内田樹『ひとりでは生きられないのも芸のうち』(2)

charis2008-02-05


[読書] 内田樹『ひとりでは生きられないのも芸のうち』('08年1月、文芸春秋社)


(写真は、ニコラ・プッサンの「エコーとナルシス」(17世紀))


第6章の一節「縮小する自我という病」で内田氏は次のように言う。
>「自我の縮小」あるいは「自我の純化」はわれわれの時代の病である。自己決定、自己責任、自分探し、自分らしさの探究、オレなりのこだわりっつうの? ・・そういった空語に私たちの時代は取り憑かれている。(p246)


ある意味ではたしかにそうかもしれない。しかし、それらは果たして「空語」なのだろうか? 「時代の病」と大きく括られているが、その中には、肯定的にも否定的にもなりうる幾つもの諸要素がせめぎ合っているのではないだろうか? 内田氏の議論はいつも、流れるようなスピード感に満ちた快い説得力をもっている。だが私には、(1)強すぎる真理を「決め技」に使うこと、(2)統計的な論拠が定量的ではなく定性的であること、の二点による明快化・単純化がいささか気にならないでもない。


たとえば(1)だが、内田氏は議論の要所で、「レヴィナス老師の教え」と「人類学的常識」を決め技に使う。たとえば、レヴィナスの根本術語「pour l’autre 他者のために/他者の代わりに/他者に向けて/他者への返礼として」、あるいは、「贈与」(=人は自分の欲するものを他者に贈与することによってしか得られない)などがそれである(p90,279)。これらは、きわめて広い適用範囲をもつ概念なので、それを否定することは誰にもできない。また、書名に使われている、人は「ひとりでは生きられない」という命題も、含意が限りなく広いので、誰も反対することはできない。だが、こうしたある意味で強すぎる真理は、メリットとデメリットを併せ持っている。それは水戸黄門の「葵の御紋」のようなところがあり、「これが目に入らぬか!」と提示するだけで、人々を「ははあっ」とかしこまらせることができる。しかしそれは、自我の在り方の歴史的位相や現代に固有の新しさを捉えることが課題である場合には、強すぎる真理なのかもしれない。相互承認か、それとも単独者かという問い方では、肯定面と否定面が複雑に絡み合う「自我のナルシシズム化」を十分に捉え切れない可能性がある。


内田氏がしばしばレヴィ=ストロースや「人類学的常識」を決め手に使うのも、問題がないわけではない。
>別に道徳的訓話をしているわけではない。人類学的にクールでリアルな原理をお示ししているだけである。・・・人類学的ルールが適用されるのは新石器時代ポストモダン社会も変らない。(p32)
>親族の存在理由は何か? レヴィ=ストロースは『構造人類学』でこう問うて、自ら答えている。親族の再生産である、と。(65)
>今必要なのは、・・・人類学的「常識」をもう一度確認することである。(80)
>「ワタシ的には、これが好き」と自己決定を断固として貫くことが生存戦略上かならずしも有利ではないことについて・・・(29)


内田氏がここで、こともなげに使っている「生存戦略上」という言葉は、進化論的・生物学的レベルに定位した議論から、我々が「周囲とうまくやっていく」「浮き上がらないように」といった比喩的なレベルまで自在に使える言葉である。しかし、だからこそ要注意の言葉なのである。たとえばドーキンスの「ミーム」のように、社会的文化的現象を遺伝子の用語で説明することは、誤った決定論を持ち込む危険性を孕んでいる。内田氏が決め手に使う「新石器時代にもポストモダン社会にも等しく適用できるクールでリアルな原理」にも、同じ危険はないだろうか? 文化人類学の原理がいけないのではない。それを「規範」として掲げること、つまり、「これが人間の自然=本性なのだ、君たちは人間の自然=本性からはずれているのだよ」という言い方は、慎重になされるべきだと思うからである。


「オレはオレ的にオレが好き」(p29)というような「自我のナルシシズム」が生まれた原因の一つは、内田氏によれば、日本に60年も平和と安全な時代が続いたからである(p57,107)。そのような平和で安全な時代は、たえず生死の危険に脅かされていた新石器時代とは大いに違う。しかし、だとすれば、新石器時代と平和な日本では、それぞれ違ったタイプの自我が存在するのは当然ではないだろうか。「新石器時代ポストモダン社会に等しく成り立つリアルな原理」によって、自我の「本来的な」在り方を説明するだけでなく、二つの社会の違いによって、「自我が歴史的・文化的に異なりうる側面」を説明することもできるはずだ。現代の「自我のナルシシズム化」を捉えるには、前者の文化人類学的原理よりはむしろ、後者の社会学的・心理学的な考察がより重要になるように思われる。


次に(2)の点であるが、「自我のナルシシズム化」を問題にする場合、それがどの程度の範囲で起きているのかという統計的・定量的な視点も必要であろう。ところが、この点で内田氏の議論はやや心もとないところがある。
>経験的に言って、5人に1人が「まっとうな大人」であれば、あとは「子ども」でもなんとか動かせるように私たちの社会は設計されています。(p17)
>[フェアネスを行うのは自分ではなく]誰かがやることだと、思っている人もいるだろう。社会がそういう人ばかりになったとき、役人たちもまたそういう人ばかりになったとき(今がそうだ)、社会的フェアネスに配慮する「公人」は地を掃った。(80)
>私たちは60年代からあと、中間共同体の解体に努力してきた。・・・気がついたら、「できるだけ集団に帰属せず、何よりも自分の利益を配慮する人間」がめでたく社会のマジョリティになっていたのである。(182)
>子どもが成熟することよりもむしろ未熟のままでいることからより多くの利益を得られると信じている人間の数がどこかで限界を超えた。


内田氏が「社会のマジョリティ」「そういう人ばかりになった」「地を掃った」「数が限界を超えた」と言うとき、統計的な論拠が示されているわけではない。また「まっとうな大人が5人に1人いれば」社会は十分に成り立つとのだとすれば、「オレはオレ的にオレが好き」という子どもっぽい若者が増えたくらいでは、日本社会はびくともしないのではという疑問も生じる。内田氏がここで言おうとしていることは「定性的」には非常によく分かるのだが、それが本当に社会の支配的傾向になっているのかどうかについては、慎重な統計的・社会学的分析が必要ではないだろうか。内田氏の議論にはやや飛躍があるように思われる。


「自我のナルシシズム化」の否定面については、内田氏の指摘には鋭いものがある。しかし私の考えでは、「自我のナルシシズム」には両義的な側面があり、ある文脈では否定的であっても、別の文脈では肯定的な働きをすることもありうる。そうした多義的なものとして「自我のナルシシズム」を捉えるために、本書からもう少し論点を拾ってみたい。[続く]