[今日のうた] 12月ぶん
(写真は葛原妙子1907〜85、現実と幻視が混淆したような、前衛的でモダニズムあふれる短歌を詠んだ)
・ 初冬(はつふゆ)や訪(とは)んとおもふ人來り
(蕪村、「相手のところへ行こうと思っていたら、向こうから来てしまった」、きっと、心の通う仲良しの友人なのだろう、互いにほぼ同じことを考えている) 12.1
・ 合点していても寒いぞ貧しいぞ
(一茶『我春集』1811、「合点していても」が悲しい、一茶らしい句、彼は最後まで貧しかった、『我春集』は一茶が48歳のときで、故郷の柏原に帰る少し前だが、暖房にも事欠くくらい貧しかったのだろう) 12.2
・ 冬籠(ふゆごも)りまた寄りそはんこの柱
(芭蕉「真蹟書簡」1688、芭蕉は全国を長旅することが多いが、久しぶりに深川の芭蕉庵に帰り冬を越す、「また寄りそはん」に感慨が、芭蕉はいつも「この柱」に背をもたれて沈思した、と註釈に[新潮日本古典集成版]) 12.3
・ 少年は少年とねむるうす青き水仙の葉のごとく並びて
(葛原妙子『原牛』1959、作者1907〜85は、「見えないものを見る」ような前衛的な歌を作った人、水仙の葉は長くほっそりと並んでいる、眠る少年たちをそのように喩え、さらに「濃い緑」ではなく「うす青き」と言った) 12.4
・ (屋上の)(鍵)(ください)の手話は(鍵)のとき一瞬怖い顔になる
(伊舎堂仁『トントントングラム』2014、なるほど、手話をすると、どうしても表情もさまざまに動いてしまう、「鍵」という言葉のとき「怖い顔に」なる、作者1988〜は歌誌「なんたる星」所属の若い人) 12.5
・ ベルトに顔をつけたままエスカレーターをのぼってゆく女の子 またね
(永井祐『日本の中でたのしく暮らす』2012、佐藤弓生氏の注によれば、作者は下りエスカレーターにのっていて、上りエスカレーターに乗っている女の子とすれ違ったのだろう、「元気出してね、またね」と心で挨拶) 12.6
・ 主体的たれといわれて立たされているのはぼくのなかにあるビル
(渡辺松男『自転車の籠の豚』2010、「立たされている」というのが肝、「主体的たれ」と命じられてそうであろうとするのだが、自分の中に内面化できず、異物感が残る、作者1955〜は『隕石』で迢空賞を受賞) 12.7
・ あまりに一方的なるニュースのみにわれは疑ふこの民の知性を
(南原繁『形相』、1941年10月17日に東条内閣成立後、12月8日の真珠湾攻撃まで、一気に戦争へとなだれ込むが、その時の歌、開戦へ誘導する一方的なニュースを少しも疑おうとしない国民も多かった) 12.8
・ 旅人と我が名呼ばれん初時雨(はつしぐれ)
(芭蕉1687、「初時雨に濡れながら、旅の道中で<やあ、旅のお方よ!>と呼ばれたいなぁ」、ちょうどその日は、初時雨だったのだろう、旅に出るときのワクワクした気持ちを詠んだ) 12.9
・ 初時雨(はつしぐれ)これより心定まりぬ
(高濱虚子1943、冬の到来をしっかりと感じさせるものは、木枯らし、初霜などいろいろあるが、初時雨もその一つ、「初時雨か、さぁ、冬よ来い、生きてゆくぞ」という感じか) 12.10
・ 茶の花に隠れんぼする雀かな
(一茶、茶は秋から冬にかけて白い小さな花をつける、その茶の花の向こうに、雀たちが見えたり隠れたりするのだろう、「隠れんぼする雀」というのがとてもいい) 12.11
・ 山茶花(さざんくわ)の花びらのせて初氷
(三豆、初氷の上に散った山茶花の花びらは、一枚なのか、たぶん赤みがかったピンクだろう、「花びらのせて」がいい、1934年版虚子篇歳時記に載っている句だが、作者については分からない) 12.12
・ しまらくは寝つつあらむも夢のみにもとな見えつつ我(あ)を音(ね)し泣くる
(よみ人しらず『万葉集』巻14、「もとな」は、わけもなくの意、「しばらくはぐっすり眠りたいわ、でも、夢の中にむなしく貴方が現れるから、声を出して泣いてしまって眠れないわ、ねぇ、夢じゃなくて本当に来てよね」) 12.13
・ 逢ふまでの形見も我は何せむに見ても心のなぐさまなくに
(よみ人しらず『古今集』巻14、「<こんど会うまでの間、私の代りにこの形見を持っててね>と言って君から渡されたけれど、こんなもの見ても何にもならない、君が来てくれなきゃいやだよ」、彼女は別れるつもりだったのでは) 12.14
・ 思ひやるさかひ遥かになりやする惑ふ夢路に逢ふ人のなき
(よみ人しらず『古今集』巻11、「貴女のことをあれこれ思い巡らしているうちに、あまりに遠いところまで来てしまったようです、夢路をさ迷うばかりで、ついに貴女に会えなくなってしまいました」) 12.15
・ 東京はエレベーターでも電車でも横目でモノを見る人の街
