S.カヴェル「愛の回避 ― 『リア王』を読む」

[読書] スタンリー・カヴェル「愛の回避 -『リア王』を読む」 (『悲劇の構造』所収)

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 先日、NTライブの『リア王』を見たが、その前後にリア王解釈を幾つか読んだ。アメリカの哲学者カヴェルが1967年に書いた論考が優れたものだったので、忘れないうちに要点だけメモしておきたい(『悲劇の構造』中川雄一訳、春秋社2016、p69 ~201 )。コーディリアの死について、私は初めて納得いく説明を与えられたように思うので。

 ヤン・コットが『リア王』の主題を「世界の解体と崩壊」と捉えたのに対して、カヴェルは「愛の回避」と捉える。『リア王』解釈の最大の難点は、コーディリアの死の必然性をどのように理解するかである。ヤン・コットは、コーディリアの死を「全シェイクスピア作品で、これほど不快な場面はない」と言った。改心したエドムンドの「助けよ」という命令が間に合わず、彼女が看守に絞め殺されてしまったのは、単なる時間差の偶然であるように見える。だが、そうだとすると、コーディリアの死は犬死に、無駄死にということなる。それは、とても我々には耐えられない。多くの解釈は、コーディリアを「超越的な愛の象徴としてリアの魂の救済を見出す」というものである。コーディリアの死をイエス・キリストの死と重ねるのである。私も今までそのように理解していた。カヴェルも、「コーディリアの死の中に希望がある」(p134)と述べるように、超越的な愛の象徴としてのコーディリアを否定するものではないが、彼女はあくまで人間であり、神の子ではない。つまり、あくまで人間であるコーディリア自身にも問題があり、それが彼女の死を招いた、という解釈である。コーディリアは「愛するふりをする」ことができない、ただ愛することしかできない。そして、リアのような「愛を受け入れることができない」人間が存在すること(=「愛の回避」)が理解できず、それが彼女の死を招いたのである。

 リアは、他者の愛を本当には受け入れることができない人間である。彼には、他者の目に「自分が愛されているように見える」ことだけが重要であり、だから、ゴネリルもリーガンも父を愛していないことを彼は良く知っているが、大勢の廷臣たちの前で彼女たちが「愛しています」と口先だけで言えば、それで大満足する。ところが、コーディリアは本当に父を愛しているので、「愛するふりをする」ことはできない。

  >公然と愛するふりをすることは、愛がないならば、容易である。愛するふりをすることは、じっさいに愛があるならば、明らかに不可能である。(105、このテーゼは、言語行為の限界をめぐって、カヴェルがデリダを批判するポイントでもあり、また別に考察してみたい)

  これこそが、コーディリアの最初の科白、「(aside) What shall Cordelia speak? Love, and be silent. [(傍白)コーディリアは何と言えばいい? ただ愛して、黙っていよう]」 の意味するところである。だがリアは、「愛に報いることができないと知りつつ愛されることは苦痛であり」(104)、他者の愛を受け入れず回避してしまう人間である。彼は、コーディリアの愛を受け止める自信がない。しかしそれでも、大勢の廷臣の前で「自分が愛されているように見える」ことにはこだわった。だから、コーディリアが「Nothing, my lord.[父への愛を語る言葉は]ありません、お父様」と答えたのに対して激怒し、それが彼を狂気に導くことになる。

  >人間は愛を拒むように生まれついているのではなく、そうするように学んでゆくのだ。[幼少期に]私たちの生活が始まるには愛の名のもとに与えられる親密さをすべて受け入れねばならないが、私たちはやがてその親密なものを放棄しなければならなくなる。こうして忌避されたあるいは受容された特殊な愛が他の愛に伝染していくだろう。あらゆる愛は、受け入れられようと拒絶されようと、他のあらゆる愛の中に反映される。・・・私たちは、愛を拒絶すると同時に受け入れるための努力と恐怖の中で私たちはいまにも気が狂ってしまうのではないか。その中で魂が引き裂かれ、身体が引き裂かれる。(120.f)

  この文章はカヴェルのリア王解釈の核であり、『リア王』はそれを奇蹟のように表現した作品である(120)。リアは最後まで「宇宙的な不安や幻想の中に閉じこもり、真心と共感の世界に心を開かない」(125)。彼がコーディリアの愛に応え、彼女の愛を受け入れるのは、彼女の死体を抱き、大声で泣くときである。ああ、遅すぎる! でも、リアの魂は最後の最後に、コーディリアの愛によって救済された。

