(本書は、アマゾンにもレヴューを書きましたが、以下は、読書会用に作った論点メモです)
E.ブレイク『最小の結婚』論点メモ 植村恒一郎
[以下、頁数は本書ページ、Bは著者エリザベス・ブレイクの略]
第Ⅰ部(1~4章) 結婚を脱道徳化する議論
Ⅰ「序」結婚と哲学 (p13~42)
1.各章の内容要約
2.結婚の歴史的多様性
一夫一妻制は、歴史貫通的な普遍性のあるものではなく、結婚はずっと多様な形態をもっていた。現代の我々の結婚観は、18世紀ヨーロッパの「愛情革命」の結果生まれたごく新しいもの。(我々は気づいていないが、『新エロイーズ』『高慢と偏見』などは革命的な斬新さを持っていた。『源氏物語』をみても、多夫多妻制だし、そもそも恋愛と結婚が別物なのかどうかも疑わしい。『源氏物語』に結婚式は一度も出てこない[植村])
3.主要な哲学者の結婚論
プラトン、アウグスティヌス、自然法、ホッブズ、カント、ヘーゲル、ミル、ウルストンクラフト、エンゲルスなどの結婚論が的確に要約されている。
Ⅱ 第1章 結婚の約束 ― 離婚は約束破棄なのか (p50~79)
@ 「貴方は恋人である」が、「貴方は夫/妻である」に変容したとき、貴方に対する関係には何か変化があるのか? 何か新しい契機が付加されたのか? それとも何かの契機が喪失されたのか? たとえば、 新しい契機が付加されたと考える人は、道徳的契機が付加されたとみなす。つまり、自由意志にもとづく決断、約束、契約という新しい関係性が付加されたとみなす。恋愛はたんに自然的関係であるが、夫婦はそれに人格と人格の関係性を付加するというわけだ。しかし・・・
恋愛のときには、「貴女が好きです」とは言うが、「貴女を一生愛し続けます」とは言わない。しかし結婚のとき、あるいは婚礼の誓いをするときには、そういう約束をする。しかし、「貴女を一生、愛し続けます」という約束は、できるかできないか分らないことを約束しているわけだから、そもそも「約束」とは言えないのではないか。できることしか人は「約束」することができない。だから、本当は「約束はしていない」というべきか。それとも、「約束はたしかにした、しかし数年で愛が冷めたとしても、それは事の性質上、<約束を破った>ことにはならない」というべきか。J.L.オースティンが問題にしたように、そもそも「約束をする」とは何なのかが問題とも言える。しかしもっと根源的には、愛の感情が生じるのは受動的なことであり、そもそも「愛する」ことを意志することはできないのではないか。愛は自分の自由にならないとすれば、婚礼の誓いとは何なのか、あるいは結婚後に愛が冷めてしまったとき、不倫が悪いといえる理由は何なのか?
Bは離婚に関する四つの応答可能性を検討し、(4)を擁護する。
(1)「厳しい基準(を求める応答)」:二人とも離婚を意志するのではなく、一方が意志する離婚は、虐待(DV)を除いて許されない。すなわち夫婦の一方が相手や子供を虐待する場合のみ、一方の意志で離婚できる。「身体の安全・保護」は、約束に含まれる「責務」より優先度が高いから。
(2)「厳しい状況(を鑑みる応答)」:約束に含まれる「責務」より優先する状況を、「虐待」よりももっと広く解し、その範囲内のみ一方的な離婚を認める。たとえば「人が幸福に生きる権利」は結婚の約束に含まれる「責務」より優先する。愛が冷めたのに結婚を続けることは不幸であり、また創造的仕事などの自己実現が結婚しているために不可能になるならば、一方的な離婚が認められる。そもそも結婚することも含めて、「幸福の実現」が我々の究極目的なのだから、結婚がそれを阻害するようになったならば、結婚は破棄できる。
(3)「すべての約束は条件付きのものであり、条件は時間とともに変化するから、約束は必ず短期間のものでなければならない」というパーフィット派の考え。あるいは「その条件に約束者の錯誤や認識があったならば約束は破棄できる」というダン・モラーの考え。たとえば彼氏が肉食系男子だと思ったから結婚したのに、実は草食系であることが結婚後に分った等。
(4)Bの立場。婚礼の誓いは、当人たちは「約束をしているつもり」かもしれないが、それが愛に関わる限りは約束ではない。できないことを約束することはできないし、愛は自らの意のままにできない。「私たちは自らの活動を意のままにすることはできるが、愛情を意のままにすることはできない」(ジェイン・オースティン)
さらなる反論とBの応答
>高鳴るハートや情熱的な抱擁はとても素敵で、実際意志の行為に服するものではないが、そのようなものは結婚の愛の本質ではない。結婚の愛の本質は安定した愛情、互恵的な親切と共感、そして苛立ちを鎮めて仲よくしようとする我慢強い努力になるのだ。69
この反論は、恋愛と結婚とでは「愛」の内容そのものが変るという主張。これに対してBは次のように反論する。「たしかに、ロマンティックで性愛的な愛は、短い有効期限のために悪名高い。しかし、より安定した[結婚の]愛情もまた、とげとげしくなり、霧消してしまう」69。そもそも人は、結婚においてさえも、義務感から落ち着いた愛を差し出されることを望まない。カントの言うように、愛は命じられることはできない。愛はあくまで傾向性であり、「好きになる」「恋に陥る」という受動的感情であり、自分の自由にならない。人は、相手ができることしか相手に命じることはできないし、自分ができることしか自分の義務にできない。(カントの結婚の定義に「愛」はまったく登場しないことに注意。性行為が人格の尊厳を傷つけないこと、それだけが結婚の本質であり、「愛」は関係ない)
つまりBは、たとえ結婚における「落ち着いた愛」が恋愛の「ロマンティックな性愛的な愛」とは異なるとしても、それが自己の自由にならないものであることには変わりがないから、結婚においてさえ愛を約束することはもともとできない、と言っている。
しかし、愛という感情は自分の自由にならないから約束できないとしても、愛する振りをするという行為は自分の意志でできるから、人は、婚約の誓いにおいて、愛する振りをすることを約束した、という意見がありうる。だがBは、「<恋愛革命>以降、結婚についての西洋の理解は、決定的な感情的構成要素を伴うことになる。配偶者はたんなる振る舞いを約束しているのではない」72、つまり、愛という感情こそ結婚の不可欠の構成要素だと反論する。
また、婚礼の誓いは、あくまで未来の行為の「予告」だから、「予告」ははずれることがありうるという意見に対しては、Bは、約束は自分の未来の行為を「予告」しているのではない、というオースティン的に反論。
「一緒に時を過ごすといった徳的の行為は一般に約束される。カントが<実践的な愛>と呼んだもの、すなわち他者の目的を自らのものとして受け取り、それを推し進めていくよう行為することは、それがまさに感情でないからこそ約束されうる」76として、Bは結婚における愛の感情の不可欠性を強調する。
Ⅲ 第2章 結婚にいかに献身するか(83~118)
[植村のコメント]: 相手へのcomittmentを「献身」と訳しているが、日本語の「献身」という語は、「結婚に献身する」と言うのはやや奇妙。「大義」「職責」「仕事」「介護」「看護」等なら「献身」は適切だが、特定の人に「献身」とはあまり言わない。結婚あるいは特定の相手へのcomittmentとは、「優先的な関与」「親密な関係」「絆を結ぶ」「絆」というような意味だろう。p117に訳注
第2章の「結婚にいかにコミットするか」というタイトルは、結婚とは、どのようにして相手と親密な関係を作ることなのか、という意味だろう。
1.献身vs約束
>(『失われた時を求めて』の)マルセルが、ある日にはアンドレに献身していると宣い、次の日にはジルベルトに、その次の日にはアルベルチーヌに献身していると宣って、献身という言葉を弄ぶとき、彼は献身を続けていない。87
アンドレはマルセルの友人の少女で、アルベルチーヌの同性愛の恋人、ジルベルトはマルセルが激しい魅力を感じて片想いしたcocotteの女性オデットの娘の少女で、マルセルの幼ななじみ、アルベルチーヌは少女だがマルセルの本命の恋人。要するに、二年後、三年後ならありうるが、日替わりで異なる女性にコミットはできないはず、ということ。献身には時間的持続が必要。
>約束は時間上の一点の言語行為だが、献身を続けることは、安定した心理的状態としての気質だから、長い時間にわたるもの。しかし、気質が生じたと言えるにはどのくらいの時間の持続があればよいのかは、何とも言えない。87f.
