[今日の絵] 5月前半

[今日の絵] 5月前半

1 ヘンドリック・ステーンウェイク : アーヘンの市場広場

街には人がただ存在するのではなく、街で人は生きている、街の絵には必ずその生きざまが描かれ、画家がたくさん「街」を描くのは、そこにいる「人」を描きたいからだ、作者は17世紀オランダの画家

 

2 Francesco Guardi : サン・マルコ広場1760年代

フランチェスコ・グアルディ1712-93はイタリアの画家、ヴェネチアの都市風景をたくさん描いた、この絵も、広い空など遠近法が見事で、描かれた人々も生き生きとして活気がある

 

3シスレー : アルジャントゥイユの広場(ショッセ通り)1872

アルジャントゥイユはパリ北西10キロの所にある、アベラールとエロイーズの恋で有名な町、モネ、ルノワールシスレー、カイユボット等多くの画家が住み、郊外、川、橋など含めてたくさん描いた、どの絵も空が明るく美しい

 

4ムンク : 春の日のカール・ヨハン街1890

「カール・ヨハン街」はオスロの目抜き通り、街は光に溢れているが空はやや暗い、通りの両側にびっしり人が並んでおり、手前の人たちはそこに向かって歩いているのか、手前の人たちは女性の後ろ姿ばかりなのはなぜ

 

5 Pissarro : Rue Saint-Honoré in the Afternoon. Effect of Rain 1897

「サン=トノレ通り」はパリの中心街、午後の雨上がり、正面の建物1階の角はカフェだろうか、ピサロの描くパリの街はいつも端正で、人も含めて美しい

 

6 Theodore Butler : Place de Rome at Night 1905

セオドア・バトラー1861-1936はアメリカの画家だが、生涯の大部分をフランスで活動、モネと親交があった、この絵は「夜のローマの広場」と題されており、雨上がりなのか、まるで海上の舟の明りのよう美しさ

 

7 Maurice Prendergast : The Grand Canal, Venice 1899

モーリス・プレンダーガスト1858-1924はアメリカの画家、モザイクのような色彩で都市をたくさん描いた、この絵は、運河も道路も混みあっていて、活気がある

 

8 Bernard Boutet de Monvel : ヌムールの寄宿学校 1909

ベルナール・ブーテ・ド・モンベル1881-1949はフランスの画家、彫刻家。これは、フランスの都市ヌムールの街を歩く寄宿学校の生徒たちと先生。空、家々、並木、枝先、緑地、先生生徒の黒い服装などがよく調和している

 

9 Alson Skinner Clark : Panama City Plaza 1913

アルソン・スキナー・クラーク1876-1949はアメリカの画家、明るい光に溢れた風景をたくさん描いた、これはパナマ市にある広場らしいが、人々の賑わっている感じがよく描かれている、人々はただ歩いているのではなく何かしている

 

10 Konstantin Korovin : パリ 大通り1939

コンスタンティン・コロヴィン1861-1939はロシア印象派の画家、パリの夜の街もたくさん描いた、建物から漏れる光と路面での光の反射の融合が美しい、この絵は空が明るいのもいい

 

11 Jeremy Mann : New York City 2016

ジェレミ・マン1979~は現代アメリカの画家、夜の光の点滅する感じが素晴らしく、ニューヨークなど現代都市の雰囲気が見事に描かれている

[演劇] チェホフ『カモメ』 オスターマイアー演出

[演劇] チェホフ『カモメ』 オスターマイアー演出 静岡SPAC  5.6

(写真[シャウビューネ上演2023も混じる]↓はニーナ[アリナ・シュトレーラー]とトリゴーリン[ヨアヒム・マイアーホッフ]、マイアーホッフはドイツの有名な作家らしいが、今回のトリゴーリンはいかにも作家Schriftstellerらしい深みのある演技で素晴らしかった、ただ原作のトリゴーリンは30後半だが、この舞台では55歳に。トリゴーリンはアルカージナの「若いツバメ」なので、セクシーな若者であるべきだと思うのだが、Schriftstellerチェホフ自身の分身でもあるので、むずかしい役だ。ちなみにモスクワ芸術座『かもめ』再演1898でトリゴーリンを演じたスタニスラフスキーは35歳)