  『リア王』は、愛を差し出すことによって自分は死ぬという「身代わり」の物語である。愛は、受容されたり拒絶されたりしながら変容し、変容しながらも、木魂のように他者の愛に反映し、伝染し、生きながらえてゆく。それが、リア、コーディリア、グロスター伯、エドガー、ケント伯たちの、生と死の意味するところである。

  >リアは自分の愛を身代わりにした。しかしコーディリアがリアの身代わりであるという事実は、リアが私たちの身代わりであるという事実と矛盾しない。そして彼を身代わりと見ることは、彼が愛を避けていると見ることと矛盾しない。(126)

  >愛は愛を超えた地点へと私たちを導くことはできない、愛はただ私たちの伴侶となりうるだけである。愛はその地点を感知しなければならない。(97)

  「リアが私たちの身代わりである」というのは、私たちもまた、ほとんどの人は、他者の愛を本当に受け入れることができず、いわばリアと同類だからである。もしコーディリアが、「愛するふりをする」こともできて、「愛を受け入れることができない人間もいる」ことを早く知ったならば、彼女は死なずにすんだであろう (リアが「愛を回避している」ことを彼女が知るのは、第5幕第3場、二人が捕らわれて獄に入る直前で、コーディリアはただ泣くしかない)。しかし、私たちの愛は、どこまでも人間の愛である。「愛は愛を超えた地点へと私たちを導くことはできない」としたら、そして「愛はただ私たちの伴侶となりうるだけ」だとしたら、コーディリアこそ最高の「愛の伴侶」であり、「愛がその地点を感知した」のがコーディリアの死なのである。

今日のうた(96)

[今日のうた 96] 4月ぶん 

(写真は渡辺白泉1913~69、戦前の新興俳句運動の一員であり、「京大俳句」事件で検挙された、非常に鋭く戦争を詠んだ句で知られる)

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  • 先の世ものちの世もなき身ひとつのとどまるときに花ありにけり

 (上田三四二1977『遊行』、作者は医師、自分も癌を病み、東京・清瀬の病院で午前中のみ診療に携る、医学を奉じる作者は来世を信じないのだろう、そういう「身ひとつ」だからこそ、桜の花はひときわ愛おしい) 4.1

 

  • 白雲は呼び声に似ておほぞらに「おーい」「おまえ」と雲ふたつ浮く

 (小島ゆかり「ブランコ」2018、青空に浮く白い雲は「呼び声に似ている」、まるで「おーい」「おまえ」と互いに呼び合っている、作者自身もきっと、周りの人たちに「おーい、元気かい」と呼びかけたい気持なのだろう) 4.2

 

  • 春昼や映し映れる壷二つ

 (三宅清三郎、作者は虚子に師事し「ホトトギス」同人、画廊も経営した人、「春昼」は春の季語で、虚子篇・歳時記には「春の昼間は明るく、のどかに、のんびりと眠たくなるような心地がする」とある、壺と壺も互いに姿を映し合って楽しんでいる) 4.3

 

  • 日おもてに咲いてよごれぬ沈丁花

 (高野素十、じんちょうげは木の丈は低いけれど、花には独特の風格がある、「咲いてよごれぬ」がとてもいい、我が家の玄関わきの小さな小さな沈丁花も今が盛り) 4.4

 

  • 菜の花や鯨もよらず海暮(くれ)ぬ

 (蕪村、「何てことのない鄙びた漁村だけど、菜の花が一杯に咲いている、海に鯨でも来れば大騒ぎになるんだが、そんなこともないまま、今日一日の海が、静かに暮れてゆく」、菜の花を、それとはまったく無関係な空想の鯨と取り合せたのが妙味) 4.5

 

  • 高山(たかやま)の嶺(みね)行くししの友を多み袖振らず来ぬ忘ると思ふな

 (よみ人しらず『万葉集』巻11、「君とすれ違ったとき、高い山の峰を群れていくカモシカのように、僕は大勢の友達と一緒だった、恥ずかしいから君に手を振らなかったけど本当にごめんね、もちろん君だって分ってたよ」) 4.6