>誰かを好きになるのは、選んでいるのではない、[そうなっている自分を]発見するのだ。「ロマンティック・ラブにおいては主体は献身を選ぶというよりも発見するのだ。・・マルセルはアルベルチーヌを何年にもわたって知っていた。突然マルセルは、他の誰でもなくアルベルチーヌなしには彼が生きていけないことを認識する。それが雷のように彼を打ちのめす。89
愛とは、自分の変化に気づくことである。つまり徹底して受動的な経験であり、恩寵のようなものだ。
>私たちが、生活において、芸術において、愛において、気遣うものは、私たちのもっとも深い献身の多くを形づけるが、これは選択の問題というよりも、ある種の美や恩寵や価値といった、自らに見ることも見ないことも強いることができないものに、打ちのめされることの問題なのだ。91 [Bは愛の本性を正しく捉えている!]
- 献身、責務、愛、そして結婚
>献身的であることには、決定的な道徳的もしくは打算的の理由はない ― 愛の関係においてさえも。愛は献身を伴い、結婚への献身は無条件性と排他性を伴うと主張する人もいたが、献身自体も愛もどちらもこのようなもの[=結婚]を必要としない。93
愛は、九鬼周造の言う「邂逅」、すなわち、まったく偶然的でしかも運命的な出逢いであり、恩寵である。もし仮に、愛には、献身、無条件性、排他性などが伴うとしても(本当はそうではないのだが)、これは結婚が与えことによって現実化するのではない。
>献身的であることが気遣うことや価値を認めることいった非自由意志的な構成要素をもつ限りにおいて、人は献身的であるよう責務を課されえない。94
つまり、愛は、非自由意志的なものであるから、結婚によって、愛を約束することなどできない。
愛は、陥るものであるが、陥った後でその危険性に気づき、背を向けることもできる。だから愛には、一定の時間的な持続としての献身が不可欠であるとはいえない。99
- 結婚は合理的か?
>[結婚という]分別ある愛の献身の構造は、ロマンティックな愛の本性によって定義されるのではなく、各個人の善の先行と性向に依存している101。・・・人間は移り気なものであり、簡単に散漫になり、混乱してしまうのだ。・・・恋人たちは結婚することで、つかの間の空想や間やつまらない口論の後に関係から離れてしまうことに対して、法的かつ社会的な障壁を打ち立てるのかもしれない。102
ただし、これだけ離婚率が高いことからして、事実問題として結婚は障壁になっていない。
>一部の哲学者と自由恋愛の伝統は、責務は愛にとって忌み嫌われるものであると、愛は本性的に自発的なものだと述べてきた。結婚は、「契約を受け付けない」人々、責務によって特徴づけられる人間関係を好まない人にとっては、つり合いの取れない重荷になる。・・・しかし、長期の排他的で親密な伴侶関係に強い選好を持ち、競合する選択が比較的弱い人々にとっては、結婚は選好を満足させるための合理的な戦略である。108
要するに、モテ資質を多くもち、いくらでも恋愛が可能な男女にとっては結婚は不合理であり、非モテの男女にとっては結婚は合理的なのである。ただし、離婚率の高さからして、あるいは結婚に失敗したと感じたけれど離婚しないで耐え忍ぶ人も多いことからすると(チェホフではそういう結婚ばかり)、そうと思われたほど合理的な選択でもなかったのではないか。
4.献身の善
Bは、献身を動機づけることへの結婚の有用性に疑問を投げかけた。
>恋愛結婚よりは見合い結婚をよしとするへーゲルや保守主義の倫理学者は、結婚そのものを「人間の本性的な善」と考える。「結婚は献身を教えるから、個人の意思の変りやすさを共通善へと従属させ、社会を安定させる」(ヘーゲル)。アラン・ブルームは離婚の普及を痛烈に批判し、解消不可能な結婚こそが共通善への無条件の忠誠という社会的に価値ある気質へ子供たちを習慣づける、と述べた。111
しかし、献身は無条件に価値のあることなのだろうか? 献身は、場合によっては悪徳でもありうる。Bは「無条件の献身は、特に平等でない結婚であればなおさら、徳を教えるよりもむしろ、悪徳を教えうる」と言う。113
結婚を、自己犠牲的な利他主義という観点から基礎づける保守主義の結婚論はやはりおかしい。
Ⅳ 第3章 結婚、性行為、道徳
>性行為の望ましい基準は、結婚における相互に貞節な一夫一妻関係である。―― 米国社会保障法
驚くべきことに、アメリカでは法律の条文にこのような文言がある。
倫理学においては、性行為は一夫一妻の結婚においてのみ許されるという考え方は、(1)カント、(2)新自然法論者(ジョン・フィニスなど)、(3)ロジャー・スクルートンなどによって強力に主張されている。つまり、結婚だけが性交を道徳的なものに変えるという。また現代のラディカル・フェミニストの一部は、「そもそも性行為は、特に女性にとって、自尊心を傷つけるかあるいは有害である」121と主張する。ラディアㇽフェミニストとカントは繋がるわけだ。本書ではこうした考え方を取り上げ、Bがそれぞれを批判してゆく。Bによれば、
>結婚という外的な法的枠組みは、敬意、徳、そして愛を構成する主体の心理に対して影響を及ぼしえない120。・・・結婚とたんなる同棲とを道徳的に区別しようとするもっとも影響ある哲学的試みは失敗に終わるだろう121。
- 客体化、セーフティネット、敬意
カントが、結婚においてのみ性行為が許されると考える理由は次のとおり。すなわち、人間はつねに目的として扱われるべきであり手段として扱われてはならないが、性行為においては、相手に自分の性器を道具的に手段として使わせるという例外的なことが生じている。この例外が許されるのは、二人が対等な人格として、自分の性器を相手に使わせることを許可するという意識的・意志的な契約を締結する場合のみである。この契約が結婚の内実である。
この契約によって、その性器の相互貸借は、相手の身体や心身を傷つけてはいけないという義務が生じる。それはちょうど、物件の貸借においては、他者から借りた物件を大切に使い、壊してはいけないのと同様である。このようにして、性行為が心身を傷つけるリスクは、正式の契約によって、性器の安全な使用の義務という一種のセーフティネットが与えられることになる。
