[折々の言葉] 3、4月

[折々の言葉] 3、4月ぶん

 

趣味とは、些細なことにおいて自分を知る技術に他ならない。人生の楽しさは些細なことから織り成されるのだから、そういうことに心を向けるのは、どうでもよいことではない。(ルソー『エミール』) 3.1

 

人生の目的は、他者とのよい関係性そのものを生き、楽しむことにある。(植村恒一郎) 4

 

彼は、夫としての愛情など持ってはいないのだ。兵士が性能のよい武器を大切にするように私を大切にする。それだけのこと。(シャーロット・ブロンデ『ジェイン・エア』) 8

 

曲がった棒を直すためには、その曲がった角度と同じ角度だけ反対側に棒を曲げ返すべく2倍の力をかける必要があるとしても、驚くことはないでしょう。(デカルト省察』第5答弁) 11

 

パリの女たちには、顔の外観があるように、性格の外観というものがある。・・・彼女たちは流行を支配している、つまり、一人一人が流行を自分に有利なように適応させるすべを心得ている。(ルソー『新エロイーズ』) 15

 

ともかく、戦争とゲームとの境は見分けがたいのです。(ジャンケレヴィッチ『死とはなにか』、ウクライナやガザの戦争) 18

 

「<いや>と言うのは簡単なことだ」「いいえ、いつでも簡単とは限りませんわ」(アヌイ『アンチゴーヌ』) 22

 

王様の掟だってしょせん人間の掟です。だから人間ならそれを破れます。(ブレヒトソフォクレスアンティゴネ』) 25

 

恋愛というのは、誰もが一生に何度か経験するのだろうが、自分が本当に恋愛しているのかどうか、疑ったことがあるだろうか。自分がいま経験しているこれが恋愛であるということを、誰がどうして知るのだろうか。(秋山駿『恋愛の発見』) 29

 

敗北をこうむったのは、戦いを求めたからだ。(カフカ『審判』) 4.1

 

ソフィーは美人ではない。けれども、彼女のそばにいると、男性は美しい女性たちのことを忘れてしまうし、美しい女性たちも自分に不満になってくる。(ルソー『エミール』) 5

 

耳が満足すれば、目も満足したくなる。・・アリストファネスを読まない人は、人間がどこまで快活になれるかが、分からないかもしれない。(ヘーゲル『美学講義』) 8

 

どうして詩がすばらしいかっていうと、詩を読むと、この世にないものまでわかるからよ。しかも、この世にないもののほうが、この世にあるものより素敵でずっと真実に近いんですもの。愛さずにはいられない、愛さずにはいられない!(ツルゲーネフ『初恋』) 12

 

迸(ほとばし)り出る自分の思いそのままに生きようとしただけなのに、なんでそれがこうも難しかったんだろう。・・どんな人間の一生も、つまりは己へと向かう道だ。試行錯誤の道、かろうじて見える小道。だけど自分自身になれた者なんていまだかつていたためしがない。(ヘッセ『デーミアン』) 15

 

そのとき私の胸には、イヴの不埒に対する義憤が湧きあがった。天地が造物主に服していた当時、イヴは、創られて間もないただ一人の女でありながら、無知の帳の下にとどまる辛抱ができなかった。だが、もし仮に、イヴが従順にその帳の下にとどまってくれていたならば・・・。 (ダンテ『神曲・煉獄篇』) 19

 

そんな話、信じるでしょうか? / 聖書を信じるくらいですもの、私の話だって信じるはずだわ。(ガルシア=マルケス百年の孤独』) 22

              

人間になることが一つの芸術である。/ 自由は一つの物質である、その個々の現象は個人である。(ノヴァーリス『断片』) 26

 

人間が人間として存在するかぎり、・・愛は愛としか交換できないし、信頼は信頼としか交換できない。・・あなたが愛したとしても相手が愛さず、あなたの愛が相手の愛を作り出さず、愛する人としてのあなたの生命の発現が、あなたを愛される人にしないのなら、あなたの愛は無力であり、不幸なのである。(マルクス『経済学・哲学手稿』) 29

[折々の写真 ] 3、4月

[折々の写真 3、4月]

