NTlive ロルカ原作『イェルマ』

charis2018-10-03

[演劇]  ロルカ原作、S.ストーン翻案『イェルマ』 TOHOシネマズ日本橋 10.3


(写真右は、終幕、夫と争うイェルマ(本作ではただ「彼女」とだけ呼ばれている)、写真下は、パーティーでの孤独なイェルマ)

ロンドンで非常に話題になった『イェルマ』(ロルカの原作は1934年)をNTライブで観る。サイモン・ストーンという若い人が現代版に翻案・演出したものだが、原作の主題がうまく表現できておらず、翻案は失敗だと思う。原作では、不妊に苦しむイェルマの孤独が主題だが、この作品のポイントは、夫も特に子供をほしがっていないのに、なぜ妻のイルマがこれほど執拗に子供をほしがるのか、妊娠しない妻は女としての存在を全否定されるのかという問いにある。原作のイェルマは、スペインの田舎の寒村のカトリック教徒で、専業主婦。「子供のできない田舎の女なんて、まるで一束の茨みたいな無用の長物、いやそれよりもっと悪い存在だわ。あたしは神さまが造りそこなった人間のくずなのかもしれない」と不妊を歎き、「あたしたち女には子供しかない、子供を育てることしかないのよ」と言う。「あたしがこの身を夫にゆだねたのだって子供を産むためだし、これからだってそうだわ、決して快楽のためなんかじゃない」とも言う(牛島信明訳、岩波文庫)。つまりイェルマは、自分が女として生まれてきたのは子供を産み育てるためであり、それができなければ自分は存在価値はないと本気で思っている。スペインの寒村ならば、こういう女性はいただろう。しかし、本作の現代版イェルマはまったく違う。ロンドンで働く敏腕のジャーナリストであり、イギリスでもトップクラスに入る人気ブロガーである彼女は、「ピルを飲んでいるのに、さらにコンドームを着けさせる」と夫が怒るほど快楽志向で、妊娠を恐れている女だった(写真下)。

だとしたら、そのような彼女がどうして子供をほしがるようになったのか、その変化の必然性が示されなければならないが、しかし本作ではそれがまったく示されていない。だから、彼女が「排卵日なのに夫が家にいない」と怒り、「妊活」を生々しくブログに書き、体外受精に励むとしても、我々はまったく彼女に共感できない。ただひたすら騒々しく、狂ったようにイェルマは妊活に励むのだが、彼女のようなキャリアウーマンで快楽志向の女は子供なんかいない方がいいのに、と我々は思うし、しかも彼女は、養子の提案を蛇蝎のごとく退けるから、子供好きというわけでもない。そして、原作では、子供のできないイェルマが不倫することを恐れて、夫は自分の独身の姉二人を監視役にして、イェルマを家の中の閉じ込めようとするのが、一つ重要な要素になっているが、本作の現代版イェルマでは、そうした監視はまったくなく、代わりに、イェルマ自身の姉(=望まぬ妊娠をした)や母(=「妊娠はエイリアン」と嫌う今風の女)が登場する。つまりイェルマを取り巻く状況がまったく違っており、彼女がなぜ不妊に苦しむのか理解できないものになっている。この舞台は、やたら騒々しいだけで、不快で、かつ後味が悪い。現代化の翻案は失敗だと思う。

下記に画像があります。
https://www.youtube.com/watch?v=vls0kAqkEto