唐十郎 『少女仮面』

[演劇]  唐十郎『少女仮面』 シアター・トラム 1月30日

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(写真↑は、左から、老婆(大西多摩惠)、宝塚の伝説的な男装スター春日野八千代(若村麻由美)、そして宝塚志望の少女・貝(木崎ゆりあ)、彼女たちの肉体は仮象であり、女優として成功すればするほど自分の肉体を失うというのが主題、新宿地下の怪しげな喫茶店の名前が「肉体」、チープでいい)

 唐十郎は『秘密の花園』しか見たことがなかったが、『少女仮面』は本当にすばらしい作品だ。いかにもチープなアングラ劇の仕立てでありながら、きわめて芸術性が高く、シュールな感じに溢れている。なるほど唐十郎は天才だ。本作は日本演劇が創作した古典と言えるだろう。杉原邦生の優れた演出、主人公を演じた若村麻由美の名演に負うとはいえ、戯曲そのものが傑出している。1969年初演の白石加代子、1971年の李礼仙が演じた舞台はどんなに見事だったろうと想像してしまう。そして、吉行和子が民藝を退団して初演に少女・貝を演じ、また、本作が岸田戯曲賞を受賞したことに対して、芥川比呂志宇野重吉が激怒したことからも、この作品の衝撃度が分る。(春日野八千代を演じる若村麻由美↓、そして初演の吉行和子(左)と白石加代子)

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 『少女仮面』という劇を一言でいえば、肉体の不条理性から美が立ち上がる、といえるだろう。とても猥雑なものの中から、高貴な美が輝き出るのだ。「少女歌劇」宝塚の伝説的な男装ヒロインだった春日野八千代が主人公で、彼女がスターとして成功すればするほど、自分の本来の肉体を失ってしまうというのが、タイトル「少女仮面」の意味するところ。そして今回気が付いたのだが、考えてみれば、宝塚の男装ヒロインだけでなく、『十二夜』のヴァイオラも、『お気に召すまま』のロザリンドも、『フィガロの結婚』のケルビーノも、すべて男装少女だから、まさに肉体の不条理性から美が立ち上がる作品だったわけだ(笑)。もし『少女仮面』がきわめて普遍性を持つとすれば、こうしたやや倒錯的な美の輝きにあるだろう。登場する人形付きの腹話術師がとてもいい。人間が実体なのか、人形が実体なのか、転倒的な関係になってしまうのだ。そして喫茶店のボーイたちの肉体もどこか倒錯的だ↓。 

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新宿の地下の怪しい喫茶店には、場末感がただよい、猥雑でいかがわしい雰囲気に溢れて、登場人物も、やさぐれて不良っぽい。おそらく、場末のチープなストリップ劇場が、唐十郎の原風景なのかもしれない。しかし本作では、春日野が満州公演に行き、満州にいる甘粕大尉(関東大震災大杉栄伊藤野枝を虐殺した)と恋に陥るとか、『嵐が丘』のヒースクリフに春日野をなぞらえ、キャサリンととともに「肉体を失った亡霊」として現れるというシュールな作りが成功している。もっとも制限された時空に置かれている役者の肉体が(=一幕一場が本来の演劇)、時空を超えることは、本来あってはならないことなのだが、肉体を失うことが主題の本作では、その不条理感が実に適切なのだ。肉体の不条理性から美が立ち上がる『少女仮面』で、私が思い出したのは、ニーチェ力への意志』の一節である。「性欲、陶酔、残酷という三つの要素が、人間の最古の祝祭の歓喜に属している。・・・そして、動物的快感や欲望のこうしたきわめて微妙なニュアンスの混交が美的状態なのである。・・・<美>とはそれゆえ芸術家にとってはあらゆる階層秩序の外にある」(§801、803)。あと、何度か流れるメリー・ポプキン「悲しき天使Those were the days my friend」がとてもいい。音楽はこれしかありえないという感じだ。唐十郎はレコードをかけっ放しにして2日間で『少女仮面』を一気に書いた。(写真↓は、甘粕大尉、そして老婆と少女・貝、春日野は、(貝もその一員である)観客によって肉体が消費され消尽してゆく、まるでストリップショーの踊り子のように。貝も、今は肉体を搾取する側だが宝塚スターになれば搾取される側になるだろう)