3.6 『高慢と偏見』 1995、 BBC制作の6時間もの、ジェニファー・エイル[リジー]、 コリン・ファース[ダーシー]、クリスティン・ボナム=カーター[ビングレイ]、スザンナ・ハーカー[ジェイン]、いずれも人物とキャストがぴったり、『高慢と偏見』映画版は本作が断トツ

 

13 『ジェーン・エアBBC版、1983、ブロンテ原作の映画版は本作が断トツ、ジェーン役のZelah Clarke 1954~は有名女優ではないが、これこそ「ジェーン・エア」その人という感じ、彼女は、ゲーテ的な「教養小説」の主人公であると同時に神話的な愛のアレゴリーでもある

 

 

20 グレタ・ガルボ(1905-90)、「クール・ビューティ」という美女カテゴリーはおそらく彼女からではないか、『肉体と悪魔』1926が一番いいが、『グランドホテル』1932も『アンナ・カレニナ』1935もいい。『肉体と悪魔』『アンナ・カレニナ』動画が

Flesh and the Devil (1926) film of memories / 肉体と悪魔・思い出のフィルム (youtube.com) Anna Karenina. Vivien Leigh vs Greta Garbo (youtube.com)

 

27 『去年マリエンバートで』1961は、脚本ロブ=グリエ、監督レネ。その様式美は、デルフィーヌ・セイリグ1932-90という一人の女性の美を基軸に、空間をゆっくり回転している、こういう映像はもう創られないだろう。3分の動画

『去年マリエンバートで』 L'Annee Derniere a Marienbad (youtube.com)

 

 

 

4.3 アンヌ・ヴィアゼムスキー1947-2017は、ゴダールの二番目の妻だが、ロベール・ブレッソンバルタザールどこへ行く』1966でデビュー、少女のかわいらしさ、美しさ、生命が輝く。少女がかくも美しい映画がかつてあっただろうか。短い動画↓

『バルタザールどこへ行く』『少女ムシェット』 (youtube.com)

 

4.10 シャルロット・ゲンズブール1971~は、セルジュ・ゲンズブールジェーン・バーキンの子、映画『ジェイン・エア』1996では、原作のジェインとは違うイメージなのに、不思議な魅力があった、普通の少女にはない硬質なエロスの耀きがあるからだろう

https://www.youtube.com/watch?v=ukzkwHy9ovA

 

4.17 ハンナ・シグラ1943~、ファスビンダーの『マリア・ブラウンの結婚』1979、『リリー・マルレーン』1981、後者は特に良かった、ナチスの暴力性のど真中にいる美しい女、短い動画が、 Peer Raben 映画「リリー・マルレーン」 THEMA WILLIE part 1 & Smoke Gets In Your Eyes from LILI MARLEEN (youtube.com)

 

 

4.24ゴダール『中国女』1967は、「五月革命」前なのに予見したかのごとく学園闘争が描かれている、ゴダールの「遊び」感覚が全編に溢れる美しい映像、アンヌ・ヴィアゼムスキーは、可愛い紅衛兵にぴったりだった。動画

映画「中国女」予告編 - ニコニコ動画 (nicovideo.jp)

 

[オペラ] ヴェルディ《運命の力》 Metライブ

[オペラ] ヴェルディ運命の力》 Metライブ Movixさいたま 4.22

(写真は舞台↓、男女の恋愛と戦争との関係が、本作の通奏低音のような主題となっている、それがとてもよく分る演出だった)

運命の力》はオペラとしては非常に深みのある作品だが、やや「問題作」でもあると思う。その理由は、本作が真の悲劇であるためには、復讐の鬼と化すドン・カルロにも何がしかの正義があり、ドン・カルロにも共感できなければならないのに、まったくできないからである。アルヴァーロの銃が暴発してカラトラーヴァ侯爵が死んだのは完全な偶然であり、アルヴァ―ロの責任はまったくない。恋人アルヴァ―ロと駆け落ちしようとした侯爵の娘レオノーラにも責任はまったくない。だから、アルヴァーロに復讐し、レオノーラを罰するために、二人を殺そうとするドン・カルロ(=レオノーラの兄)の行動には、正義はないはずだ。この点を作曲者であるヴェルディはどう考えていたのだろうか。そこが分らない。