これまで『かもめ』は、日本人では、蜷川幸雄岩松了マキノノゾミ、齋藤晴彦、熊林弘高、鈴木裕美などの演出で観たが、今回のオスターマイアー演出のベルリン・シャウビューネ版は、斬新な舞台でとてもよかった。科白は原作をシンプルにしたのがいい。台本にないアドリブも多く、小さな円形舞台で↓、観客に俳優が話し掛ける観客参加型の演出。アドリブは字幕にないが、私はドイツ語が分かるので、最前列に座っていた私に「あなた、腕を組んでますね」と言われて楽しかった。第1幕のコースチャの劇中劇がそうだが、舞台と観客の関係そのものを問うことが、たしかに『かもめ』の一要素ではある。

今回、第1幕のコースチャの劇中劇は、コースチャを演じたラウレンツ・ラウフェンベルク(彼も作家らしい)自身が新たに書き直した新版だが、コースチャ自身が裸で踊るコンテンポラリーダンス風の、いかにも前衛劇になっていて、とてもよかった。(写真下中央↓、手前はアルカージナ[シュテファニー・アイト]、金髪の若々しい美女なのがいい)

『かもめ』はどの登場人物の人格も「曖昧」で、愚直なリアリズム演出ではうまくいかない。多くの場合、極端に様式化したりするが、今回の舞台は、リアリズムの線は守りつつ、登場人物のそれぞれの個性を突出させ、バラバラ感を強調したのが成功した。(1)『かもめ』の主題である「複雑な愛の絡み」、(2)トリゴーリンとコースチャという二人の作家Schriftstellerの「創作と実人生との関わり」を前景化した。(1)では、マーシャはコースチャが好き、コースチャはニーナが好き、アルカージナはトリゴーリンを好きなところに、ニーナもトリゴーリンを好きになる(しかも一時相思相愛に)、マーシャの母ポリーナは(夫のシャムラーエフではなく)医師ドールンが好きで、本当に好きな人とは結婚できないのが『かもめ』。マーシャはコースチャへの「恋を振り捨てて忘れるために、好きでもない教師メドヴェジェンコと結婚する」し、ニーナへの恋を告白したトリゴーリンに対してアルカージナが泣いてすがりついて跪く姿は、本当に切ない。(2)については、大変見事に描かれていて、芸術という主題についてトリゴーリンがニーナと心を通じ合えるのに対して、コースチャとニーナは最後まで心を通じ合えない。自分が二流の作家であることを自覚しているトリゴーリンと、それが分かっていないコースチャとの違いが、この結果を生んだ。トリゴーリンにもコースチャにも、チェホフ自身が幾分なりとも自分を投影していると思われるので、二人の違いは興味深い。「書くことは簡単だが、生きることはもっと難しい」というコースチャの言葉は、チェホフ自身のものかもしれない。今回、最後に登場する美しい「カモメの剥製」は、撃ち落されたカモメとは違う感じがした↓。そして何より感動したのは、最後に、ニーナが2年ぶりに劇中劇の舞台の残骸を見て泣くところ。これはチェホフ自身の演劇への愛を表現しているのではないか。『かもめ』がかくも多様な主題が一杯に詰まった作品であることがよく分った。

短いけれど、凄くいい動画が(暗いマーシャ!)↓

Die Möwe // Trailer der Schaubühne (youtube.com)

こちらはSPAC↓ 前列右端の青いシャツ、ノートを取っている観客が私、植村です(笑)

XユーザーのSPAC-静岡県舞台芸術センターさん: 「\『かもめ』全公演終了!/ 完売御礼となったオスターマイアー演出『かもめ』。静岡での全ての公演が終了いたしました🎉 昨年の3月にベルリンで初演を迎えたこの『かもめ』は、今日でちょうど50ステージ目とのこと㊗スタンディングオベーションとなった客席から、大きな拍手が贈られました👏 https://t.co/a0p0LfhHRE」 / X (twitter.com)

 

 

[演劇] キェシロフスキ『デカローグ1~4』 新国(小)

[演劇] キェシロフスキ『デカローグ1~4』 新国(小) 4.26/5.2

 

(写真は舞台↓、1988年のワルシャワの巨大な公営住宅に住む人々、舞台は、シンプルでスタイリスティッシュで美しい)