しかし、Bによれば、このようなセーフティネットは、結婚によってのみ与えられるわけではない。スポーツにしても身体の手術にしても、身体のリスクが必ず伴うが、準備体操とか、練習による徐々の上達とか(いきなり難かしい技に挑戦しない)、上級者による指導などによって、リスクを回避しようとする。性交においても、互いが傷つかないように配慮し、相手の女性性や男性性(ラカンの言う大文字の他者性)に敬意を払った性交をすべきなのであり、結婚による意識的契約によってそうした配慮や敬意が生じるのではない。そもそも事実として、結婚していない性交には配慮や敬意がなく、結婚した性交には配慮や敬意がある、ということはまったくない。
しかし、カントの結婚論は、セーフティネットの設定を意図するというよりは、そもそも性行為は相手の人格を客体化し(モノとして扱う)、辱めるものだ、という前提があり、それをどう考えるかが問題である。
>カントの主眼は、性行為の有害な帰結にあったのではなく、人格に対する欲求としての性的欲望が、道徳的な尊厳をいかに打ち砕いてしまうかということにあった。・・・性的欲望は本質的に敬意の欠落を内包するものである。123
つまり、性行為以前の性的欲望そのものがそもそも相手への敬意を欠落させるという問題。Bはこれに対して次のように考える。
>性的親密性は、たしかに特有の道徳的リスクを生じさせる。たとえば、他人に見えない場所で二人きりになるとか、互いに裸になるとか、身体が相手に対してもっとも脆弱な姿勢になるとか。・・・だから、性的親密性には、通常の場合よりも相手に対する敬意を維持するための多くの努力と判断が必要になる。友情の場合を考えれば分かるように、親友になれば相手の知られたくないプライバシーも知るから、配慮と敬意がより必要になる。他者に対して親密性が高まれば、悪徳(干渉、残虐、無神経)の可能性も高まるから、それに応じて敬意の必要もより高まる。そして性的親密性や性交では、このような敬意と配慮がもっとも必要になる。124
しかし重要なことは、こうした敬意と配慮は、徳や倫理の問題であり、結婚という制度によって与えられるものではない。結婚以前にも恋人に対して敬意なき性交をする男性は、結婚してからもやはり敬意なき性交をするだろう。結婚という制度によって、彼の態度が変わることはない。
>法律婚は正義の制度である。しかし徳は行為者の内的な心理状態に関わるものであり、それは結婚などの外的な法規制によってはもたらされないのである。127
- 新自然法と結婚という善
トマスに発する自然法の伝統は、現在でも倫理学や法哲学において大きな影響力をもっている。それは、結婚は「基本的な人間の善」を実現すると考える。すなわち、
>性行為には生殖の善と結びついている。生殖には育児が含まれ、子どもは両親を必要とする。したがって、両親がともに育児に献身する関係においてのみ、性行為はその善を適切に達成することができる(つまり、そこでのみ許される)。この関係とは結婚であり、・・・婚外の性行為、もしくは生殖を伴わない性行為は、この目的の達成を妨げてしまう。128f.
性行為とは、育児を含む生殖という人間の善を現実化するためのプロセスだから、婚外の性行為はもちろん避妊もしてはならない。そして、同性愛も生殖に結びつかないから悪である。これは、現在でもカトリックの基本的教えである。
新自然法のジョン・フィニスは、婚姻外の性行為は仮に自分がしなくても、他人にも認めてはならないという。
>婚姻外の性行為が[現実に]蔓延しているからといって、配偶者がそれを理論的に容認するならば、それはただの傍観者にすぎない夫婦をも害してしまう。婚姻関係なしの性行為をたんに認めることだけでも、それは道具的理性のために性行為をしたいという一種の仮説的な意志を表明することになるため、結婚の献身の配偶者の能力を害する。<彼らがやるぶんには問題ないIt’s OK for them>という考えは、問題の行為には何らかの価値があるという判断を伝えることになる!131
ほんと、ヒェーッと言いたいですが、これらに対するBの反論は以下の通り。
- 性行為は、生殖という善に結びつかない限り、それ自体としては悪であるというのはおかしい。
>快楽、情動発達、人格の安定、長期的な陶冶といった善は、同性や未婚の性関係にも見出すだすことができる。132
つまり、性行為は、人間の性的な成熟をもたらすものであり、それ自体がパートナーとの間のすばらしい身体コミュニケーション、相互理解であり、我々自身が男性性/女性性としての大文字の主体(ラカン)になることである。だから、同性間はもちろん、不妊の男女、結婚前の男女においても、性行為はそれ自体の善をもっている。だから、彼らに結婚を認めなければならない。
- そもそも男/女という二分法、「性差」の成立じたいが社会的なものである。自分が男/女であるということは、生物学的事実そのものではなく、自分が男/女として、そのアイデンティティを引き受けることである。これが人間の性差であり、動物の性差と違う点である。性同一性障碍がそれを証示している。
>性差は統計的な一般化である。現実には、インターセックスの者も含め、個人は連続体に沿って分布している。
・・・最も重要なのは、友情、愛、そして誠実さは、心理的・感情的な状態であり、これらに特徴的な態度は、当事者たちの生物学的な在り方には左右されない。・・・友情、信頼、忠誠心、一体感、そして相互のケアという思いやりは、結婚の外部に存在しうる。結婚制度はこれらにとって必要でないばかりでなく、十分でもないのである。134
- 貞操の徳の疑わしさ
ロジャー・スクルートン(1944~2020)の主張は、上記のいずれとも違う。彼によれば、官能的な愛(erotic love)は結婚においてのみ開花するのであり、我々人間にとってもっとも大切な自己実現であり他者からの承認である「官能的な愛の開花」のためにこそ、結婚という制度がある。これは非常に珍しい哲学的主張で、モンテーニュなど、官能的な愛の開花は一夫一妻制の夫婦では不可能であり、夫も妻も愛人が必要だと繰返し説いてきた。また『源氏物語』や『失われた時を求めて』などをみても、官能的な愛の開花は、一夫一妻制の結婚のもとではない。スクルートンの主張はそれらと真逆である。キルゴール『あれか、これか』は、「恋愛は天国、結婚は地獄」という万古不易の認識に抗して、「結婚の美的妥当性」を主張するめに、ボロボロになるまで悪戦苦闘した。もしスクルートンの言う通りなら、『エッセイ』も『あれか、これか』も書かれる必要はなかったし、そもそも離婚率がこんな高いはずはない。スクルートンが自説を主張する理由は次の通り。