 演出のトレリンスキ(ポーランド人)がインタヴューで言ったように、この上演にはウクライナ戦争が大きな影を落としている。ヴェルディには「アイーダ行進曲」のように、戦争を美しいものとして描くところもあり、本作では、ジプシーの娘プレツィオジッラが「戦争は美しい! 戦争は楽しい!」と繰り返し歌う場面があり(写真下↓)、兎の面を着けたバニーガールなど、戦争と性愛の密接なつながりが強調されている。それがよく分る舞台になっている。

レオノーレもアルヴァ―ロも非常に難しい役だが、リーゼ・ダーヴィドもセンブライアン・ジェイドも実に見事に歌い切った(写真下↓)。そして、インタヴューで紹介されたように、合唱の比類のない美しさ、崇高な美しさにも驚かされる。合唱の練習光景を見て、Metのオペラはここまで徹底した表現を追究していることに、あらためて感銘を受けた。

 

 

[演劇] 井上ひさし 『夢の泪』 こまつ座

[演劇] 井上ひさし 『夢の泪』 こまつ座 紀伊国屋サザンシアター  4.17

(舞台は↓、ミュージカルっぽく、喜劇仕立てだが、内容はド直球の史劇、東京裁判で戦犯とされた日本人被告の弁護人を務めることは、それだけで複雑な政治的圧力の渦巻く中心に置かれることになる、写真下↓)

井上ひさし作品は、ほとんど見ていないのだが、久しぶり。この『夢の泪』は、東京裁判三部作の一つで、非常な名作だ。偶然、A級戦犯松岡洋右元外相の弁護人を務めることになった、中年の弁護士夫婦とその娘、そして関係者たちの苦悩が主題。物語は創作だろうが、莫大な資料にもとづいて戯曲を書く井上だから、部分的にはモデルがいたと思われる。弁護士である妻の秋子も、「1943年、初めて女性にも開かれた司法試験に合格した5人の女性の一人」と紹介されているから、秋子に似た実在の人物がいたのかもしれない。この劇を見て、私が初めて知ったことは多い。8月7日に政府は官庁の重要公文書焼却を命じた(=この時点で降伏は決まっていた)、しかし大量の外務省公文書がアメリカに押収され70万通以上の重要文書が直ちにワシントン公文書館に移され、アメリカだけがそれを有利に活用できた。敗戦後、大慌てで朝鮮人を日本国民に「昇格」したのは、実は、国が彼らを救済しないですむ棄民政策だった。その朝鮮人棄民が戦後のヤクザ組織の成立と大きな関連をもっており、日本人に「昇格」させたにもかかわらず、日本の警察は朝鮮人棄民に対してきわめて不公平に扱ったし、彼らが朝鮮に帰国しようとしたのを阻止した。アメリカでの戦時中の日本人移民の扱いは、初期の過酷な隔離から徐々に変化した。東京裁判での被告の弁護人は報酬がでないはずだったが、日本側の抗議によって、連合国側が出すことになった等々。これらを私は初めて知ったが、こうした背景が、東京裁判に大きな影を落としているのだ。作中の近所の19歳の青年片岡健は、実は朝鮮人で、ヤクザの組織の父が急死したため組長代理を務めさせられている。(写真↓中央)

プログラムノートで演出の栗山民也は「演劇とは、記憶を刻む芸術」と述べているが、これは井上ひさしの作品を理解する鍵となる言葉だ。『夢の泪』は、作者が観客に伝えたいことがあまりも多い難解な作品だが、「人間の生の記憶を刻む」という演劇の使命を愚直に引き受けているともいえる。弁護人を引き受けた夫妻は、松岡洋右の肺結核悪化のために、実際は弁護活動がなくなったのだが、夫の菊治は、報酬のことばかりしか念頭になく、東京裁判の意味がほとんど分かっていない。それに対して、妻の秋子は、東京裁判をどう戦うかが、日本を再建する方向性に関わるほど重要であることを、よく理解している。つまり、歴史の中での「現在」の意味をよく理解している(写真↓中央、演じた秋山菜津子は素晴らしい名演、秋山を今まで何度か見ているが、これほどの名優とは!)。そして、多くの日本人は生き延びることに精一杯で、自己利益だけしか考えられず、その「現在」の意味がよく分っていない。これが、『夢の泪』で井上が伝えたかった「記憶」の一つなのだろう。天皇の戦争責任を不問にするという連合国側の政治的決定により、せっかくベルサイユ条約で初めて成文化された「国家元首の戦争責任」が、日本に適用されず、それが東京裁判に大きなゆがみをもたらしていることが、ちゃんと舞台の人物の口から語られる。そして、これが井上の結論なのだが、「結局、戦争犯罪は、日本人自身が裁き手にならなければ、本当の裁判はできない。なのにそれができなかった」という一番重要な反省を、「記憶」としてしっかり伝えるものになっている。そして、ブレヒトの音楽劇に倣って、歌をたくさん挿入したのが成功している↓。