 

  • 恋ひ死ねとする業(わざ)ならしむばたまの夜はすがらに夢に見えつつ

 (よみ人しらず『古今集』巻11、「ねぇ君、ひどいじゃないか、僕に恋い死にしてしまえっていうのかい、昼間はぜんぜん逢ってくれないのに、夜になると夢にひっきりなしに出てくるなんて」) 4.7

 

  • まだ知らぬ人をはじめて恋ふるかな思ふ心よ道しるべせよ

 (肥後『千載集』巻11、作者は白河天皇皇女令子内親王に仕えた女流歌人、「ほとんど知らないあの人に恋しちゃったわ、あぁどうしよう、ひたすら恋い焦がれる私の心だけが頼り、さぁ私の心よ、あの人のところへ連れてって!」) 4.8

 

  • 人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道にまどゐぬるかな

 (藤原兼輔後撰集』巻15、「親の心は闇とまでは言えないが、自分の子を溺愛するあまり、何も見えなくなってしまう」、作者877~933は三十六歌仙の一人で、紫式部の曽祖父、本歌は『源氏物語』で八の宮が娘を思う心境に引用) 4.9

 

  • 掃除機は何もかも吸ふ桜冷え

 (正木ゆう子『水晶体』、その強力な吸引力で「何もかも吸う」掃除機に、我々はふと一抹の寂しさを覚える時がある、それを「桜冷え」と組み合わせたのが妙味、もし「桜冷え」ではなく「大晦日」だったらまったく違う句になる、今年は桜冷えが長い) 4.10

 

  • うつくしきひとを見かけぬ春あさき

 (日野草城「花氷」1927、作者の第一句集で26歳、この句は「花氷」の冒頭の句、作者は「女」をたくさん俳句に詠んだ人で、妻との初夜を詠んだ「ミヤコ ホテル」が名高いが、第ー句集の冒頭句からして「女」を詠んでいる) 4.11

 

  • 春の夜の乳ぶさもあかねさしにけり

 (室生犀星1935、「春の夜に、灯火の光を受けて、乳房も、いつも以上に美しく照り映えている」、誰の乳房なのだろうか、愛妻のとみ子と思われるが、しかし犀星には、家族に秘密にしていた愛人がいたことが死後明らかになってもいる) 4.12

 

  • 比喩としてさまざまな乳房はゆたかなりと読むときわれの乳ふさ涼し

 (米川千嘉子『牡丹の伯母』2018、「乳房とはゆたかなものだ!」という何か母性礼讃みたいな記述を読んだのだろう、作者はそれに違和感をもち、「われの乳ふさは涼しい」と応じる) 4.13

 

  • ひかりの矢ここにあつまるごときかな空しかあらぬ地点にけやき

 (渡辺松男「木と木と木」『短歌』2019年3月、地平線まで広がる畑地か、建物が立つ前の広大な更地か、あるいは海際か、ほとんど空だけを背景に一本の大きな欅の樹が、まるで「ひかりの矢が集まる」ように立つ) 4.14

 

  • 死にたいとつぶやくひとに語りゐる言葉のいつしかわれを励ます

 (升田隆雄『角川・短歌』2019年3月号、作者は医者なのだろう、精神科医かもしれない、患者と向かい合って語り合っている、言葉を選び選び、患者を励まそうとしてるが、その言葉は自分を励ますものにもなっていた) 4.15

 

  • ギャルが嫁にくる 冗談のようなメールののちのしずけさ

 (辻聡之『あしたの孵化』2018、作者の弟に嫁がきたときの歌、「ギャルが嫁にくる」と弟が家族にメールしたのか、そのメールを家で家族が一緒に見ている、「のちのしずけさ」がとてもいい) 4.16

 

  • これからどうするんやろこの人は、と思ったり思われたりして別れる

 (竹中優子『角川・短歌』2019年3月号、自分が相手について思うだけでなく、相手も自分についてそう思うだろう、という醒めたがとてもいい、作者1982~は、第62回角川短歌賞受賞) 4.17

 

  • 発音をすることのない言葉たちたとえば縁(よすが) 顔を上げてくれ

 (遠野真『角川・短歌』2019年3月号、語りの中で「縁(えん)」と言うことはあるが、「縁(よすが)」と言うことは少ない気がする、眼で読まれる表意文字=漢字にはルビがないのか、作者1990~は短歌研究新人賞の人) 4.18