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今日のうた(105)

[今日のうた] 1月ぶん

(写真は原石鼎1886~1951、島根県出身で高濱虚子に師事、代表句「山の色釣り上げし鮎に動くかな」など色彩感覚に優れた句を詠んだ)

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  • 大濤(おおなみ)にをどり現れ初日の出

 (高濱虚子、作者は、荒れる海で元日の初日の出を見たのだろう、日の出というのは、あっ、いよいよ出て来るぞと思った瞬間、もうビッと出てきてしまっている、連続的ではなく不連続な動き、この句も「をどり現れ」が卓越) 1.1

 

  • 三椀(さんわん)の雑煮かゆるや長者ぶり

 (蕪村1772、「かゆる」=おかわりする、「お雑煮を三杯もおかわりしちゃった、それだけのことだけど、何だか長者になった気分、お正月っていいな」) 1.2

 

  • 子とあそび夫とかたり妻の春

 (河野静雲1887~1974、作者は虚子に師事した俳人で僧、この句は1937年作、いつも作者の妻は寺の仕事や家事で忙しいのだろう、でも正月にはゆったりと子と遊んだり夫と語ったりして、妻はとても楽しそう、妻をねぎらう愛妻句でもある) 1.3

 

  • 足場から大声だして人を呼ぶ声の力を両手にあつめ

 (田中道孝『角川短歌』2019年11月、作者1959~は昨年度の角川短歌賞受賞者、建設技師だろうか、巨大な工事現場、足場の上で工事の一人が両手を口に当てて大声で人を呼んでいる、「声の力を両手にあつめ」て) 1.4

 

  • ふえてゆくほくろ美し死とともに星図は完成すると思えば

 (鍋島恵子『角川短歌』2019年11月、作者1977~は昨年度の角川短歌賞受賞者、一人でいる寝室に月の光が射している、星空も見える、自分の顔に増えていく「ほくろ」は美しい、星図の星が増えるのだと思えば) 1.5

 

  • 真冬とは手袋をなくす季節なり寒きこの世の手をもつかぎり

 (小島ゆかり『六六魚』2018、そういえば私も一冬に必ず一回くらいは手袋をなくす、しかし、作者のように「手が寒い」とすぐ気付くことなく、翌日出かける前に「あれっ、ない」と気付いてあせる) 1.6

 

  • 雪の日は雪の結晶また見たし実家の小さき顕微鏡にて

 (栗木京子『ランプの精』2018、作者1954~は京大理学部生物学科の出身、高校生のころは理科少女だったのだろう、自宅の「小さな顕微鏡」で微生物や雪の結晶を観察していた、50年後のある日、降った雪は50年前を想起させる) 1.7

 

  • 恋猫の眼(まなこ)ばかりに痩せにけり

 (夏目漱石1907、冬は猫の発情期だが、漱石家のオス猫は弱かったのだろう、いつも他のオス猫に負けて、しょんぼりと帰ってくる、ケガをし、肉も落ち、「眼ばかりに」痩せて) 1.8

 

  • 面白やかさなりあふて雪の傘

 (正岡子規1893、俳句としては子規1867~1902の初期の句、東大を中退した直後で子規庵に住む前年だが、場所は東京だろう、「重なるように幾つも並んだ傘の上に雪が積もって面白い」、和傘か、いや当時普及し始めていた洋傘か、両方混じっているのか) 1.9

 

  • どうしようもないわたしが歩いてゐる

 (種田山頭火『鉢の子』1932、山頭火の代表句の一つだが、なかなか“汎用性のある句”だ、「どうしようもない」の後で切るか、「どうしようもないわたし」の後で切るかで、意味は微妙に違うが、どちらも、誰しもが思い当たる心象風景だろう) 1.10

