新国立劇場『神々の黄昏』

charis2017-10-14

[オペラ] ワーグナー『神々の黄昏』 新国立劇場 10月14日


(写真右は、ブリュンヒルデ(P.ラング)とジークフリート(S.グールド)、二人の歌唱は本当に素晴らしかった、写真下は、終幕、ギービヒの館とヴァルハラ城に火を放つブリュンヒルデ、そして彼女は愛馬グラーネとともに、炎の中に飛び込む)

『指環』4作を通して実演で観たのは、まだ二回しかないのだが、この『神々の黄昏』には非常な戦慄を覚えた。キース・ウォーナー演出はシュールで美しかったけれど、ゲッツ・フリードリヒ(1930〜2000)演出の本作には、この作品の「恐ろしさ」を心底感じさせられる。悲劇というにも、余りにもむごい黙示録的な結末。ワーグナー最高の旋律、「愛の救済の動機」が15回も響いて、最後の7小節もそれで終るのではあるが、それはピアニシモで心細い(稲田隆之氏のプログラムノート)。ブリュンヒルデが「黙示録の天使」(フリードリヒのプログラムノート)となる「愛による救済」は実現しているのだろうか? フリードリヒは「ジークリンデの愛のテーマが響くワーグナーの偉大なる最後の7小節は、私たちにそう信じてほしいと語りかけている」(同)と言う。ワーグナーは「愛とは“永遠に女性的なるもの”の謂いなのです」(手紙)と言っているが、『黄昏』のブリュンヒルデはあまりにも衝撃的だ。神から人間へ降格された彼女は、憎悪と恨みを抱いて死んでいったのではないのだろうか? フリードリヒが「黙示録の天使」と言ったのは、ラッパを吹く7人の天使が世界と人間を滅ぼしたことを、火を放つブリュンヒルデと重ねあわせているのだろうか? 「永遠に女性的なるもの」の愛による救済は、そうあってほしいと我々が信じるしかないような仕方で『指環』は終わっている。(写真下は、第1幕終り、薬を飲まされ記憶を失ったジークフリートにレイプされる直前のブリュンヒルデ、第2幕、ジークフリートに槍を向けるブリュンヒルデ、そして終幕、焼け落ちる神のヴァルハラ城)



『指環』のブリュンヒルデは、おそらくは、西洋文学や芸術が形象した最高のヒロイン、至高の「愛のアレゴリー」であり、ギリシア悲劇アンティゴネーや『リア王』のコーディリアと同様の神話的女性だが、どうして、これほどの恥辱と苦悩の中で死ななければならないのだろうか。『ワルキューレ』終幕で、父ヴォータンによって神から人間に降格される彼女は、ヴォータンが「神である私より自由な者だけが、お前を火の中から救い、妻とすることができる」と述べたように、「自由な人間」とそれが創る世界への希望があった。しかし『黄昏』では、人間とは何というダメな存在なのだろうか。ジークフリートの愚かさと惨めさは、もはやどこにも英雄の影はない。本作は、『神々の黄昏』であるよりはむしろ『人間の黄昏』ではないのか。ワーグナー自身が「愛による救済」を信じきれず、そうあってほしいという「祈りを込めるしかなかった」という、稲田隆之氏の解釈に賛成したい。それにしても、今日、『神々の黄昏』を観たことは、私の乏しい芸術体験の中でも、特筆すべきものだった。美しい舞台も素晴らしかった。(写真下は、グンター、グートルーネ、ハーゲン、そして、グンターを刺し殺すハーゲン、そして、ラインの乙女たちの色仕掛けにたぶらかされるジークフリート)



5分間の動画があります。
http://www.nntt.jac.go.jp/opera/gotterdammerung/movie.html
もう一つ、よい動画が。上とは違う場面です。
https://www.youtube.com/watch?v=abugcZMaVx0