 

  • 空想の水平線の花雌蕊

 (富澤赤黄男『天の狼』1941、前後の句には、花粉、花が散る、などの語が頻出、たぶん作者は、幻覚のように、水平線の上に大きく咲いた「水平線の花」を空想しているのだろう、その花の中心には爛熟したメシベが輝いている、花は何よりも植物の生殖器なのだ) 4.19

 

  • 百千鳥雌蕊雄蕊を囃すなり

 (飯田龍太『遅速』1991、ウグイスが美しい声で鳴くのはメスへの求愛だ、「百千鳥」の賑やかなさえずりは、オスメス入り乱れての声の交わし合いなのか、「雌蕊雄蕊を囃す」と植物になぞらえたのが卓越) 4.20

 

  • ひと拗(す)ねてものいはず白き薔薇となる

 (日野草城『転轍手』1938、「ひと」は白い服を着た女性だろう、作者とどういう関係にある女性なのかは分からない、でも作者にとってこの女性は、「すねて、もの言わぬ」ところが「白い薔薇」のようで、たまらなく美しいのだ) 4.21

 

  • きらきらと蝶が壊れて痕(あと)もなし

 (高屋窓秋「ひかりの地」1970~75、剥製の蝶ならば、きらきらと粉のように崩壊して痕に何も残らないだろう、だが生きた蝶も、剥製が壊れるように死ぬことがあるのだろうか、新幹線や高速道路でフロントガラスに蝶がぶつかったのだろうか) 4.22

 

  • 花の家思想転変たはやすく

 (渡辺白泉、おそらく1941年の作、前年には京大俳句事件に関連して作者も「思想犯」として検挙され、起訴猶予、執筆禁止となる、釈放の条件に「転向」の一筆を書かされたのか、桜の花の散りしきる中で、「たはやすし(=容易だ)」と苦い思いをかみしめる) 4.23

 

  • 春暁(しゅんげう)のまだ人ごゑをきかずゐる

 (石田波郷『鶴の眼』1939、「春暁」は春の明け方のこと、虚子は、「春の朝」と言うとまた感じが違ってしまうという、東の地平線が明るいだけで、まだ朝とは言えない夜の終り頃だろう、だから、「まだ人ごゑをきかずゐる」) 4.24

 

  • 花水木子ら四五人の英語塾

 (柏木進、埼玉県川口市、「NHK俳句」選2011年、花水木が咲いている傍らに、「子ら四五人の」小さな英語塾、たぶん小学生だろう、花水木の花は白または薄い紅色で、独特の明るい雰囲気がある、我が家の近くの花水木も咲き出した)  4.25

 

  • いとせめてもゆるがままにもえしめよ斯(か)くぞ覚ゆる暮れて行く春

 (与謝野晶子『みだれ髪』1901、俵万智の「チョコレート語訳」によれば、「春はもう暮れてゆきますひたすらに燃えるがままに燃えてゆきたい」、いつでもどこでも「恋に燃える」のが晶子、春の夜ならばいよいよ燃える) 4.26

 

  • 甲斐なしや強げにものを言ふ眼より涙落つるも女なればか

 (岡本かの子『かろきねたみ』1912、作者1889~1939は21歳で画家の岡本一平と結婚したが、個性の強い激しい性格の二人はよく衝突した、そして夫は放蕩、その頃の歌だろう、強気で喧嘩しているうちに涙がこぼれてしまった) 4.27

 

  • 戦ひの後のはかなき支へとも架空の愛を待ちつつ過ぎき

 (三国玲子『空を指す枝』1954、戦争中疎開していた作者は、22歳のとき東京へ戻って働くが、苦しい生活が続く、「恋人がほしい!」という叫びのような歌、だが同世代の男子はたくさん戦死して、数が少ない) 4.28

 

  • ためらひつつ人を愛する吾が脳を或日未熟の果実に寄(よそ)ふ

 (富小路禎子『未明のしらべ』1956、1926年生まれの作者は華族の出だが、戦争で同世代の男子がたくさん戦死した世代、男性と面と向き合えないくらい内気な性格で、恋ができなかった自分を「未熟な果実」に喩える) 4.29

