[演劇] 大池容子『かがやく都市』 うさぎストライプ

[演劇] 大池容子『かがやく都市』 うさぎストライプ公演 アトリエ春風舎 1.30

(写真↓は、2022年初演と2024年トルコ公演から)

2022年に初演を観たが、今回の再演は、「世界滅亡のテーマ」という音楽と歌が加わり、高校生の松崎美羽のトランスジェンダーがなくなっている(初演では女優が男子高校生を演じた)。この再演は初演以上に<心に刺さる>ものだったが、それは宇露戦争、ガザ、トランプなど、世界の終末論的情況が一段と進んだからかもしれない。大池の演劇はすべて、不条理な状況に置かれた人間の<かすかな愛を静かに讃えて>いる。そして今回も、それがとても心に沁みる。ベケット『幸せな日々』のように。

 

我々は、「人はみな、こんな状況では、こんな感情をもち、こんな事を考え、こんな事を言う」ということが、自分についても他者についても大体分かっており、その見当をつけながら、毎日を生きている。しかしこの見当が怪しくなってきていることが、チェホフ以来の現代演劇の通奏低音あるいは主題であり、大池の演劇もその線上にある。今回、気が付いたのだが、宇宙人である女子高校生の佐々木華と兄の佐々木譲は、テレパシーでコミュニケーションできるが、それが否定的に描かれている。兄は妹に、「牛乳をコンビニで買ってきて」とテレパシーで語りかけるが、妹は「何でこんなつまらないことにテレパシーを使うのか、ケータイで掛けろ」と怒る。大池演劇の登場人物たちはすべて、相手の発話に対してつねに「えっ?」と怪訝な表情を返し、相手が何を言いたいのかすぐには分らない。テレパシーを使える宇宙人でさえそうなのだ。アンケート調査をする謎の女とか、心理テストをし合う女子高校生とか、要するに、我々は他者がだんだん理解できなくなっている、ということだろう。

 我々は、よく理解できない他者を「宇宙人」と呼んだりするが、本作の想定では、実態は逆で、本来の宇宙人は地球人以上に互いを理解できる。ところが佐々木華のように幼少時から地球で育つと、他者を理解する能力が地球人並みに下がってしまう。私は今回の舞台を見ていて、まっさきに思い出したのは、フーコー『言葉と物』の最後の言葉、「[近代の産物である「人間」という概念はいつか消滅するだろう]そのときこそ賭けてもいい、人間は波うちぎわの砂の表情のように消滅するであろうと」。つまり、「人間」という「共通の顔の表情」が消えてしまうのだ。

これはまさに、チェホフ、ベケットテネシー・ウィリアムズや大池演劇の主題そのものだが、しかし彼らはこのような状況に抵抗を試みてもいる。本作の場合、誰もいなくなってしまった都市の広場に、高校生である人間と宇宙人がまた集まり、宇宙人が言う最初の言葉が「ねぇ、友達になれる?」であり、それが「ファイナル・アンサー」とも言う。我々はお互いに何という<かすかな愛>しか持てないのだろう! でもベケット『幸せな日々』の終幕で、我々は涙するように、この不完全燃焼で低体温の<かすかな愛>こそが祝福であり恩寵なのだ。そしてアパート地下室のわずか40人の小劇場でのこの体験も、<演劇>という、このうえない祝福であり恩寵であるだろう↓。