(1)官能的な愛の開花には、他者の介入を排除するプライバシーや秘私的な空間が必要である。恋愛だけだと、周りは好奇心一杯なので、いろいろ覗かれたり、うるさく干渉されたりするが、結婚すればそれはなくなる。136
(2)我々が自分の性的な特質を「誤用」すると、官能的な愛の能力を破壊し、愛の開花をさまたげてしまう。このような「誤用」は悪徳であり、たとえば、ポルノ、売春、同性愛、マスターベーション、乱交、倒錯などである。このような性的特質の「誤用」を起こさないためには、貞潔な愛を欲望するように自分自身をしつけなければならないし、有徳なセクシュアリティを社会的に保障するように制度的圧力が必要である。136
これもまた、ヒェーッと言いたくなる珍説だと思うが、Bは次のように反論する。
性的親密性を実現するにはプライバシーが守られることが必要だが、それは物質的な条件の問題であり、結婚によって与えられるわけではない。[また、週刊誌が有名人の不倫報道に熱心なように、未婚者よりも結婚した夫婦の方がプライバシーを監視される]。Bは言う、
>官能的な愛と開花が、そうしたプライバシーを必要としているといことも明確ではない。・・世論を前にしてよりいっそう強固でいられる恋人同士は、好奇心や嫉妬、そして侵害に対して社会的防衛を必要とするほど関係が脆い恋人同士の関係よりも、その気質において、より有徳で、開花しやすく、安定している可能性がある。138
たとえば、素敵な恋人が出来た場合、ふつうは彼氏/彼女を連れて出歩きたくなるのではないか。友達に彼氏/彼女を見せびらかして、羨ましがらせたくなるだろう。官能的な愛の開花は、必ずしも他者の眼差しを遮断することを求めるものではない[植村]。
もう一つ重要な反論としてBはこう述べる。
>結婚は本当に官能的な愛を促すものだろうか? 異性間の一夫一妻制という制度を敷いている社会には、そうでない社会よりも多くの官能的な愛があるのだろうか? 世間一般の常識だけでなく、生物学や社会科学も、たとえ結婚がどんな目的に適うものであろうと、生涯にわたる性的欲望の持続には特に適していないという見解を示している。139
つまり官能的な愛は持続しない。「ときめき」は数年で消え、離婚は結婚4年後が一番多い。これが真実。
>官能的な愛はおそらく、限られた期間の結婚、財産の取り決めのない結婚、同性婚、一夫多妻制など、さまざまな制度において開花する可能性がある。・・・根本的な問題は、一種類の関係の中でしか人は開花できないのか、ということだ。官能的な愛に関しては、千種類の花が咲く ― すなわち、人はさまざまな方法で開花する ― と考える方がより妥当である。139
>経験的事実にもとづけば、人類学の知見や周りを見渡しても、人間はさまざまな恋愛関係で幸福になりうることが示唆されている。・・・現行の婚姻法は、すべての人にひとつの形態の関係を処方していることによって、生きていくうえでのさまざまな試みを禁止し、それによって一部の人の開花を制限している。140
あとBは、結婚がプライバシーのための私的空間を保証するといわれるが、その私的空間は、DVなどの暴力、虐待、服従に道を開くものであることをまったく見ていない、とスクルートンを批判する。結婚の中でこそ、もっとも虐待は多発している。138
Bの第3章の結論は以下の通り。
>個人は、さまざまな関係の中で開花しており、また彼らの性的行為は、同意にもとづく成人のパートナーを、ケアと敬意をもって扱う限りにおいて、許されるということだ。すべての人を一つの関係のモデルに導くことは、開花ではなく、不幸に導くレシピである。142
Ⅴ 第4章 愛する者への特別扱い
@ Bは、結婚を、ケア、正義、性愛規範性という三つの視点から把握する。
ケア :親密性(当事者たちが互いを熟知している関係性145)において、大事にすること、誰かを気にかけること、世話をすること、その人のニーズに応えて福利を促進すること、これには感情と行為が含まれる。146
これまでの道徳哲学は、人間の相互依存性、共感などの感情、そして個別性へ注意をむける認識論的立場を過小評価してきた。これは訂正されなければならない。147
しかし、ケアを、男女の愛や、親子の愛、家族愛、友情など、愛という観点からだけ捉えてはならない。ケアは正義の観点からも捉えられなければならず、ケアは正義の文脈においてのみ価値がある145。なぜなら、ケアが行われる重要な場所である恋人、夫婦、家族などにおいては虐待、DV、搾取などがむしろ恒常的だからである。
恋人や夫婦、家族の外部の第三者による暴力であれば犯罪だが、家族であれば免罪されることも多い(子供を親がぶつのは調教、愛の鞭? 虐待するのは罰?お仕置き? あるいは「夫婦喧嘩は犬も食わない」とDVを無視する)。また搾取は気づかれにくいが、ケアは公正に行わなければならない。炊事、洗濯、掃除、育児、介護などの家事労働やシャドウワークは、妻や嫁が無償で行うのが長い間当然とされた。夫はちょっと育児すれば「イクメン」と讃えられるが、妻の育児は当然視されており、育児というケアは公平に行われていない。(結婚における搾取に注目した点で、TVドラマ「逃げ恥」は優れたものだった。また植村は40年ほど前に、少し年長の大学教員男性が、「結婚できてよかった、ただでセックスできるから」と言ったのに驚いたことがある。たしかに恋愛経験がなく彼女がいない男性にとって、結婚とは何よりもまず、もう風俗に行かなくても女性が手に入るという重要な経済的合理性をもつ出来事になる。風俗が有償なのは、セックスはケア労働であるから当然有償ということだろう。だが妻は無償の夜伽なのか? 夫婦の場合は相互性があるので、一方が他方を搾取しているとは簡単にはいえない。しかし、セックスをケアという観点から捉えるならば、「性的欲望という相手のニーズに応えること」「快を与えること」を目的とする労働ということになるから、同量の快楽を互いに平等に与えないならば、「快楽の搾取」「性的消費」ということになるかもしれない。また一般的に言って、恋愛にも結婚にも共通するセクシュアリティは、相手の性的志向性という欲望のニーズに応えるための何かということになり、現在、男性のセクシュアリティの方がどちらかというと優遇されているとすれば、これも搾取や正義の観点から捉え直される。Bのように恋愛や結婚にケアという視点を導入すると、こうした分析が可能になる)。
