シェーンベルク『グレの歌』

[音楽] シェーンベルクグレの歌』 東京文化会館 4月14日

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 大野和士指揮、東京都響。この曲は、CDやYou Tubeでしか聴いたことがなかったが、実演では印象がまったく違う。やはり実演で聞かなければダメだと思った。何よりもオケの大編成がすごい。弦楽器だけで80人、木管金管を合せて50人、そしてティンパニ6台+ドラム、ハープ4台、計150人、そして大編成の合唱隊130人。響きの厚味が半端ではない。全体の形式はオペラに似ているが、これではオケピットに入らない。指揮者が広げている譜面が新聞のように大きい。シェーンベルクはこの曲のために53段譜を特注したというが、あれがそうなのか。作曲開始から完成までに10年近い中断を含んでいるため、第一部の後期ロマン派様式の部分と、第二部以降の無調時代の作風が見られる部分との間に差異があり、しかもそれが全体の構成を豊かにし、その構成の豊かさが、1時間50分に及ぶこの作品を非常に魅力的なものにしている。つまり、調性的な西洋音楽が無調的な現代音楽へと移行する、その移行そのものがこの作品の内実になっているわけだ。とりわけ、第3部の道化の歌は無調性が強く感じられ、それが道化の歌であるところにも意味があるだろう。道化(A.クラヴェッツ)だけが、他の歌手とちがって、ふざけながら登場し、ふざけた身振りで歌っていたが、これは原作の指示なのだろうか。まさに現代音楽への「移行」そのものが主題になっているからだろうか。

  西洋音楽の調性は、音(=響き)という素材を、限られた音程の組み合わせのみを選択することによってコントロールし、形式が素材を支配した。しかし12音技法は、すべての音(=響き)を均等に解放したために、形式による素材のコントロールが難しくなった。その結果、旋律という形式よりも、音の素材性が単独で前景化することになる。第3部では、マーラーのような美しい旋律と、前景化した音の素材性とが、目くるめくように交替する。大合唱が突如として停止し、直後の2~3秒くらいの沈黙の中に、声という素材が幻の姿で溢れ出すさまは、まるで太陽を見た直後の残像現象のようだ。第1部最後の「山鳩の歌」(藤村実穂子)の旋律的美しさがとくに印象的なので、それとは対比的に、すごく短い第2部を挟んで続く第3部では、それぞれの楽器の音がパートごとに単独で浮かび上がる箇所が多く、その前景化そのものが、現代音楽の新しい形式性だと分る。そして、そのためにこそ、オケは大編成でなければならない必然性があるのだ。最後の大合唱もすばらしく、世界そのものが、いや存在そのものが輝くような印象を受ける。これも声という素材の前景化から来ているのだと思う。これからも、『グレの歌』は実演を聞かなければと、強く感じた(次の上演は10月)。そして、アドルノが言ったように、シェーンベルクは、マイナーな作曲家などではなく、バッハ、モーツァルトと並ぶ西洋音楽の大作曲家であることが、『グレの歌』によってよく分かった。↓写真下は終演。

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