(カン・ハンナ「膨らんだ風船抱いて」2017、作者1981〜は2017年度角川短歌賞・次席の人、韓国から日本に留学して6年目という、東京という街をとても鋭く捉えている、他者を「モノ」のように見る視線) 12.16
・ 復讐をせしことのなきくやしさよ缶切りが缶ぼろぼろにする
(睦月都「十七月の娘たち」2017、缶切りに力を入れ過ぎたのか、空けた缶に激しくギザギザが付いてしまった、あるいは缶の蓋まで切り落としてしまい、うまく取り出すせなかったのか、感情は無意識に手先に現われる) 12.17
・ よそさまと暮らしはじめた頃のこと炬燵をはさみ母にたずねる
(山階基「コーポみさき」2018、「よそさま」という語が新鮮、後の歌からすると、作者は結婚するつもりはない彼女と同居するために部屋を借りる、作者1991〜は2018年度角川短歌賞・次席) 12.18
・ 煌々と光を放つ自販機は夜の駅舎に寄り添ふやうに
(山川築「オン・ザ・ロード」2018、自販機はそれ自体が光りを放つ、夜中にはそれは奇妙に明るい、小さな駅舎だと何かそれは横に「寄り添ふ」人のように見える、作者1990〜は2018年度角川短歌賞受賞) 12.19
・ ひとつずつ椅子空けて食う男らは首をのべつつ牛丼(並)を
(平井俊「蝶の標本」2018、牛丼屋で「並」をかき込んでいる男たちは、たぶん貧しいのだろう、「ひとつずつ椅子を空けて」黙々と食べている孤独な光景、作者1990〜は2018年度角川短歌賞・次席) 12.20
・ 靴に充つる冬の足指ひとりの兵
(金子兜太1943『少年』、大学を繰り上げ卒業後、入隊、海軍経理学校で学ぶ、翌年3月トラック等へ出征、この句は経理学校の時、「寒い冬のある日、膨れた自分の足指が軍靴の中に「充つる」のを感じる、ああ、自分は「ひとりの兵」になってゆくのだ」) 12.21
・ 山國の虚空日わたる冬至かな
(飯田蛇笏『山盧集』1933、「虚空」という表現が卓越、晴れ渡り、澄み切った青空なのだろう、そこを太陽が端から端まで「わたってゆく」、一年でもっとも短い径路だからこそ、その「虚空に日わたる」は崇高なまでに素晴らしい、今日は冬至) 12.22
・ 海の眼や深い孤影の波まより
(高屋窓秋1971『ひかりの地』、他の句にも「海の眼」という語が使われている、もちろん海には眼などないのだが、しかし海を何か人格的なものと感じるならば、私が海を見るように、海も私を見るだろう、レヴィナスの「顔」ではないが、海も孤独なのだ) 12.23
・ 老牧師子に扶(たす)けられクリスマス
(石島雉子郎1887〜1941、すっかり年をとった牧師さま、こういうクリスマスもあるだろう、作者は救世軍運動に従事しつつ、虚子に師事して「ホトトギス」で俳句を詠んだ) 12.24
・ くるしくて/みな愛す/この/河口の海色
(高柳重信『罪囚植民地』1956、おそらく作者は隅田川のような大都会の汚い川の河口にいるのだろう、灰色の水がやっと青みがかっている、でも作者の心は晴れない、「くるしくて/みな愛す」と言うほどに辛い) 12.25
・ どうして」とみづからに問ふみづからを夜の車窓に見つめつつ立つ
(小島ゆかり『短歌』2018年11月号、作者の最近の歌、優しい感情が感じられる歌が多いが、以前にくらべると、思索的な歌が増えてきた気がする) 12.26
・ 犬よりも豚が賢いそのわけは鏡に映った自分がわかる
(穂村弘『短歌』2018年11月号、本当かな? 動物の体の自分では見えない場所にペンキで色を付け、鏡でそれが見えるようにするミラーテストによって、自己認知の是非をチェックできるが、ブタは微妙らしい、鏡像から餌を見つけるが) 12.27
・ 大船や帆網にからむ冬の月
(高濱虚子1894、虚子19〜20歳の時の句、大きな船の帆網のちょうど向こう側に、透けるように冬の月が位置している、「帆網にからむ」と詠んだのが卓抜) 12.28
・ ともかくもあなたまかせの年の暮
(一茶『おらが春』1819、貧しい一茶には年越しの金も十分になかったのだろう、でも、その貧しさは彼の「自己責任」なのだろうか、ちょっと自虐的に詠んでいるところが、一茶らしく、悲しい) 12.29
・ 小買物持ちていそいそ暮の街
(赤星水竹居1874〜1942、「小買物」がいい、暮れはぎりぎりになって、あれこれ足りないものを買いに街に出る、作者は虚子に師事、実業家で三菱地所社長などを務めた) 12.30
・ 何事もすみたる除夜の火鉢かな
(竹人、「何事もすみたる」がいい、大晦日にやるべきことはすべて終わった、すがすがしい気持ちで、火鉢を囲み、遠い除夜の鐘の聴いている、『虚子篇・新歳時記』(1934)にある句だが、作者については分からない) 12.31