上村聡/小川絵梨子演出で、TV用映画10連作を舞台化した。キェシロフスキは『二人のベロニカ』『トリコロール三部作』を観ているが、この『デカローグ』もどこか共通する主題と美しさがある。主題は、偶然と愛と孤独といってよいだろう。「デカローグ」とは「モーゼの十戒」のことだが、本作は、日常のごく普通の市民に生じる結婚、不倫、妊娠、病気、子どもの事故死、父と娘の愛など、生活の些細な一コマの中に、偶然を受け止められられない個人の孤独が、非常に深く描かれている。「子どもをもつこと」が隠れた主題になっており、全体にポーランドという国の特徴であるカトリック信仰が背景にある。人間の美しさを静かに描いてるという点で、小津の映画に近いものを感じたが、内面の葛藤は小津映画より激しい。現代の我々は、科学的知識を背景に、病気など様々な出来事を一定の必然性の文脈で理解し、受け容れているが、しかし人間と人間の関係、自分と他者の関係については、本質的に偶然の契機があり、愛/憎いずれにしても、なぜそうなるのか分からず、自分の行為や選択が正しかったのかどうか確信を持てない。それゆえの孤独。これが『デカローグ』の主題。第一話は、言語学の大学教授とコンピュータが得意な小学生の息子だが、息子は凍った池に落ちるという事故で死んでしまう。無神論者の教授の深い喪失感と悲しみ。(写真↓)

デカローグ3は、妻と子どもと愛のあるささやかな家庭をもつタクシー運転手だが、クリスマスイブに元愛人が突然やってきて、困惑する。妻子に知られないように、そして元愛人も傷つけないように、彼は誠実に対応するが、元愛人も孤独で大きな嘘をついたりして二人の亀裂は深まるが、最後には和解。誰にでもありそうな話で、とてもリアル↓。

デカローグ2は、ヴァイオリニストの女性が癌で死にそうな夫(二人の間には長い間子どもができなかった)を前に、夫以外の男性と妊娠する話。今、妊娠3か月だが、夫が癌で死ぬかどうかで産むか産まないかが変る。夫の様態を医者に執拗に尋ねるが、医者は「どうなるか分からない」という。だが新たな転移が見つかり、医者は「夫はすぐ死ぬ」と告げるが、どういうわけか夫は奇跡的に回復する。中絶しかけた妻に対して、やっと自分の子供ができたことを喜ぶ夫、夫の子ではないことを知っているのは妻と医者だけだ↓。バッハ無伴奏ヴァイオリンの旋律が妻の孤独を深くする。

デカローグ4が私には一番感動的だった。小津映画と同様、父の娘の愛の物語。娘を産んですぐ死んだ母は、「父が死んだら開封してね」という手紙を娘に残す。本当は貴女は父の子ではない、別の男の子どもだ、と書いてあるその手紙を、あるとき娘は開けて読んでしまう。衝撃を受ける二人。だが、娘は「私は本当は手紙を読んでいない、自分の創作だ」と言い訳をし、父は父で、引き出しから別の封をした手紙を取り出してみせて、それを破る。こちらが本当の手紙だと言わんばかりに。つまり、本当はどうなのか、分からなくてよいのだ、でも父と娘は愛し合っていることを二人で確認し合う。私は『リア王』『リゴレット』『ヴァルキューレ』そして小津映画など、<父娘もの>に特に弱いので、デカローグ4にはいたく感動した↓。それにしても、偶然をうまく受容できず、人間関係の不全感に苦しむ現代人の姿が、実に見事に描かれている。デカローグ5~10にはさらに「きつい」物語もあるようだ。(愛を確認し合う父と娘↓)

2分の動画

新国立劇場の演劇『デカローグ2・4』(プログラムB)舞台映像、公開! (youtube.com)

 

[今日のうた] 4月

[今日のうた] 4月

行く春や鳥啼(な)き魚(うを)の目は涙 (芭蕉1689『おくの細道』、旧暦三月二七日、芭蕉は、深川から隅田川を船で千住まで行き、そこで見送った人々への別れの挨拶句、芭蕉の句には旅の挨拶句が多く、人と人との出会いと別れが重要な句興の場であった) 10

 

大酒(おおざけ)に起きてもの憂き袷(あわせ)かな (榎本其角、「袷」というのは、旧暦の四月一日に衣替えで着る服、「前の晩に酒宴で酒を飲み過ぎたよ、翌朝、せっかくの新調した袷を身に着けたけれど、ちょっともの憂いなぁ」、酒好きの其角らしく豪快に春の「もの憂さ」を詠む) 11

 

桃の木へ雀(すずめ)吐き出す鬼瓦 (上島鬼貫、「吐き出す」がいい、屋根の鬼瓦から桃の木へ向かって、どっと「吐き出される」ように雀の群れが移った。鬼瓦の鬼の面が怖くて驚いたわけではないが、雀の勢いをこんな風に表現するのが鬼貫の俳諧味) 12

 

平地(ひらち)行きてことに遠山(とほやま)ざくらかな  (蕪村、広大な空間性をもつ美を詠めるのは、なんといっても蕪村、「ことに」という小副詞を挟んで二つの大きな空間を接合する) 13