 

[演劇] 平田オリザ 『S高原から』 駒場アゴラ

[演劇] 平田オリザ 『S高原から』 駒場アゴラ 4.15

軽井沢?あたりにある高級サナトリウムの面会室、裕福な若者たちだが、みな自分の死を予感しており、見舞いの友人たちと一緒に明るくふざけ合っているが、孤独は深い↓

アゴラ閉館で「さよなら公演」の一つ。1991年初演だが、平田演劇の主題である<人と人との距離の感情の動き>が見事に表現された名作だ。マン『魔の山』をベースに堀辰雄風立ちぬ』をちょっと加えたという全体の構想がいい。サナトリウムなら入所者が昔の小説『風立ちぬ』を話題にする可能性は大いにあり、「いざ、生きめやも」の「めやも」の部分は、舞台の各人の深層意識の核心にもかかわらず、誰もその意味が分からず、入所者も見舞いの友人たちも一緒になって延々と議論する。誰かが、「生きやもめでしょ?結婚したばかりで相手が死ねば、やもめになっちゃうもん」とふざける。これは平田の発案か、凄い会話だ。見舞いにくるのは婚約者、親しい友人など、入所者の親密圏にある人達だが、だからこそ、もうすぐ死ぬ可能性の高い相手との距離感の揺れに深く悩まざるをえない。平田は、その感情の繊細な動きを優しく見守り、そして美しく描く。

 入所者の村西には大島という恋人がいて(写真上左↓)、見舞いにくるが、彼女は大学時代の友達を連れてきて一緒にホテルに滞在するつもり。村西と大島は毎日電話で話す仲だが、村西はサナトリウムの人達に対しては大島を「友達です」としてしか紹介しない。実は大島は村西とではなく、半年後に勤務先銀行の同僚と結婚するつもりで、それを村西に告げることが、ここに来た本当の理由だが、辛くて自分からは言えないので、大学時代の友人を連れてくる。大島がホテルに戻った後に、その友人がやってきて、村西に大島の結婚のことを告げるが、彼女もとても辛い(写真下中央↓)

前から入所者の西岡は画家(写真中央↓)。彼には上野という恋人の女性がいて(写真左端↓)見舞いに来るが、第三者に対しては、西岡は上野のことを「僕が、前、婚約してた人」と言い、上野は自分のことを「[西岡の]婚約者です」と言う。そのズレがとても切ない。上野は夏休みに自分の両親と西岡と一緒にフロリダに旅行したいと思って案内パンフを持ってくる。が、西岡は「サナトリウムからはなかなか出られないんだ」と曖昧な言い方をする。サナトリウムには前島という女性の入所者がいて(写真右端↓)、彼女は明るい美人だが、あと半年以内にたぶん死ぬ。西岡は上野には「ここでは絵は描いていない」と言うが、実は、ときどき前島と山渓を散歩して彼女をスケッチしている(『風立ちぬ』をかすかに感じさせる)。それを知った上野が前島に激しく嫉妬するのがとても切ない。

『S高原から』は、『魔の山』と『風立ちぬ』をぐっと圧縮して100分間の演劇に再構成した作品で、それに成功している。<出逢いと別れは、人の人生そのもの>というのが平田作品の主題だが、最小限の人の動きだけで、これほど深く人の感情を表現できるところが凄い。その点では、平田演劇は小津安二郎の映画によく似ている。5月11日に『安房列車』『思い出せない夢のいくつか』を見れば、平田の主要作品はほぼ全部見られたことになるはずだ。駒場アゴラ劇場よ、さようなら。素晴らしい演劇をありがとう!