今日のうた(89)

charis2018-09-30

[今日のうた] 9月のぶん


(写真は東直子1963〜、歌誌「かばん」同人、早稲田大学教授もつとめる、ニューウェーブ短歌を代表する歌人の一人)


・ みずからの灯りを追って自転車は顔から闇に吸われてゆけり
 (大森静佳『てのひらを燃やす』2013、自転車のライトは低く小さいので、前輪の少し前しか照らさない、乗っている人の顔も暗くてほとんど分らない、まるで「顔から闇に吸われてゆく」ようだ) 9.1


・ 中央線、南北線東西線、どこへもゆけてどこへもゆかず
 (東直子2004、東京の地下鉄はその後も増えて、しかも地上線私鉄も含めて相互に乗り入れる、本当に「どこへもゆける」ようになったけれど、しかし使う方は十分に活用しきれていない) 9.2


・ 感情が顔に出なくて損をするあるいは得をする こんにちは
 (相田奈緒「短歌人」2017年12月号、作者は歌誌「短歌人」所属の若い人か、ほとんど初対面のときの自分の顔を意識しているのだろう、「こんにちは」と挨拶を交わし合うとき、自分はどんな表情をしているのだろうかと) 9.3


・ 大木のもまれ疲れし野分かな
 (松本たかし、台風のときは立派な大木ほど風を強く受ける、柔らかい草のように曲がることがないので、直立する幹は、風雨に立ちはだかるように激しく抵抗し続けて、「もまれ疲れた」ようになる) 9.4


・ 白木槿夏華も末の一二輪
 (黒柳召波1727〜72、作者は蕪村の弟子、「夏華(なつげ?)」とは夏の華やかさのことだろうか、「深い緑の葉の中に咲く白い木槿は美しい、もう夏も終わりで、一二輪になってしまったのが、愛おしい」) 9.5


・ 夜なべの灯かたむけて見る時計かな
 (杉孫七郎1835〜1920、作者は吉田松陰の弟子で、明治期には官僚だった人、秋になって日が短くなると、仕事が夜までかかるので「夜なべ」が意識された、今は夜も仕事をする人が多いので「夜なべ」はほどんど意識されない) 9.6


・ 橘の本(もと)に我を立て下枝(しづえ)取りならむや君と問ひし子らはも
 (よみ人しらず『万葉集』巻11、「君は、橘の木の下に僕を立たせ、下枝を手に持ち、「この木の実がなるように、私たちの恋も実るんじゃないかしら、ねえ貴方」と言った、ああ、その君はいったいどうしてしまったの」) 9.7


・ 人を思ふ心は我にあらねばや身の惑ふだに知られざるらむ
 (よみ人しらず『古今集』巻11、「大好きな貴女に恋い焦がれる僕の心は、もはや僕自身ではなくなっているのだろうか、身体がこれほど憔悴し切っていることすら、心は分っていないみたいだから」) 9.8


・ 夕霧に紐とく花は玉鉾(ぼこ)のたよりに見えし縁(え)にこそありけれ
 (源氏物語「夕顔」、「夕べの霧を待って開く花のように、君(夕顔)が打ち解けてくれたのは、君が夕顔の花を詠んだあの歌を僕にくれた縁があるからだよね」、強引に連れてきて一夜を過ごした夕顔に源氏が詠んだ歌、返しは明日) 9.9


・ 光ありと見し夕顔の上露(うはつゆ)はたそかれ時のそら目なりけり
 (源氏物語「夕顔」、「夕顔の花(=私の顔)についた露が光り輝いて見えたのね、夕方だから貴方が見間違ったのよ、私そんなに美人じゃないもん」、おとなしいふりをして茶目っ気たっぷりに源氏に切り返す夕顔) 9.10


・ 葡萄の下吾が身長のまま歩く
 (山口誓子、今はブドウやナシの季節、どちらも一定の高さの棚に実がなっている、いつもは垂れ下がっているブドウの房に頭をちょっと下げるけれど、今日は、長身の作者が「そのまま歩ける」、ブドウとの「今、ここ」の出会い方は毎回違っている) 9.11


・ 新高(にひたか)といふ梨の大頒ち食ふ
 (高濱年尾、「大」の後でいったん切れる、「にいたか」は梨の中でも大きな実がなる品種、「にいたか梨の大きいのを二人で分けて食べる」、あるいは小さな子供たちもいて、三人以上で「頒ち食ふ」のだろうか) 9.12


・ 皆花野来しとまなざし語りをり
 (稲畑汀子、どこか郊外の場所で句会を開くのだろう、集まってきた人たちの「まなざし」から、「皆さん花野を通ってきた」ことが分る、「花野」は秋の季語で、どちらかというと地味な花たちが原っぱなどに咲いている光景) 9.13


・ 論理消え芸いま恐(こ)はし曼珠沙華
 (池内友次郎、作者1906〜91は虚子の二男でクラシック音楽の作曲家、東京芸大教授を務めた、この句はむずかしい、作曲が思うようにできなくなったことを嘆いているのだろうか、「芸」とは作曲家=芸術家として作曲することか) 9.14