 

春風や牛に引かれて善光寺 (一茶1811、一茶が故郷の柏原に最終的に戻ったのは1812年で、これはその前年、49歳の一茶は歯をほとんど失い健康も衰え始めていた、ゆっくりと歩く牛にはとりわけ親しみを感じただろう) 14

 

受験生頭で割りぬゆで卵 (山田知明東京新聞俳壇」4月14日、小澤實選、「気分転換でやっているのか、それともちょっとヤケになっているのか。この受験生の合格を、選者として祈りたい」と選評、おまじないなのかもしれないし、自信の表れなのかもしれない) 15

 

花衣移ろふ闇に色のあり (加藤草児「朝日俳壇」4月14日、長谷川櫂選、「くらがりの衣桁(いこう)にかかる花衣。刻々と闇に沈んでいく」と選評、花衣というものは闇に沈むときも存在感を失わない) 16

 

陽は谷へ谷を埋めて花みづき (佐藤鬼房、「午後、陽光が谷の深いところにも当ると、そこは花水木で一杯だった」、花水木は街路樹として見かけることが多いが、野性にもあるのだろう、作者1919~2002は宮城県俳人) 17

 

返された合鍵で開けてみるドアきみの気持ちで開けてみたくて (風花雫「東京新聞歌壇」、4月14日、東直子選、「共同生活を終えることになったのだろう。「きみ」が使っていた合鍵を使ってその気持ちを想像した。「共に流れた時間を愛おしむように」と選評、物語のある歌」) 18

 

スーパーへ買い出しに来るママチャリの力士見かけて大阪は春 (中村玲子「朝日歌壇」4月14日、佐佐木幸綱永田和宏共選、「大阪場所が開催される春三月ならでは風景。どことなくユーモラスなのが嬉しい」と佐々木評。なるほどママチャリの方が力士は乗降しやすいのか」) 19

 

玉衣(たまきぬ)のさゐさゐしづみ家の妹に物言はず来て思ひかねつも (柿本人麻呂万葉集』巻4、「自分の旅出ちを見送る人達のかすかなざわめきが静まってみると、家に残した愛しい妻ともっと言葉を交わすべきだったと、悔いが残る」、「玉衣のさゐさゐ」は妻の美しさをも表現している) 20

 

春日野のわかむらさきのすり衣(ごろも)しのぶの乱れかぎりしられず (在原業平伊勢物語』、「狩衣(かりぎぬ)の裾を切って女に送った」歌、「しのぶの乱れかぎりしられず」が色っぽい) 21

 

言ふ事の恐(かしこ)き國ぞ紅(くれなゐ)の色にな出でそ思ひ死ぬとも (大伴坂上郎女万葉集』巻4、「世間の、人の噂はとても恐いわ、だから貴方、私を思ってくれる気持ちを顔に出しちゃだめ、思い死にするほど苦しくってもよ」) 22

 

妹が髪上げ竹葉野(たかはの)の放れ駒荒びにけらし逢はなく思うへば (よみ人しらず『万葉集』巻11、「君は、その豊かな美しい髪を荒っぽくたくし上げて、たてがみのようになびかせ、放し飼いの馬が荒れすさむように、僕から離れていってしまったようだ、もう逢ってくれないのか」) 23

 

いかにせん恋ひぞ死ぬべき逢ふまでと思ふに懸かる命ならずは (式子内親王『続後撰集』巻11、「貴方に恋してしまったので死にそうだわ、逢わなければ・・とか思ってずるずる生き延びてるけど、そうじゃなければ死んじゃいそう、あぁ、いったいどうしたらいいの」) 24

 

むばたまの妹が黒髪今宵もやわがなき床に靡(なび)き出でぬらむ (よみ人しらず『拾遺集』恋三、「君とはこのごろ疎遠になってしまったなぁ、今夜も君の傍らには、僕の代りに別の男がいるんだろうか、その美しい黒髪を君はなびかせているんだろうか」) 25

 

蝶飛んで女一人の渉る (高濱虚子1935、「渉る」は「かわわたる」と読むのか、一匹の蝶と一人の女が一緒に連れ添うように「川をわたった」、女は歩きだろうか小舟だろうか、いかにも春らしい) 26

 

薔薇垣の夜は星のみぞかがやける (山口誓子1932、「新月の頃で月明りはまったくない、でも満点の星の光だけで、そこに垣根のバラがあることがよく分る」) 27

 

