藤りえ『眠らない樹vol.2』2019、より優遇される立場になるために、スタンプをたくさん集める必要がある、それは分る、でもどんな場合の話なのかは読み手が想像するしかない、作者1971~は若者というわけでもない) 7.31