野崎綾子『正義・家族・法の構造転換』(2)

charis2011-03-27

[読書] 野崎綾子『正義・家族・法の構造転換――リベラル・フェミニズムの再定位』(2003,勁草書房)
                              
(写真は、著者が大学院修士のときに書いた処女論文「日本型<司法積極主義>と現状中立性」が最初に掲載された本。彼女が弁護士時代に担当した訴訟に関わるもので、交通事故死した女子の補償金が男子よりずっと少ないことの不当性を鋭く追及した。本書にも収録されている。)


(承前) 野崎綾子の概念整理によれば、「善」は、人がものや事柄に対して持つ関係であったり、個人だけに関わることもありうる価値であるのに対して、「正義」は、「正/不正、平等/不平等、公平/不公平」が核となる規範、つまり、純粋に人間と人間の関係を規定し、律する、非個人的で公共的な規範なのである。だが、平等については、ロールズの正義の二原理だけでは足りない。著者は、ハンナ・アレントの「等しくないものの平等」という概念を援用し、アレントが公共性=政治の圏域で考えていた原理を、ジェンダー領域に適用する。アレント自身はジェンダー論には関心がなく、アファーマティブ・アクションには強く反対していたが(野崎p97,100)、そういうアレントを越えて、男女という「等しくないものの平等」にアレントの平等原理を適用したのが、野崎の功績である。


>「等しきは等しく、不等なるは不等に扱うべし」という正義の理念は、ある属性を持つ個体と持たない個体を異なって取り扱う場合に、その属性のレレヴァンスを示す理由により、異なる取り扱いを正当化することを要請する。性差[=ジェンダーのこと]は社会的に構築されるのだから、女性のみが無償労働の負担やそこから生じる不利益を負うことを、従来なされていたように、生物学的な理由によって正当化することはできない。(p80)


男性と女性は明らかに異なる属性であり、「男性と女性は、等しくないのだから、等しく扱う必要はない」という結論に一見なりそう(ref. 保守派の「男女特性論」)。だが、正義の原理のポイントは、異なる取り扱いは、その正当な関連理由(重要性=レレヴァンス)が提示された場合にのみ許されるという点にある。だから、その関連理由が不当であれば、異なる取り扱いをすることも不当であることを、正義の原理に照らして主張できる。これが、野崎の着眼点である。


>これらの共同体(政治共同体や商業共同体)の共同性は――アリストテレスの例をとれば――二人の医者の間の団体(コイノーニア)から成るものではなく、医者と農夫の間、「そして一般的には異なっていて等しくない人々の間」で成り立つものだからである。公的領域につきものの平等というのは、必ず、等しくないものの平等のことであり、等しくないからこそ、これらの人々は、ある点で、また特定の目的のために、「平等化される」必要があるのである。そう考えると平等化原因は人間「本性」から生じるのではなく、外部から生じる必要がある。(アレント『人間の条件』より、野崎p98)


アレントは、平等の基礎を自然的な属性に置かない。・・・自然的な属性に基礎を置かなければ、権利の問題を論じる前提として、「自然」を論じる必要がなくなる。フェミニズムの論じてきた問題は、「自然」をめぐる問題であったといえる。すなわち、生物学的本質主義の、女性のアイデンティティがセックスという「自然」により定まるという議論を、いかに反駁するかという問題である。平等が「自然」に基礎を置かないのならば、生物学的本質主義をとるか、社会構成主義をとるかは、権利の問題とはイレレヴァントになる。(p99)


アレントは政治=公共性の領域における平等を論じたもので、ジェンダーや家庭については語っていないが、アレントにおいて「なぜ人は平等であるべきか」の論拠は、「ある自然的属性が等しい」からではなく、「人間の本性の外部」にある。逆に、自然的属性が異なったとしても、そのこと自体は、異なる扱いを正当化するものではないことになる。これは、ジェンダーにおける平等の主張に重要な支えを与えるものと考えられる。なぜなら、ジェンダーに不平等を容認する「男女特性論」は、セックスという自然的特性が、男女を不平等に扱うことを正当化するためのレレヴァントな理由とみなしているが、しかし、たとえ社会生物学が言うような、男女の生物学的特性の差異が立証されたとしても、そのことが自動的に、男女の不平等な扱いを正当化することにはならないからである。


アレントのいう「等しくないものの平等」は、アファーマティブ・アクションなどの制度を基礎付けうる可能性もある。以上述べてきたアレント的平等(「等しくないものの平等」)は、正義の概念を定式化する命題である「等しきものは等しく、不等なるものは不等に扱わるべし」という定式(「平等定式」という)と抵触するのではないかという疑問が生じるのは自然なことである。アレント的平等と平等定式はいかなる関係に立つのであろうか。(p101)