 

  • 洋々と双手(もろて)をひろげ入江なす胸へ満ち潮のやうに寄せてゆく

 (松平盟子『帆を張る父のやうに』1979、「入江のように広い彼の胸へ、私は、満ち潮が寄せるように、抱かれてゆく」、双手を広げるのは彼なのか、いや、二人ともそうして抱き合うのか、「寄せてゆく」という能動形がいい) 4.30

マッケラン主演、NTライブ『リア王』

[演劇] マッケラン主演、『リア王』 NTライヴ 4月24日 渋谷ヒューマントラスト

(写真下は、開幕冒頭、王国分割のシーン、左からコーディリア、ゴネリル、リア。その下は第4幕6場、リアと、両目をくり抜かれたグロスター、リアはぼろぼろの肉体と狂気の中にも威厳を失わない、リアだと分かった盲目のグロスターも含めてこの場面は崇高だ)

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リアを演じたマッケラン(79歳)が素晴らしかった。コーディリアの人物造形が中途半端であることを除けば、物語の筋がくっきりと浮かび上がり、それぞれの人物像も鮮明な見事な舞台だった。『リア王』は、本質的に神話劇なのだと思う。人と人を結びつける力である「愛」のアレゴリーと、人と人を引き離す力である「憎しみ」のアレゴリーとが、壮絶に戦う叙事詩。「愛」は一敗地にまみれるが(コーディリアやグロスターの死)、一抹の希望も残されている(終幕、エドガーが、『ハムレット』のホレーシオの役割であることがよく分かった)。「愛」と「憎しみ」の戦いは個人的なものではなく政治的・社会的なものである(=個人的なことは政治的なこと)。リアが国王であるのはもちろん、軍服を着たコーディリアはフランス軍を率いて戦う全軍総司令官であり、ゴネリルもリーガンもエドモンドも、直接間接にそれぞれ軍の指揮官であり、権力の空間におけるセクシュアリティの激しい戦いこそが『リア王』の核心だ。それは、ホメロスの『イリアス』がそうであるように、戦争と愛の叙事詩である。この上演で、コーディリアとフランス王を黒人俳優にし、ケント伯を女性にしたことは、人種やジェンダーもまた、「愛」と「憎しみ」の総力戦の構成要素であることを示している。そして、『リア王』には「狂気」についての本質的洞察がある。「狂気」とは、その現象としては否定的なものだが、その本質は、自己の内なる否定的なものを肯定的なものに変えようと必死で戦っている姿であり、たとえその戦いに敗れるとしても、その戦い自体が、人間の偉大さを表現している。その狂気を一身に体現しているのがリアであり、狂気を装うエドガー、そして道化もそうである。リアが目覚めてコーディリアと再会するシーン、そしてオフィーリアのように花束を振り回しながらグロスターと語り合うリアの姿は、何と崇高なのだろう! 私は涙が溢れて止まらなかった。コーディリアは、西洋の文学・芸術が創り出した最高の愛のアレゴリーであるが、今回の舞台を見て、グロスター、ケント、エドガーなど、愛のアレゴリーは他にもたくさんいることが分り、それがとても嬉しかった。(写真下はゴネリル(彼女は明晰な政治家でもある)、リーガン(彼女は女を武器に愛人エドモンドを軍司令官にする)、そして、男装のケント(左)と道化)

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しかし、今回のマンビィ演出は、コーディリアの人物造形が不徹底である。なぜ開幕冒頭のコーディリアの二つの科白をカットしたのだろう。たとえば、コーディリアの最初の科白「(aside) What shall Cordelia speak? Love, and be silent. [(傍白) ]コーディリアは何と言えばいい? ただ愛して、黙っていよう」。この科白は『リア王』全体でもっとも重要な科白であり、それはスタンリー・カヴェルが『リア王』を「愛の回避」と特徴づけていることからも分る。コーディリアの二つの科白をカットして、いきなり次の「Nothing, my lord. [愛を表現する私の言葉は]ありません、お父さま」から始めた。「Love, and be silent」があるからこそ、それを踏まえて「Nothing」と言わざるをえないのに。この箇所のリアとの「Nothing」「Nothing」「Nothing」「Nothing」という4回の相互発言は、第5幕コーディリア最後の科白「お会いになりませんか、あの娘たちに、私の姉たちに?」に答えるリアの「No, no, no, no!」に呼応し、さらに終幕、リアが死ぬ直前にコーディリアの死体を抱いて叫ぶ「なぜ、お前には息がない? お前はもう絶対に戻ってこない、絶対に、絶対に、絶対に、絶対に!Never, never, never, never, never」とも呼応している。『リア王』は、無と存在の形而上学的な戦いである。ならば、「戦闘開始!」の号令たる冒頭コーディリアの命令文「Love, and be silent」を欠くことはありえない。(写真下は、軍事戦に敗れ逮捕されるリアとコーディリア[左中央の軍服]、原作にはないシーンだが、スナップショットのように挿入したのはよい、その下は、リーガンの夫コーンウェルと並ぶコーディリア、そして終幕)