ただし、恋愛や結婚が「愛」という視点をまったく抜きにして捉えられることはない。Bは「愛」に相当するものを捉える視点として、「性愛規範性amatonormativity」という概念を導入する。全体として、恋愛は、ケア、正義、性愛規範性の三者がどのように複雑に絡まっているのか、という点から捉えられる。たとえばキルケゴールは、結婚は「エロス的愛erotische Liebe」である恋愛の完成態として捉えられるが(また、ロマンティック・ラブ・イデオロギーもそうであろう)、そこにおいて、恋愛=美的生き方vs.結婚=倫理的生き方という対比をするので、倫理的生き方の内実にケアや正義という視点が少しは含まれているのかもしれない(当然キルケゴールは、ケアや正義を概念的に前景化はしていない)。Bは、愛にケアや正義も付加するという考察ではなく、一番基本的な水準に、ケア、正義、性愛規範性というという根本概念を設定するところが重要。
@ ケアの存在論的規定(植村)
Bは「ケア」という重要な視点を導入しているので、「ケア」を存在論的に捉え直してみたい(ここはまったく植村のもの)。恋愛や結婚に「ケア」という視点を導入する意味はどこにあるのか?それは結局、「人間の相互依存性、共感などの感情、そして個別性へ注意をむける認識論的立場」あるいは「大事にすること、誰かを気にかけること、世話をすること、その人のニーズに応えて福利を促進すること、これには感情と行為が含まれる」といったケアの内実は、人間の身体と身体のあるべき関係性(すなわち、一定の親密性を必要とするということ)になるだろう。これは育児(授乳、オムツ替え、衣食住の世話)や介護、看護など典型的なケアではすぐ分かることだが、恋愛にもケアがあるということから分かるように、ケアという概念によって、従来は「愛」という概念で抽象的に捉えられてきた関係性の内実が明示化される。
身体と身体のあるべき関係性というとき、身体=bodyは同時に物体でもある。カントが結婚を、生殖器の独占使用権の相互契約と定義したとき、それは『人倫の形而上学』の「法論」の「物件」「債権」の箇所においてである。これは奇妙に思われるが、よく考えてみれば正しい。
身体(物体)の一番の属性は、時空的規定性をもつことである。つまりbodyは互いに離れたり、近づいたり、くっついたり(接触)する。だからカントにおいて、結婚は何よりもbodyの時空的規定によって定義される。「婚姻契約は、婚姻同棲(肉体交渉copula carnalis)によってだけ履行される。性を異にする二人格間の、肉体交渉を行わないことを暗黙に了解したうえでなされるような・・・契約は、一個の虚偽契約であって、決して婚姻を成立させるものではない」(同書§27、「世界の名著」版p411)。
結婚とは、時空の共有から生まれる関係性であり、時空の共有がその相互依存性を作り出すという関係性である。もちろん平安時代の妻訪い婚のように同居を義務付けるとは限らないが、しかし『源氏物語』では、男が三夜続けて女のところに通ってくれば、今日でいう「結婚」が成立するとされるから、二人のbodyの時空規定によって結婚が定義されている。
恋愛においても、デートによる時空の共有や、身体接触、プレゼントなどがあるから(遠距離恋愛でも電話やネットを介した間接接触はある)、やはり恋愛も時空規定によって定義される。つまり、「親密性」とは、まずその基本的規定として時空的に近距離、あるいは接触するといった規定性から成り立っている。
そして「ケア」もまた、身体の相互の接触という関係性を含んでいる。授乳、介護、看護は身体の直接接触だが、食事を妻が作り夫が食べれば、食事を介して二人の身体は間接的に接触し、衣服の洗濯、家の掃除もそうである。身体の直接間接の接触という時空的共有による相互依存性や親密性、そして感情という身体に生じる状態などが「ケア」に不可欠の要素だとすれば、それは「愛」にきわめて近い、というより「愛」を時空的に定義したものとも言える。身体の直接間接の接触という時空的共有があればこそ、そこでは「ケア」と同時に、虐待、暴力、相手を傷付けること、なども不可避的に生じうる。だからこそ、「ケア」には正義と公正の原理が必要になる。
そもそも相手を「気遣う」「大切にする」「欲求に応える」などというケアの関係性は、時空的共有を前提する。
そして、時空を共有する親密性においては、「応えずに失望させる」「傷付ける」なども不可避的に生じるから、そこには「相手のいやなことはしない」「相手の望むことをする」という道徳の原理が必要になる。
このような身体の時空的共有という大枠で、恋愛と結婚を捉えたのがBの功績。
@ 性愛規範性が結婚を脅かす(第3節)
>私たち現代人は、歴史上まれにみるほどに「愛を人生に不可欠な血漿」とみている・・・。[しかし]結婚と友愛的なロマンティックな愛に特別な価値があるという信念は、他のケア関係の価値を見落とさせる。結婚および性愛的に愛し合う関係を特別な価値がある場所とみなすこの不均衡な焦点化と、ロマンティックな愛が普遍的な目標であるという想定を、私は「性愛規範性amatonormativity」と呼ぶ。157
>正義にかなったケア関係に価値があるのであれば、それが結婚の中にあっても外にあっても、またどんな形態を取ろうとも、価値があるものとの認められるべきである。しかし結婚は、一種類のケア関係だけを奨励し、その他の多くを犠牲にしてしまう。156
>性愛規範性は、中心的な、一対一の、排他的で、継続的な恋愛関係を不当に特権化する。この関係は結婚と結びついているが、それに限られるわけではない。ここで「中心的な」とは、パートナー同士が、その他の関係や約束事よりも恋愛関係を優先するという状態を意味している。158f.