 

  • 考える人のポーズでぼんやりと トイレにはある?自由と尊厳

 (月野桂『角川短歌』2019年11月佳作、作者は女子高生、管理主義の高校の学校生活を詠む歌が並ぶ、選評では、委員の一人が◎、もう一人が〇だから、こちらが角川短歌賞を取ってもおかしくなかったかも) 1.11

 

  • 各々がちゃんと考えたんだろうGmailアドレスの一覧

 (石井大成『角川短歌』2019年11月佳作、作者1999~は九州大学の学生か、バイト先の塾の生徒名簿だろうか、たしかにメールアドレスの@の前の文字列は、いろいろ考えて作られている) 1.12

 

  • 商店街の花屋の店先 体力のありそうな花ばかり並んで

 (梶山志緒里『角川短歌』2019年11月佳作、作者1993~はたぶん誰かに贈る花束を買いにきている、「体力のありそうな花」というのがいい、普通はひ弱そうな花もあるはずだから、「ばかり並ぶ」のは珍しい?) 1.13

 

  • 駆けだした彼女の襟の白線が彼女のかたちに合せて動く

 (月野桂『角川短歌』2019年11月佳作、作者は富山県の女子高生、直前の歌に「タケシタはまっすぐな奴 セーラーの襟についてる白線よりも」とある、同級の親友か、制服はセーラーなのだ、そう、JKって純粋で美しいよね) 1.14

 

  • 氷る燈(ひ)の油うかがふねずみかな

 (蕪村、「作者は凍るような寒い夜、熱心に読書している、ふと気が付くと、行燈の下にある「凍っている油」を舐めようとネズミが様子をうかがっている」、植物油は凍るのだろうか、しかし今年はまだ余り寒くないですね) 1.15

 

  • つな引に小家の母も出にけり

 (水田西吟?~1709、小学校の運動会などで見られる「綱引き」だが、もとは1月中旬ころ行われる神事だったらしい、作者は井原西鶴と繋がる関西の俳人だが、この句から、綱引に子どもも参加していたのがわかる) 1.16

 

  • 選集にかゝりし沙汰や日脚(ひあし)のぶ

 (高濱虚子、「選集に没頭していて、ふと気が付いた」というのがいい、何の選集だろうか、「日脚のぶ」とは、冬至からしばらくたって、少し日が長くなったなと感じること、1月17日の今日は冬至から27日目、そろそろ「日脚のぶ」ころだ) 1.17

 

  • 雪に来て美事な鳥のだまり居る

(原石鼎1934年、「だまり居る」がいい、鳥だってそうそう降雪に慣れているわけではない、戸惑っているのだろう、人間の期待するように美しい声で鳴いてよと言われてもね・・・、だから「だまり居る」)1.18

 

  • 子ら登校一列縦隊雪国の吾も斯(か)かりきもっと元気ありき

 (藤田豪之輔「朝日歌壇」1972年1月、宮柊二選、作者は東京在住、東京に雪が降った日の朝、小学生たちが一列縦隊で登校中、雪国生れの作者もかつて「このように」雪の朝を登校した、雪に戸惑う東京っ子と違って、もっと元気に歩いたよ) 1.19

 

  • 風呂わかすすべを覚えし盲い子のいそいそと今日もわかし呉れたり

 (小林とみ子「朝日歌壇」1972年1月、近藤芳美選、作者には盲目の子供がいるのだろう、まだそう大きくはないが風呂を沸せるようになり、母に代わって沸かしてくれる、「いそいそと今日も」がいい、子供もうれしいのだ) 1.20

 

  • 荒海の舟より降りし彼岸僧灯台守に迎えられおり

 (谷本喜平次「朝日歌壇」1972年1月、宮柊二選、「彼岸」とは「向こう岸」という意味だろう、岬の先端あるいは離島の灯台だろうか、やっと荒海の向こう岸から老僧が小舟に乗って灯台に来てくれた、僧の体を支えながら迎える灯台守) 1.21