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動画も。

https://www.youtube.com/watch?v=sGJogpX4ToE

https://twitter.com/ntlive/status/1050432854352687104

鈴木裕美演出、チェホフ『かもめ』

[演劇] チェホフ『かもめ』 4月21日 新国・小劇場

(写真下は、ニーナとトリゴーリン アルカージナとコースチャ)

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『かもめ』実演を見るのは6回目。今回の小川絵梨子翻訳、鈴木裕美演出は、リアリズム寄りのオーソドックスな演出でありながら、強い感銘を与えるので、これが一番良かった。マキノノゾミ演出(2002)や熊林弘高演出(2016)は、感情表現を突出させて、テンションの高い尖がった舞台にする優れたものだったが、鈴木演出は、この作品に含まれる対立的諸要素の均衡と調和がとてもいい。どの人物造形も曖昧になっていない。『かもめ』は、アルカージナを除いて、登場人物のそれぞれがどういう人間なのか曖昧なところがあり、人物像がシャープな焦点を結びにくい。誰もが、感情と行動の結びつきが、ちぐはぐなのだ。キャラクターを現実化させねばならない演出家の負担は大きい。モスクワ芸術座での上演成功に導いた演出のスタニスラフスキーでさえ、最初は「この作品は上演不可能ではないか」と思っていた。(写真下は、アルカージナとトリゴーリン)

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アルカージナは、若いツバメがいれば満足する自己中の女。ニーナは夢見る少女だったが、トリゴーリンに捨てられ、女優としても三流であることが分り、絶望に耐えながらも自分の生きていく道を見出した。コースチャは、極端なマザコンで、ひ弱なオタクっぽい文学青年。ニーナには捨てられ、本物の文学作品は書けず、自分の道を見いだせず自殺する。しかし、トリゴーリンだけは、四人の主人公の一人であるにもかかわらず、どういう人間なのかよく分らない。30代後半の作家で、チェホフ自身を反映している複雑な性格の人物なのだが、『黒テント』版で67歳の斎藤晴彦が演じた時は、さすがに枯れ過ぎていて、違うと思った。熊林版で、32才の田中圭吾が演じる、セクシーでアウトドア派(釣りが大好き)でちょっとニヒルな影のある青年のときは、ニーナが、オタクっぽいコースチャではなく、最後の最後までトリゴーリンを愛する理由も分って、なるほど、これがトリゴーリンなのだと思った。(写真下は、終幕近く、コースチャを捨てて去ってゆく直前のニーナ) 