[性愛規範性が結婚と固く結びつき、結婚が出産・育児を帰結するならば、結果として、家族そして血の繋がった親戚や子孫を他の関係性より優先するという、人間関係の価値の差が生れる]
Bの主張は、性愛規範性が異性愛の結婚と結びつくと、同性愛その他の友愛関係より特権的なものになり、制度として特権化されることを批判する。つまり、公正や正義を欠くケア関係が結婚だということになる。扶養手当、健康保険、住宅手当など、結婚した夫婦には手厚い庇護が与えられるのに対して、結婚以外のパートナー関係は差別される。
>性愛規範性を退けることは、恋愛関係を阻害することを意味しない。それが意味するのは、他のケア関係を犠牲にして恋愛関係を推進するのはやめよう、ということである。174
>多くの人々が耐えがたいと感じる性規範のひとつの側面は、人は性的行為をする「べきである」という前提そのものである。175
[これはヘレン・フィシャーの文章の引用だと思われるが、根本的な問題提起をしている。日本ではアメリカと違って「恋愛をしなければならない」というプレッシャーはないが、西洋はカップル文化が支配的であり、恋愛関係を他の人間関係より優先すべきだという価値評価がゆきわたっている]
>[男女の一夫一妻制がスタンダードと考えられている社会では]、「あなたは結婚していますか?」と問われて、「いいえ、私は結婚していませんがパートナーがいて、14年間一緒に過ごしています」と答えると、白けた反応がかえってくる。(175 パーソンズの著書からの引用)
[つまり、時空的共有というケアの基準を十分満たしているにもかかわらず、彼女のパートナー関係は、男女の一夫一妻の結婚のようには評価されない]
@ サンデルなどの保守主義者は、結婚における「正義」をあまり重視しない。ヒュームも「結婚した人たちの間では、友情の絆が所有のあらゆる分割を撤廃するほど強力である」から、家族内では情緒が機能する限り、権利にもとづいた配分は必要ないと言う。179
しかしBは、結婚においては、虐待や暴力が生じるからというだけではなく、パートナーのそれぞれが「自分自身の利害関心を持った自律的個人」であるべきであり、それぞれの「自己実現」は当然の権利であるから、配分における衝突は必ず起こり、契約によって合意を作るという作業が不可欠であると考える。180
愛は決して契約と両立できないものではなく、「正義が調和のとれたコミュニティと両立するのと同様に、契約はケアと両立する」183。恋愛においても結婚においても、「家事、性行為、生殖、お金などの一般的条件について非公式な合意」が必要であり、それは「日々の自発性を脅かすものではない」184。「正義とケアは、人生の異なる側面、異なる領域において、異なる重要性を有している」からどちらも人間関係に不可欠である。184
Ⅴ 第5章 結婚への批判 ― 本質的に不正義な制度か
1節は、結婚という制度の歴史を回顧。妻は夫の所有物であるというのが、妻の本質規定であり、たとえばキリスト教式の結婚式では、父に連れられた新婦が、新郎に引き渡される。つまり、新婦は父から新郎への贈与であり、持ち主が代わるのだ。ここでBが「不正義」といっている「正義」は、ロールズの正義の二原理のうち、「自由はすべての人に平等に与えられていなければならない」という原理。この自由の核心には、「自己の基本的人権が他者によって犯されない」という自由があり、暴力を加えられない、虐待されない、搾取されない、支配されない、自己の財産を自由に扱える等々の自由が、妻から奪われるのだから、結婚は不正義。性愛関係としても、妻が夫を「レイプ」で訴えることはできないと長い間されてきた。Bは本書で、夫婦の性愛関係は、相互の自由意志にもとづくケアの相互交換の契約と捉えるから、たとえ成文化はされないとしても、「レイプ」は最初の契約におけるケアの相互交換に該当しないから、契約違反の不正義となる。
2では、「自由恋愛主義free love」に触れている。おそらく19世紀後半のメアリー・ウルストンクラフト、フーリエ、サン・シモン、そしてバートランド・ラッセルからジョン・レノンに至る多様な流れのことであろう(ジンメルも触れていた)。結婚制度の枠に入らない恋愛関係を称揚する立場。アナーキストのエマ・ゴールドマンは、「あらゆる恋愛関係は、その本質によって、完全に私的な事柄であるべきだ。国家も教会も道徳も人々も、干渉するべきではない」と言った210。つまり、結婚という制度をなくせ、という主張。
しかしBは、「個人的なことは政治的なことである」という立場からこれを批判する。自由な恋愛を阻害する要素はたくさんあり、結婚にさまざまな不正義が伴うように、恋愛にもDVや支配や搾取や性的消費などが伴いうるから、「恋愛は完全に私的であるべきである」と言っただけでは、こうした不正義を排除できない。そして、ケアの相互交換としての恋愛には様々に異なるタイプがありうるのだから、その中のある特定のタイプだけを推奨したり特権化したりすることは、それ自体が政治的である。その「自由恋愛主義は、ある種の自然でロマンティックで性的な恋愛を人間の目的(!)として捉えることで、なお性愛規範的である」212。ケアの相互交換はもっと多様であり、「安定した友愛のために親友と共同生活をしたい人、あるいは子供を持つために見合い結婚をしたい人は、たんに自由恋愛主義者が称賛するのとは異なった善を求めている」212。つまり、これらもケアの相互交換という意味では、その善は、「自然でロマンティックで性的な恋愛」の善に比べて少しも劣らない。以上の文脈は、Bが「性愛規範性」の特権化を批判していることがよく分る。
3では、結婚という制度が人種差別として機能したことが、アメリカの例を中心に検討される。興味深い点として、アフリカ系の妻たちのアザーマザー(othermothers)による共同育児の習慣が高く評価されている。後で見るように、Bの主張のポイントは、大人のパートナー関係としての恋愛(=ケア)と、出産後の育児のケアとを、完全に分離して捉える点にある。育児のケアは、父母二人のみの核家族よりも大家族の方がずっとよくなされるから、これだけでも、男女2人の結婚の目的は出産と育児にあるという主張を批判する論点になる。
4では、結婚という制度が、経済的不平等を固定するように機能することが批判される。
第6章は、Bが全体の議論を捌くロジックが明確に示されている。まずBが結婚を「定義する」というのは、あくまで法が結婚をどう定義するかであり、歴史学や社会学が「事実婚」も含めて「結婚」をどう定義するかという問題ではない。『源氏物語』を見ても、恋愛と結婚は連続しており、「結婚」をそれ自体として定義することはできないだろう。しかし近代の法律婚では定義している。だからこそ「政治的リベラリズム」が前景化される。
まず重要なことは、法(国家)が「結婚」を定義するにあたって、結婚の本質と目的についてのさまざまな考え方や立場のうちの、どれか特定のものを支持しない。自然法論者は、生殖と育児が結婚の本質と目的であると考えるが、それはあくまで一つの道徳的立場であり、結婚は、生殖も育児も無関係であり成人の自然でロマンティックな性的な恋愛がやや固定したものと見る立場も可能であり、性愛も特に関係なく同性も含む二人の人間が一緒に暮らす経済的共同関係と見る立場も可能である。これらはそれぞれ異なる道徳的・思想的立場であり、どれもそれぞれ根拠のある立場だが、法や国家は、そのどれかにコミットしてはならない。たとえば、生殖という要素を結婚の目的にすると、同性婚は認められないことになる。
「結婚」の定義は、立場の異なるすべての人々の間にありうる「公共的理性」に依拠すること以上のことはしない。つまり、何が「善い生」なのか、「どういう人生には価値があるのか」という価値判断はしない。
近代国家の政治的リベラリズムとは、さまざまな宗教のどれかにコミットしないという政教分離がその中核であった。それと同様に、さまざまな価値観のどれかにコミットしないことが政治的リベラリズムであり、法が結婚を定義するときに、一番大切なことである。Bはその線で婚姻法を構想する。
>政治的決定は、善き生や人生に価値を与えるものに関するいかなる特殊構想からも、可能なかぎり独立していなければならない。(ロナルド・ドゥオーキンの言葉、233)
>国家は、特定の包括的教説を別のものより支持または促進することを意図したいかなることもしてはならないし、特定の包括的教説を追究する人々に助けを与えてはならない。(ロールズの言葉、233)
>リベラルな社会における結婚についての既存の社会的理解は分裂している。その共通の特徴とはせいぜい、結婚が何らかの権威によって承認された親密関係に関わっているということだろう。228
>結婚の本質的な社会的意味に関する見解は既にバラバラであり、あまりにバラバラすぎる。244
このような状態を前提したうえで、法が結婚を定義するとすれば、それは公共的理由のみに依拠しなければならない。それが、特定の道徳的立場や価値観に立たない政治的リベラリズムということである。
>結婚の法的定義は政治的に正当化されなければならない。婚姻法は公共的理由の範囲内で正当化されなければならない。・・・包括的教説に訴えることなしに説明されなければならない。236f.