 

  • あい嫌(いや)でありんすを聞き抜き放し

 (『誹風柳多留』第14篇、吉原の高級遊女の高尾を、仙台藩主の伊達綱宗が身請けしたが、高尾は嫌がって綱宗を振ったので、綱宗が怒って切り殺したという俗説、川柳にはたくさん詠まれている、高位の武士に類似ケースはあったのかも) 1.22

 

  • 雪の供(とも)こいつがなんの洒落だろう

 (『誹風柳多留』第19篇、「上流階級である御主人様は、風流な雪見と洒落こんでいらっしゃるけれど、お伴させられる庶民の俺には、雪はただ寒いだけだよ、とほほ」) 1.23

 

  • 仲人の跡(あと)から出来るおもしろさ

 (『誹風柳多留』第9篇、まず結婚があり次に妊娠があるという順がまあ標準だろうが、江戸時代にも出来ちゃった婚は多かったのだろう、お腹の大きい花嫁が何とか仲人を頼み込んで、結婚披露宴にこぎつけたのか) 1.24

 

  • 梓弓(あづさゆみ)引きて許さずあらませばかかる恋には逢はずあらまし

 (よみ人しらず『万葉集』巻11、「梓弓をきりりと引いて緩めないように、心を許さなければよかったのに、ああ、こんな苦しい恋に陥ってしまった、女って弱いのね、心に隙があったのね」) 1.25

 

  • 夢にだに見ゆとは見えじ朝な朝なわが面影に恥づる身なれば

 (伊勢『古今集』巻14、「夢の中でさえ私に逢ったと貴方に思われたくないわ、毎朝毎朝、鏡を見るたびに、自分の容貌の衰えが恥ずかしいのだから」、「夢」は昼間まどろんで彼が見る夢のことだろう、彼が帰った朝に鏡を見ると、もう昨夜より老けている、という悲しい歌) 1.26

 

  • 帰るさのものとや人の眺むらん待つ夜ながらの有明の月

 (藤原定家『新古今』巻13、「私の所へ来なかった貴方は、別の女の所にいるのね、今、その女と別れて帰る途中、この有明の月を眺めているのかしら、私がずっと寂しく見続けていたこの月を」、女に託して詠んだ恋の名歌) 1.27

 

  • 我がためはたなゐの清水ぬるけれど猶かきやらんさては澄むかと

(藤原実方拾遺和歌集』、「貴女の愛情がぬるい[=薄い]のと同様、うちの水ための浅い井戸はぬるく濁っています、だからかき混ぜてみよう、そうすればたぶんすっきりと澄んで(=住む=契を交わす)、貴女の私への愛情も高まるでしょう」、女の返しは明日) 1.28

 

  • かきやらば濁りもぞする浅き瀬の水屑(みくづ)は誰か澄ませてもみん

 (女『拾遺和歌集』、昨日の実方の歌への返し、「まるで薄い愛情のようにぬるく濁った井戸を、貴方はかき混ぜようっていうのね、ふーん、ますます濁るわよきっと、私という井戸を澄ませる(=愛情を高める)のは、さあ誰かしらね」) 1.29

 

  • 着膨れて幸せさうにみえぬ人

 (宇壽山孝子「東京新聞俳壇」1月26日、石田郷子選、着膨れた人がどう見えたのか、老若男女で印象はそれぞれ異なると思うが、たぶん高齢者男性だろう) 1.30

 

 (本多豊明「朝日俳壇」1月26日、長谷川櫂選、茨城県大洗で有名な鮟鱇の「吊るし切り」だろう、吊るされた鮟鱇は大きくて堂々としていて存在感がある、まだ「一刀の傷もない」) 1.31

