能『道成寺』 友枝雄人

能『道成寺』 友枝雄人 国立能楽堂 5月29日

道成寺』を実演で見るのは初めてだが、衝撃的な体験だった。<能>という芸術は、結局、<舞い>という身体表現を核に成り立っていることがよく分かった。特に今回は、上演前の能学者によるレクチャーが充実していて、観賞がずっと深まった。『道場寺』は観阿弥清次作と言われているが、それはほとんど意味がなく、その後、誰かが原作の科白を大幅にカットして、代りに舞いの「乱拍子」に置き換えたことが、事実上の『道場寺』の創作に相当する。科白が大幅にカットされたので、安珍清姫伝説に由来する部分は物語から消え、物語は最後にワキの僧が取って付けたように語るだけ。謡曲を何度も読んで予習したのは無駄だった。『道場寺』は「乱拍子」の舞いだけがあればよく、科白は要らないのだから。

「乱拍子」は本当に凄い。見ているだけで戦慄した。奇妙な連想かもしれないが、私は「乱拍子」の冒頭のあたりで、一般相対性理論を思い出した。一般相対論によれば、時空がたわみ、歪むことによって、そこに重力が生まれるのだが、「乱拍子」はまさにそれを身体運動によって表現している。大小の鼓の掛け声・奇声と同期してシテの動きがほとんど止まり(完全静止ではなく、ほんのわずか動く)、次の鼓の音と身体が動くまでの間、十数秒が経過する。この十数秒の沈黙の時間のうちに、眼前で時空がぎりぎりとたわんで、ものすごい重さの情念がそこに溢れてくる。この十数秒の時間の「重さ」が生み出すテンションがあまりにも強いので、見ているだけで息が詰まりそうになる。なるほど、<舞い>とは、時空が歪んでそこに情念を溢れさす人間の肉体性そのものなのだ。レクチャーで講師の一人が言ったように、この『道場寺』の「乱拍子」には、バレエなど西洋のすべての「踊り」も含めて、「踊り」の原点がある。<踊り>とはすなわち<叫び>なのだ。声帯を振動させて叫ぶのではなく、肉体全体がたわみ、歪み、震えることによって叫ぶのだ。それを考慮すると、大鐘が落ちたのに驚嘆して「地震だ!」「雷だ!」と叫ぶ狂言の二人のアイはまったく正しい反応をしている。自身も雷も、時空のたわみによってエネルギーが生まれる現象だからだ。

「乱拍子」に震撼していると、「女の怨念」とか、「蛇に変身」などという『道場寺』の「物語」はどうでもよい付随的なことのように思われてくる。時空が歪んでそこに激しい情念が生まれることを<眼前にありありと示す>ことが『道場寺』の眼目なのだから、性とか性的妄想とかは事の本質ではない。

 

この上演の映像はまだないですが、

1分間の短い映像があり、友枝雄人のもの

https://www.youtube.com/watch?v=43JWeITMOqI

また、9分間の映像がありました、「乱拍子」以降の主要場面、今回のではないが、観世清和のもの

https://www.youtube.com/watch?v=MLu9927A8YQ&list=RDMLu9927A8YQ&start_radio=1&rv=MLu9927A8YQ&t=27