>政治的リベラリズムは、包括的な宗教的または哲学的、道徳的見解を基礎として婚姻の法や政策を作らないようにする。236
>正義の重要な問題においては、政策と立法が論争的な道徳的または宗教的見解のみに基づくことを禁じる。それらは公共的理由において正当化されるものと認められなければならなない。232
ここで明らかなように、市民はさまざまに異なる道徳的な立場に立つ人々から成り立っており、それぞれの立場や信念から、それぞれが結婚の意味や目的を捉えてよいのであり、これが思想信条の自由ということである。生殖が結婚の目的と考える人がいてもよいし、性的快楽が結婚の目的と考える人がいてもよい。つまり、結婚をどう意味づけるかは各人の自由である。しかし、法で「結婚」を定義するならば、結婚に該当する人々はさまざまな恩恵を受けるのだから、その恩恵の享受が正義に適ったものでなければならない。つまり、平等、公平、公正な仕方で恩恵が享受されなければならない。これが「公共的理由において正当化される」ということである。
>[公共的な理由とは]、いろいろな道徳的または哲学的、宗教的な包括的教説から引き出される異なる善の構想を持つ人々が受け入れることを、市民たちが理にかなう形で期待してよいような理由である。232
「公共的理由のみに基づく」ということでBが何を考えているのか、まだ6章では具体的にはよく分からないのだが、おそらく、立場の違うすべての市民が共通して受け入れることのできる原理にもとづくということだろう。ちょうどロールズが、「無知のヴェール」をかぶせることによって立場の違いを消した市民が共通に受け入れることのできる原理として「正義の二原理」を提出したのと同じように、Bは、結婚を基礎づける公共的理由として提出するのが、「ケア」と「正義」なのだと思われる。
Bによれば、ケアとは、親密性(当事者たちが互いを熟知している関係性145)において、大事にすること、誰かを気にかけること、世話をすること、その人のニーズに応えて福利を促進すること(これには感情と行為が含まれる)、そして人間の相互依存性、共感などの感情、個別性へ注意をむける認識論的立場などの総称である。
人はすべてケアを必要としている、ということは立場の違うすべての市民が合意するだろう。ここから「結婚」を法的に定義する。
つまり「結婚」とはケアの一形態なのである。ただし、「結婚」には多様なケアが含まれており、(1)成人間の親密性や愛に関わるケアと、(2)育児というケアとを分離して考えるのが、Bの戦略である。
>私の見解では、養育を規制・支援する法的枠組みから、成人間のケア関係を設計・支援する法的枠組みを分離すべき理由がいくつかある。第一の理由は、成人間の関係の内容は契約的に選択されることを自由は要請しているが、これに対して[子どもに対する]親の責務は強制されるべきだからである。また第二の理由は、結婚に付随する諸便益を結婚の外にいる子どもたち ―米国の子どもの三分の一である― に提供することを可能にするからである。夫が稼ぎ、妻は専業主婦という世帯の子どもは米国の世帯の四分の一しかいない。253
分りやすくいえば、性愛や親密性に関わるケアについてはさまざまな内容があるから、どの内容にするかは結婚する当事者がそれぞれ選んで、合意し、契約するというのが正義にかなったケアである。それに対して、子どもは親と契約してケアを受けるのではなく、誰が与えるにせよ絶対的にケアを与えられなくてはならない存在だから、育児に関するケアは、親におけるパートナーとしての契約によるのではなく強制的にケアが与えられるのが正義にかなったケアである。換言すれば、生物学的親によってではなく、社会的親によってケアを受けるのが正義にかなった育児というケアである。
「ケア」という全市民に共通する「公共的理由」にもとづいて、パートナーに関わる正義にかなったケアと、育児に関わる正義にかなったケアとの両方を支援するのが、法的に定義された「結婚」の意義であり目的になる。
Ⅶ 第7章
>国家が支援すべきなのは私が「最小結婚」と呼ぶものである。そして、結婚に対するいかなる追加的な制約(ジェンダー、当事者の人数、性愛関係、相互に背負う権利)も許されてはならない。最小結婚によって、これまで結婚という形でしか相互に背負うことのできなかった権利と責任を選択できるようになり、たった一人の愛するパートナーとだけでなく、望む人ならば誰とでも権利と責任をとりかわすことができるようになる。266
@ 最小結婚の婚姻法では、結婚によって保護される権利は現在の結婚制度よりずっと少なくなる。つまり「完全パッケージ」として多数の保護が与えられるわけではない。269~280
@ 見合い結婚は、見合いの時点において、相手との相互の愛はないわけだが、正当な結婚である。結婚を構成するものはあくまで「ケア関係」であり、恋愛ではないから。ただ、自分の意志ではない見合い結婚は不正義。
>ある関係がケア関係であるべきだという要件は、見合い結婚であっても完全な合意があり、それ以外の点で正義に適っている場合は除外すべきではない。280
@280~282に書かれている、哲学女子ローズの結婚モデルは、とても魅力的だ。ローズは、ひょっとしてBその人なのだろうか? ローズは、オクタヴィアン(美青年?)という男性と同居し家計も共通だが彼と性関係はない。ローズには、生命倫理学者のマルセルという親友がおり、彼はローズという女性を真に理解しているただ一人の男性であり、彼と哲学の議論をするのが何より楽しい。そしてローズにはステラという女性の長年の恋人もいて、彼女とは住居は別々だがずっと恋愛関係が続いている。つまりローズは、二人の男性と一人の女性と相互にケアし合う関係にあるという意味で、ポリアモリー家族の一員である。これを「結婚」や「世帯」と呼んで悪い理由があろうか、というのがBの主張。つまり、一人の相手とあらゆる種類のケアをし合うのではなく、複数の相手とそれぞれ異なるケアをし合う関係が、ポリアモリーである。あらゆる種類の完全なケアをただ一人に求めることは難しいが、複数の相手なら十分に可能ではないか。たとえば、最近話題になっている日本の「オタク女子」の例もある。あるオタク女子は、普通に結婚して夫がいるが、夫はあまり「ときめき」を感じる男性ではない。でも彼女には「推し」がいて、推しのアイドルには激しくときめく。だから結婚後もずっと追っかけは続けていて、しょっちゅうライヴに通い、夫もそれを好意的に許容している。この事例は、異なるケアを異なる人から受けているわけで、Bのいうポリアモリーに少し近い。これが「推し」ではなく、生身の人間の元カレであり、週に一度は元カレの家に泊まるという恋愛関係があり、夫もそれを好意的に認めるならば、これは正真正銘のポリアモリーと言える。ちなみにイプセン『ヘッダ・ガブラー』は、それをしようとして挫折した物語。
286の「クァーキアローン」の話も興味深い。
