ベケット『ゴドーを待ちながら』

charis2011-04-23

[演劇] ベケットゴドーを待ちながら』  4月22日 新国立劇場・小劇場


(写真右は、ラッキー(石井けん一)とポッゾ(山野史人)、下は、ゴゴ(石倉三郎)とジジ(橋爪功))

弱冠34歳の森新太郎が演出。『ゴドー』は、戯曲を読んでもイメージが湧かず、あまり面白くないのだが、舞台で生身の人間が演じると異様な迫力のある不思議な作品だ。「筋」というものがなく、役者が科白をどのようにしゃべるか、どのように振舞うか、その「どのように」だけで舞台が成り立っている。その意味では際立って「演劇的」な作品だ。


今回の舞台では、「時間の暴力性」のようなものが鋭く感じられた。それは、人間の行為や発言が、目的性や文脈性を失って、剥き出しのままグロテスクに現われるからである。我々の行為や発言は、通常は一定の目的や文脈の中にあるので、それなりの関係性や意味を帯びており、それが行為や発言を自明で透明なものにしている。だが、「まったくあてのない何かを、ただ待つ」ということは、我々を根本的に受動化し、未来に向けた目的や文脈を喪失あるいは弱体化させる。その結果、我々は未来に向うことができず、未来に向う時間を織り成していた意味のネットワークが消えることによって、時間は、たんなる「質料」のようなものとして我々を圧迫することになる。行為を結び付けるものだった時間は、行為の意味連関を押しつぶすものに変容し、その結果、個々の行為は孤立してよそよそしいものになる。パスカルが「退屈」について述べたのと似たことが、『ゴドー』でも起きているのだ。


ゴゴとジジは、あてもなくゴドーを待つ間、互いのごく些細な行為や発言に至るまで、無理やり意味を持たせようとして、過剰な問いやパフォーマンスを繰り返す。たとえば、ゴゴとジジは、ポケットから取り出して食べる乏しい食物にも、それが人参なのか蕪なのか大根なのかに異様にこだわり、もっともらしい議論の対象にする。過剰な問いやパフォーマンスは、たとえばレトリックのように有意味で洗練されたものではなく、当事者たちを、ますます剥き出しにして、その物質性を際立たせる。そして、それに輪を掛けるのが、ゴドーの代りに現われるポッゾとラッキーたちの暴力性である。固定した主人=奴隷関係はそもそも暴力的だが、それだけではなく、ラッキーのピリオドなき驚嘆すべき長口舌は、「考える」ことすらも暴力になることを暗示している。にもかかわらず、ゴゴとジジが、ポッゾとラッキーを拒絶できないのは、暴力もまたこの世界における「生起=変化」であり、時間の無機的重圧から我々を解放してくれる「気晴らし」だからだ。これほど極端ではなくても、こうしたことは、我々の日常に起きていることなのだ。


11年前に見た、串田和美のジジと緒方拳のゴゴもよかったが、今回の橋爪功石倉三郎のコンビもよい。作中のジジとゴゴはかなり高齢なので、役者もまた、老人の名優がふさわしいのだろう。ポッゾを演じた山野史人の、緩急自在な表現も素晴らしかった。