発車する列車と歩み春日面(も)に (橋本多佳子1940『海燕』、友人か家族の誰かを駅のホームで見送っているのだろう。ゆっくりと列車が動き出し、自分も一緒に並んで歩く、窓の顔に「春日」が当たる中、ゆっくりと遠ざかっていく) 28

 

つばくらめ斯くまで竝ぶことのあり (中村草田男『長子』1936、草田男はツバメを詠んだ句も多い、ツバメは、鋭く翻りながら飛ぶ姿もいいが、等間隔に美しく「並んで」停まる姿もいい) 29

 

春蝉にわが身をしたふものを擁き (飯田龍太1949『百戸の谿』、「公子六歳となる」と前書、兄弟がほとんど戦死した作者、子どもはまだ長女一人だった、山梨県の山村で、長女を抱く作者を祝福するように春蝉を鳴いていたのだろう) 30

[今日の絵] 4月後半

[今日の絵] 4月後半

18 Michelangelo : Sistine Chapel (detail)

人物画で顔が重要なのは、そこに人格が表れるから、つまり人間の内面が一番表れるのが顔、角度や向き、質感、影の付き方、視線の鑑賞者との衝突の有無など、すべて関係する。ミケランジェロのこの絵は部分だが、ふっくらとした優しい感じが見事に描かれている

 

19 デユーラー(またはその弟子) : 紳士の肖像

この顔は、ほんの僅か上方を見ている目が素晴らしい、おそらく、相手の顔をじっと見ている眼差しだ、「相手にじっと見詰められると、その視線に耐えられず、落ち着かなくなる」(ヘッセ『デミアン』)、そういう視線

 

20 Vasily Tropinin : 画家の息子 1818

トロピニン1776-1857はロシアのロマン派の画家、40歳過ぎに農奴から自由になり、これはその直後、息子を画家が見守っている感じ、息子に対する深い愛情が読み取れる

 

 

21 Edward Davis : Innocence

エドワード・デイヴィス1833-1867はイギリスの画家、若死にしたが子ども等の生き生きした絵を描いた、これは、うつむき加減で上目遣いだが、内向的で人見知りしそうな少女なのだろう

 

22 Edgar Degas : Head of a Woman 1873

ドガの描く人物はたいがいは不機嫌な感じだ、この絵はわざと視線が分らないように描いている

 

23 ルノワール : 青い帽子の少女1881

ルノワールの描く少女は、目に特徴があって、知的な印象を受けるものが多い、たんに可愛いというのでもなく、大人の女性のように官能的でもない

 

24 Pierre Auguste Cot : Female Portrait

コット1837-1883はフランスのアカデミズム派の画家、どの絵も、描く女性の、内側から柔らかに膨らんでくる優美な肉体性が美しい、この絵も、顔、首、胸がとても優美で、眼差しも遠過ぎず近過ぎず、適度な距離を見ている

 

25 Franz von Stuck : Frau Feez 1900

フォン・シュトゥック1863 – 1928はドイツの画家、彫刻や建築もなした、メリハリの効いた絵を描く人で、この普通の人物画も、全体があっさりした筆致の中で、目を強調しているので、それが生き生きした表情を生み出している

 

26 アンリ・ルソー : 自画像1903

アンリ・ルソー1844-1910は49歳まで薄給の税官吏で、日曜画家だった、誰からも絵を習わず自己流の人、幻想的で不思議感のある絵がアンデパンダン展以降に認めら、やがてピカソなどに激賞された、遠近感・立体感がないが、人間や動物がどれも「面白い」顔だ

 

27 Modigliani : Young Girl with Blue Eyes 1917

モディリアーニの描く人物は、単純な線と面と色彩だけなのに、なぜこんなに美しいのだろう、顔の形と目との調和が魅力的で、光の方向は微妙だが、この女性がどういう人であるのかがよく分る

 

28 Picasso : Marie-Therese leaning 1939

マリー・テレーズはピカソの7人目の女、1927年、17歳のとき(写真)45歳のピカソの愛人になったが、妻オリガがいたので、関係は最初は秘密だった、1935年に彼女はピカソの娘マヤを生み、この絵の時点では母になっている、静かで落ち着いた母の顔

 

29 Heinrich Zernack : The Artist's Wife, Isa

ゼルナック1899 – 1945はドイツの画家、どの人物画も目が鑑賞者をじっと見詰めている、これは妻、目は小さく、どちらかというと地味系の顔かもしれないが、少女のような可憐さがある

 

30 Chagall: Self Portrait 1914

シャガールの絵はメルヒェンぽいものが多いが、さすがに自画像はそうではない。この絵の彼は27歳、視線がとても鋭く、鑑賞者を睨むかのようだ