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だが、今回の鈴木演出では、今まで見たすべての上演と違って、トリゴーリンは、とても弱々しいマザコンの青年になっている。演劇台本を書いたトム・ストッパードは終幕に、「トリゴーリンは、ニーナを捨てたあと母のもとに戻った」という原作にない科白を加えた。なるほど、トリゴーリンもひ弱で傷つきやすいマザコン青年ならば、彼という人物がよく分かる。第三幕の終り、彼はアルカージナに向ってこう言う。「僕には意志というものがないんだ、意志のあったためしがないんだ。無気力で、いくじがなくて、いつも言いなりになる男、いったいこんな男が女にもてるのだろうか。僕をつかまえて、連れていっておくれ、ただ、どうか一歩も放さないでおくれ」(松下裕訳)。トリゴーリンはマザコンであると同時にロリコンでもある。少女ニーナに対する彼の愛は、ロリコンから発するもので、アルカージナに対する愛は、マザコンに発している。マザコンロリコンの両方の要素をもつことは、つまり普通の男性だということだ。よく分かるではないか。チェホフ劇の人物は誰もが、感情と行動がちぐはぐで、妙に居丈高になったり、突然とんでもない時に告白して大恥をかいたり、空疎な哲学的演説を始めたり、とても滑稽になってしまう。しかし、その理由は、「愛」というものは高度に複合的な現象であり、快、不快、喜び、悲しみ、憎悪、怒り、嫉妬、プライド、優越、卑屈、喪失など、たくさんの感情が噴き上がる、もっとも人間的な事象だからだろう。誰もが、本当の愛は得られないままに、必死に、もがきながら生きている。絶望の中に、かすかな希望にすがりつくようにして生きようとするニーナ。人はみな、人生の寂しさと苦さに向き合って生きるしかないのだ。今回の鈴木演出は、終幕に、第一幕の劇中劇の一部をニーナが「再演」するシーンを入れたが(原作では科白を口づさむだけ)、これはとてもよい。「私はかもめ? いいえ私は女優」と叫ぶニーナは、絶望にぼろぼろになってはいても、激しく輝やいている。そう、これこそ『かもめ』なのだ。(写真、一番下は劇中劇)

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シェーンベルク『グレの歌』

[音楽] シェーンベルクグレの歌』 東京文化会館 4月14日

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 大野和士指揮、東京都響。この曲は、CDやYou Tubeでしか聴いたことがなかったが、実演では印象がまったく違う。やはり実演で聞かなければダメだと思った。何よりもオケの大編成がすごい。弦楽器だけで80人、木管金管を合せて50人、そしてティンパニ6台+ドラム、ハープ4台、計150人、そして大編成の合唱隊130人。響きの厚味が半端ではない。全体の形式はオペラに似ているが、これではオケピットに入らない。指揮者が広げている譜面が新聞のように大きい。シェーンベルクはこの曲のために53段譜を特注したというが、あれがそうなのか。作曲開始から完成までに10年近い中断を含んでいるため、第一部の後期ロマン派様式の部分と、第二部以降の無調時代の作風が見られる部分との間に差異があり、しかもそれが全体の構成を豊かにし、その構成の豊かさが、1時間50分に及ぶこの作品を非常に魅力的なものにしている。つまり、調性的な西洋音楽が無調的な現代音楽へと移行する、その移行そのものがこの作品の内実になっているわけだ。とりわけ、第3部の道化の歌は無調性が強く感じられ、それが道化の歌であるところにも意味があるだろう。道化(A.クラヴェッツ)だけが、他の歌手とちがって、ふざけながら登場し、ふざけた身振りで歌っていたが、これは原作の指示なのだろうか。まさに現代音楽への「移行」そのものが主題になっているからだろうか。

  西洋音楽の調性は、音(=響き)という素材を、限られた音程の組み合わせのみを選択することによってコントロールし、形式が素材を支配した。しかし12音技法は、すべての音(=響き)を均等に解放したために、形式による素材のコントロールが難しくなった。その結果、旋律という形式よりも、音の素材性が単独で前景化することになる。第3部では、マーラーのような美しい旋律と、前景化した音の素材性とが、目くるめくように交替する。大合唱が突如として停止し、直後の2~3秒くらいの沈黙の中に、声という素材が幻の姿で溢れ出すさまは、まるで太陽を見た直後の残像現象のようだ。第1部最後の「山鳩の歌」(藤村実穂子)の旋律的美しさがとくに印象的なので、それとは対比的に、すごく短い第2部を挟んで続く第3部では、それぞれの楽器の音がパートごとに単独で浮かび上がる箇所が多く、その前景化そのものが、現代音楽の新しい形式性だと分る。そして、そのためにこそ、オケは大編成でなければならない必然性があるのだ。最後の大合唱もすばらしく、世界そのものが、いや存在そのものが輝くような印象を受ける。これも声という素材の前景化から来ているのだと思う。これからも、『グレの歌』は実演を聞かなければと、強く感じた(次の上演は10月)。そして、アドルノが言ったように、シェーンベルクは、マイナーな作曲家などではなく、バッハ、モーツァルトと並ぶ西洋音楽の大作曲家であることが、『グレの歌』によってよく分かった。↓写真下は終演。

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