・ 乾坤のふかきところに雲はみゆ断崖一千米のうへ
 (佐藤佐太郎『形影』1969、「乾坤」とは「天と地」のこと、千メートル以上もある絶壁の上に作者はいる、はるか下の「ふかいところに」雲が見える、峡谷で名高い台湾のタロコ国立公園で詠んだもの) 9.15


・ こほろぎの鳴く音やさしとおもふにも天体のひとつ地球が浮かぶ
 (上田三四二『湧井』、1971年に皆既月食があり、その前後に月や火星を詠んだ一連の歌の一つ、夜空の月や星を見ているのだが、作者は足元から聞こえてくる「こほろぎの鳴くやさしい音」に、この地球こそ「浮かんでいる」と感じる) 9.16


・ あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり
 (斎藤茂吉1913、この歌の自註とみられる作者の文章に、「秋の一日代々木の原を見渡すと、遠く一本の道が見えてゐる。赤い太陽が団々として転がると、一本道を照りつけた。僕らは彼[=亡き伊藤左千夫]の一本の道を歩まねばならぬ」) 9.17


・ 早稲(わせ)の香や分け入る右は有磯海(ありそうみ)
 (芭蕉1689、「よく実った田には早稲の香が拡がっている、その中を分け入っていくと、右手の遠くの方に青々とした海が」、「なほ越中を経て加賀に入る」と前書き、越中・加賀の国境の倶利伽羅峠付近で富山湾を詠んだとみられる) 9.18


・ 赤も亦(また)悲しみの色曼珠沙華
 (中村芳子、曼珠沙華(まんじゅしゃげ)=ヒガンバナが美しい季節になった、でもその赤さには、どこか悲しみがある、作者(故人)は1917年生まれの「ホトトギス」の俳人) 9.19


・ 新秋や女体かがやき夢了る
 (金子兜太『少年』、「東京時代」(1940〜43)と題した入隊前の句群の一つ、作者1919〜2018は大学生でまだ若い、「かがやくような女体」の夢を見たのだろう、短い夢ですぐ「了ってしまった」、残念) 9.20


・ 住みながらこの国だんだん遠くなるてんじんさまのほそみちのやう
 (馬場あき子1928〜、作者は「かりん」主宰、芸術院会員、朝日歌壇選者、若い時から一貫してリベラルな立場の人だが、この歌は2015年『記憶の森の時間』より、昨日は安倍自民党総裁三選) 9.21


・ 恋人がすごくはためく服を着て海へ 海へと向かう 電車で 
(吉田恭大『光と私語』2018、「すごくはためく服」というのがいい、まだ海に着いていないのに、もう電車の中で「はためいて」いる、素敵な彼女なんだね) 9.22


・ あっ、ビデオになってた、って君の声の短い動画だ、海の
 (千種創一『砂丘律』2015、いかにも現代短歌、彼女と海へ行った、たぶんスマホの操作のミスで、撮るつもりのなかった光景がビデオになっていた、それに気付いた彼女があげた声が、また短い動画に記録されたのか)  9.24


・ 自転車の灯りをとほく見てをればあかり弱まる場所はさかみち
 (光森裕樹『鈴を産むひばり』2010、「あかりが弱まった」のは、「さかみち」の傾斜で光が傾いたからか、それともダイナモ式発電で、「さかみち」でペダルを漕ぐのが弱まったからか、「とほく」から見ているから両方の可能性) 9.25


・ 白露に鏡のごとき御空(みそら)かな
 (川端茅舎『川端茅舎句集』1934、「ホトトギス」1931年12月号の巻頭を飾った句の一つ、「この小さなはかない白露に、空一杯に拡がった青空が、鏡のように映っている」、「白露」は脊椎カリエスを病む茅舎自身だろうか、宇宙を映す鏡としての魂) 9.26


・ 忘れゐし秋の蚊一つ来りけり
 (れいし、涼しくなって油断していると、草叢からスーッと蚊が近づいてきたりする、この句は、虚子編の古い歳時記(1934年)にあったが、作者については分からない) 9.27


・ 別荘や怒涛の如く秋櫻
 (橋華、コスモスは激しく群生することがある、別荘なのであまり手を入れないうちに、「怒涛の如く」群生してしまったのだろう、この句も、虚子編の古い歳時記(1934年)で見つけたが、作者については分からない) 9.28


・ 爽やかに山近寄せよ遠眼鏡
 (日野草城、「爽やか」は秋の季語、空気が冷たく澄んでくる、遠くの山を望遠鏡で見ているのだが、「近寄せよ」と命令形になっているのがいい) 9.29


・ この門の木犀の香に往来かな
 (高野素十、「通りがかりのある家の門の所に、モクセイが咲いてよい香りがしている、通り過ぎかけたたのだが、自然に足が止まって、数歩戻ってしまった」、我が家も隣家も木犀が香るようになった) 9.30