[演劇] デュレンマット『貴婦人の来訪』 

[演劇] デュレンマット『貴婦人の来訪』  新国立劇場 6月1日

(写真↓は、主人公の二人、クレールを演じた秋山菜津子と、イルを演じた相島一之、ともに素晴らしい名演)

デュレンマットの原作の重要場面を、音楽を加味するなどメリハリを付けて前景化し、全体としてすばらしい舞台になった。登場人物の誰もが生き生きしているのが、本作の最高の魅力だ。高校の校長を原作と違って女にした(津田真澄)のもいい。酒を浴びるように飲んで苦悩するシーンは重要で、女の方が効果的だし、最後に町長に続いて「正義」を捻じ曲げて解釈する演説をするのも、クレールの立場を代弁するのだから、女の方が効果的だ。ただし、最後のイルが死ぬところだけは、街の人が彼を殺す場面をはっきり作ってしまったが、これは原作戯曲通りに「[イルは]がっくりと膝を落す。・・心臓麻痺死」にすべきで、演出の間違いだと思う。また、戯曲の指示を上回る音楽や歌の使い方、クレール自らが歌うのはとてもいい。この劇は全体を音楽劇化してよいのだと思う。(写真下は、若い時のデートの光景を再現するクレールとイル、「美しい自然の中」というのがパロディーになっている)

本作は「正義」と「功利主義」の対立が主題だが、「正義」の解釈が途中からご都合主義的に捻じ曲げられてしまうところがミソで、そこをデュレンマットは見せたかったのだと思う。若い時イルがクレールを妊娠させたまま捨てたのは、たしかに正義にもとる行為であり、45年後に、それに復讐したいクレールの気持ちも分かる。しかし、イルに対しては謝罪あるいは賠償を求めるのが「正義」の限界であり、死をもって購えと、イルを殺すことを要求するのは、明らかにそれ自体が正義に反する。1幕の最後、町長は当然のことながらクレールの申し出を、「ヒューマニズム」の名において拒否するが、むしろそれを「正義」の名のもとに拒否するべきだった。この町長の拒否の後、クレールが一言ぼそっと「待ちます」とだけ言うのが凄い。これは、「いずれ皆さん気が変るから、私はそれを待ちましょう」という意味なのだが、ここは、舞台ではじっくり、観客がその一言を味わえるように何か工夫がほしいところだ。

 

しかしそれにしても、クレールの10兆円のプレゼントの話を受けた町民の対応は実にリアルだ。翌日からもう、ぜいたく品をツケでじゃんじゃん買いだす。要するにこれは、欲望をあおる資本主義の話なのだ。1955年の作だが、やはり時代のポイントがよく押さえられている。ドイツでは東独が潰れたあとの光景と重ねて『貴婦人の来訪』が上演されたらしい。そして民衆は、「正義」の問題を、イルがクレールを捨てたことだけに焦点化して、それへの「量刑」が「正義にもとる」ことを一切無視するという展開も、功利主義が正義論を一蹴する原光景だ。だから、最後にイルが町長に強要された自殺を拒否するのは当然だ。しかし、だからといって街の人がイルを自らの手にかけて殺してしまっては、全体が「分りやすい物語」になってしまう。戯曲では、「イルは立ち止まり、振り向くが、無慈悲にも通路が閉じられるのを見て、がっくり膝を落す。通路は人だかりに変り、それは音もたてずに塊になり、ゆっくりとしゃがみこむ」とト書きされている。つまり、逃げられないことが分ったイルは、「がっくり膝を落して[倒れる]」、聴診器を当てた医者が「心臓麻痺だ」と言う。つまり、民衆は直接に手を汚していない。彼らが間接的にイルを殺したとはいえるが、いわば完全犯罪であり、ずるい民衆は成果だけせしめる、という話なのだと思う。

 

2分間の動画が