>クァーキアローン運動は、多くの人にとって結婚やカップルによって果たされている生活上の役割が、自分の場合には友人たちが果たしてくれているという一人の女性による公共的な夢想に端を発し、共感した読者たちによる反応が波となって始まったものである。・・・クァーキアローンは、典型的には都市に住む若年層の専門職従事者である。286
クァーキアローンは現在の制度における結婚はしないから、その意味ではシングルである。でも、複数の友人たちと、恋愛や結婚のようなポリアモリー関係を結んでいる。こういう人たちにも「結婚」を認定するのが「最小結婚」である。
@ 「ケア」という基本財
Bの議論は、結婚や恋愛の基礎にあるとされてきた「愛」の代りに、「ケア」というさらに根本的な概念で置き換えるところに成り立つ。「ケア」であれば、それはロールズの言う「基本財」になるので、公共的理由によってそれを支援することが可能になり、「結婚」という制度をそういう視点から捉えるところが独創的。
>最小結婚は、善をめぐるいかなる競合的な構想をも是認することなく、むしろ、その合理的根拠が特定の包括的教義ではなく基本財の理論に基づいているために、いずれの競合する構想をも是認することを控える。288
「基本財」とは「人々が[人生の]どんな計画を描いていても欲するはずだとされる万能の財allpurpose goodsである。この財をより多く持っていれば、自分の意図を成し遂げ、何であれその目的を実現できる度合いがそれだけ高くなる」(ロールズ『正義論』)291
「基本財」には社会的なものと自然的なものがあり、社会的なものは、自由、機会、所得、福祉、自尊心の社会的基盤などである。自然的なものは健康などがその例に挙げられる。正義に関わるのは社会的な基本財だけである。
ここでもっとも重要なことは、「自尊心の社会的基盤」が基本財とされていることである。ロールズのこの洞察に基づいて、Bのすべての議論は成り立っている。つまり、ケア関係こそが自尊心の社会的基盤であり、ヘーゲル風に言えば、人間は、他者からの承認によって自分も自己の存在を承認できるということである。これは、デカルトが人間の持ちうるもっとも大切な感情として「自尊心=高邁の徳」を挙げているのに呼応する。他者にケアされる(無視されずに気にかけてもらえる、大切にされる、愛される)ことによってのみ、人は自己肯定感を持てる。だからインセルは一番不幸な男性である(ワーグナー『指環』のアルベルヒ!)。だから、「自尊心の社会的基盤」としてのケアは社会の基本財であり、「自尊心」を育み、一人一人が自己肯定感を持てるように社会全体がケアを推進し、支援しなければならない。これが、「結婚」という制度を法が規定することの意味である。
>ケア関係は個人にとって、ほぼ普遍的に道徳的能力を発達させ行使させる文脈なのである。ほとんどの人は、孤立した状態でこうした能力を発達させることも行使させることも、端的にできないし現にしていないが、他の人々との関係のなかではそれができる。296
おそらくこの文章は、本書全体でもっとも重要な一文である。自己肯定感をもって生きることこそ、人間らしくいきることの核心であり、人間の尊厳はまさにそこにある(デカルトもそう言っている)。
>「おそらくもっとも重要な基本財は、自尊心あるいは自己肯定感である。なぜなら、それなくしては、何事もする価値がないであろうし、たとえ物事がわれわれにとって価値をもっていたとしても、そのために努力しよという意志を喪失してしまうからだ」(ロールズ『正義論』)。親しい人間関係とメンタルヘルス(身体的健康も同様だが)のあいだには明らかな繋がりがある。この繋がりが示すのは、ケア関係は、個人が自身の人生を計画することを精神的に支援するという意味で、自尊心に匹敵するものだということである。297
Ⅶ 第8章 最小結婚実現に向けた課題
- 貧困:最小結婚の適用によって「伝統的」な結婚の奨励と結婚の利益が失われる結果、女性や子どもの貧困がいっそう悪化してしまうのではないかという懸念があるかもしれない。しかし調べてみると、反貧困プログラムとしての結婚奨励策は何の役にも立っていない。むしろ結婚奨励策は、女性の夫への依存を促すことによって、女性の経済力を弱める方向に機能してきた。
- 財産と離婚:現在の結婚制度は、離婚という「退出」が妻にとって不利になるようにできており、それによって妻の夫への依存が強まるようになっている。また離婚がしにくければしにくいほど、夫の妻への暴力や支配が強まる。「最小結婚」は、妻の財産管理を結婚時に契約化して、離婚時の財産分与が妻に不利にならないように取り決める。結婚からの「よき退出」をきちんと制度化することが、最小結婚の眼目の一つ。
まず全体を整理しておくと、polyamory(複数婚、ポリアモリー)は包括的な概念で、多様な関係をすべて含む概念。一夫多妻婚(polygyny)も、一妻多夫婚(polyandry)も、二夫二妻婚などさらに多様な関係もすべてありうる。
>一夫多妻婚が問題になるのは、一夫多妻状況に置かれた女性が一夫一妻婚における女性に比べて、自己肯定感の低さや鬱状態、結婚満足度の低さなどに悩まされる確率が高い、と言われているが、そうでないことを示すデータもある。たとえば、女性弁護士エリザベス・ジョセフは、フェミニストの観点から、自身の一夫多妻という形態を称賛している。[記述から想像するに、おそらく彼女の結婚は、バイセクシュアルの女性二人と、ヘテロの男性一人との三人婚であり、二人の妻の一人の夫への異性愛と、二人の妻同士の同性愛とから成りたっているのだと思われる。だから、二人の妻と一人の夫とも、満足度は非常に高いはず]332
Bによれば、一夫多妻にある問題点とされるものは一夫一妻にも同様に存在する。ミルも、女性が同意している限り、一夫多妻は他の結婚形態と異ならないと述べている。また、未婚女性にくらべて一夫一妻の状況におかれた妻の方が、幸福感が少なく、自尊心の低さ、神経衰弱などに悩まされているという調査結果もある333。
[植村が最近知った日本の調査では、心理的幸福度は、未婚女性が既婚女性より高く、また、既婚男性が未婚男性より高い、四者のなかで一番高いのが未婚女性で一番低いのが未婚男性。おそらく未婚女性は幸福度が低いというのは、男性が考えがちな偏見なのではないか]
>エリザベス・ジョセフの例が示すように、一夫多妻という形態それ自身は相対的に女性に利益をもたしうるものでさえあり、一夫多妻にかかわる問題はけっして関係の形態それ自身に起因するわけではない。一夫多妻にも一夫一妻と同様にさまざまな不正義がありうるが、それは関係の形態ゆえに生じる不正義ではない。334
>アメリカのほとんどの州では、どちらにせよ個人が一夫多妻で同居することは[現在でも]自由である。…法的にはまだ結婚と認められていないにしても、さまざまな非家父長的な結婚類似関係は、すでにたくさん存在している。336