まず野崎は、平等定式を廃棄して、それをアレント的平等で置き換えることはできないと言う。平等定式は、ある意味では、根源性を持っている。


>「等しきは等しく」定式が意味するものは、ある属性が、その属性を持つ個体と、それを持たない個体と差別的に取り扱うには、その属性の重要性(レレヴァンス)を示す理由が示されなければならないということだから。(101)


つまり、アレント的平等を可能にするためには、その条件として、平等定式が論理的に先行している。たとえば、「腕力が強い」という属性があり、それを持つ者(=男)とそれを持たない者(=女あるいはひ弱な男)の差別的な扱いが容認されるのは、その特定の仕事に「腕力が強い」ことが不可欠であることが必要(たとえば荷揚げ人夫)。そうでない場合は(たとえばデスクワーク)、「腕力が強い者」と「腕力が弱い者」を差別的に取り扱ってはならない。これが平等定式の意味するところ。アレント的な「等しくない者の平等」は、この場合の後者、つまり「腕力が強い者」と「腕力が弱い者」を平等に扱うべしという場合に相当する。


しかし、だからといって、アレント的平等は平等定式の中に完全に包摂されてしまうわけではない。平等定式の意味するものが、レレヴァンス提示という理念にあるとすれば、レレヴァントな理由が示されさえすれば、差別的な扱いも許容されることになる。だが、問題はまさにここにある。不平等な扱いを正当化する根拠として持ち出される「レレヴァントな理由」なるものが、つねに正当であるとは限らないからである。それを問いただすためにこそ、アレント的平等は必要なのである。


>(経済的な効率というレレヴァンスが、差別を正当化する事例として)、雇用者が労働者を雇う場合、家庭責任の有無[たとえば、男は家事・育児をしなくてすむ]は、候補者を差別的に取り扱うための、レレヴァントな理由であるとも考えられる。だが、二級市民性を除去するためには、かかる理由は、イレレヴァントであるとする必要があるのである。(102)


つまり、家事育児をしなくてすむ男は長時間労働に耐えるから(残業が可能)、「経済的な効率」がレレヴァントである経営者にとっては、優先的に男を雇うことが正当化される。だがそれを「レレヴァントな理由」だと見なす経営者の視点は一面的なものでありうる。別な視点から見れば、それは「イレレヴァント」な、つまり不適切な関連理由ともなりうる。


>そこで私は、第三の可能性、すなわち、アレント的平等は、平等定式を書き換えるものではなく、この定式に外在的な制約を加えるものとする考え方を提示したい。アレントが引用した「医者と農夫」の例に見るように、公的領域においては、「異なっていて等しくない」人々の間に平等が実現されることが重要なのである。人々が「異なっていて等しくない」ことそれ自体が公的領域において重要なのであり、アレント的平等の理念は、人々の間の差異が一定の閾値以下に減少することに対して、反対の力を加える意義を持つと考えられる。(p103)


>『人間の条件』においてアレントは、人間の活動力を「労働labor」「仕事work」「活動action」の三種類に概念化した。「活動」とは「物や物質の介入なしに、直接、人と人との間で行われる唯一の活動力であり、複数性という人間の条件、すなわち、地球上に生き世界に住むのが一人の人間ではなく、複数の人間であるという事実に対応している。」(『人間の条件』)と定義される。彼女によれば、「活動」が公的領域=政治の領域に対応する活動力なのである。(p104)


>異なる「何か」としてのアイデンティティを持つ者たちが、それを「解釈・定義し直す」ことによって「誰か」としての公的領域に現われることに意義があるのではないか。先に見たように、「活動」とは、複数性という人間の条件に対応する活動力であった。この複数性を公的な領域において維持するには、「何か」の異なりそのものを維持することが必要なのではないだろうか。アレント解釈からは離れるかもしれないが、それが「等しくないものの平等」の意味するところであると考える。このように解することで、公的領域における人格的アイデンティティを、多元的で、かつ反本質主義的なものと解することができる。(p105)


以上、引用が長くなったが、野崎がアレントを援用して考える新しい平等性は、自然的なものにもとづく「異なり」の多元性を必ず含み、そして、それを含んで実現される平等であり、人間は、このように他者と自己との関係を新たに創造できる反自然的・超越論的な「自己解釈的存在」であることによって、各人がそれぞれ持つ自然的・事実的・偶然性を「引き受ける」ことができる。自分が男に生まれるか女に生れるかは、自分の自由にならない偶然性である。「契約」=「約束」という自発的行為は、われわれ人間が単に受動的に偶然性に支配されるのではなく、偶然性を新しいコンテクストの中に置くことによってそこに新たな意味を創造し、多義化し、それを能動的に「引き受ける」ことを可能にする。これが、本書で野崎が一番言いたかったことだと思われる。