美と愛について(5) ― 恋に陥る瞬間、『ロミオとジュリエット』

美と愛について(5) ― 恋に陥る瞬間、『ロミオとジュリエット

恋に陥る瞬間

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 (↑「ロミオとジュリエット」でもっとも美しい瞬間、and palm to palm is holy palmers’ kiss・・と二人は手を触れ合う。黒白写真はジュディ・デンチ、1960年Old Vick座、一番下は宮藤官九郎演出、そしてバレエ版)

  文学作品には「恋に陥る瞬間」がたくさん描かれているが、その中でもっとも美しいものの一つが、「ロミ・ジュリ」第1幕第5場、ダンスパーティでの出会いであろう。軽やかに快く響くブランクヴァースの詩が突然ソネット形式に転調し、そのソネットが終ると同時にロミオがジュリエットにキスをする。私は大好きなシーンなので、10年近く担当した大学の授業「基礎ゼミ」で、いつも学生と一緒に皆で交互に朗読し合った。離れた位置から互いの姿を眼にして、恋が魔法のようにふりかかる瞬間、それからファーストキスまで2分強だろうか。この世でもっとも美しいファーストキス! そこでは、まず触れ合った互いの手を、キスへといざなうのがジュリエットの科白「and palm to palm is holy palmers’ kiss」で、彼女は受け身に見せながら実は積極的にロミオを誘っている。「palm to palm is holy palmers’ kiss」とは、教会にやってきた巡礼者たちが、自分の掌を、イエスやマリアの聖像の掌に押し当てることの喩えだが、ロミオは自分を巡礼者に、ジュリエットは自分を聖像に擬して、会話を楽しんでいる。この科白はシェイクスピア全作品でも屈指の美しい言葉で、舞台でも演出が工夫をこらすクライマックスの一つ。原文、拙訳、映像の順に鑑賞しよう。(以下、太字は植村)

 

(R) If I profane with my unworthiest hand

   This holy shrine, the gentle sin is this.

   My lips, two blushing pilgrims, ready stand

   To smooth that rough touch with a tender kiss.

(J) Good pilgrim, you do wrong your hand too much,

   Which mannerly devotion shows in this.

   For saints have hands that pilgrims’ hands do touch,

   And palm to palm is holy palmers’ kiss.

(R) Have not saints lips, and holy palmers too?

(J) Ay, pilgrim, lips that they must use in prayer.

(R) O, then, dear saint, let lips do what hands do!

   They pray : grant thou, lest faith turn to despair.

(J) Saint do not move, though grant for prayers’ sake.

(R) Then, move not while my prayer’s effect I take.

 [He kisses her]

   Thus from my lips, by time my sin is purged.

(J) Then have my lips the sin that they have took.

(R) Sin from my lips? O trespass sweetly urged!

 Give me my sin again.  [He kisses her]

(J)                                You kiss by th’book.

 

(ロ)   もし僕の卑しい手が君に触れて、この聖堂をけがすなら

   こうやって償おう、僕の唇は、ここに控えている

   はにかみやの巡礼だ、そのやさしい口づけで

   乱暴に触れた君の手を、慰めるよ

(ジュ) あら巡礼さん、それじゃ、あなたのその手がかわいそう

   お行儀よく、こんなに信心深いじゃないの

   そもそも聖者の手は、巡礼さんが触れるためにあるのよ

   そして、手と手を触れるのが、巡礼同士の口づけよ

(ロ)   でもね、聖者にも唇があるんじゃない? 巡礼にも唇があるんじゃない?

(ジュ) あるわよ、巡礼さん、でもね、それはね、お祈りに使うの

(ロ)   おお、では僕の聖者ちゃん、僕らの手がしたことを唇にもさせてね

   僕の唇はお祈りするんだ、だから許して、信仰が絶望にならないように

(ジュ) お祈りは許すわ、でも聖者の心は動かないかもね

(ロ)   では、動かないで、お祈りの効(しるし)を僕が受け取る間は

 [さっとキスする]

 さ、これで僕の唇の罪は、君の唇によって、浄められた

(ジュ) じゃ、あなたの浄められたその罪が、私の唇にあるのね

(ロ)  え、 僕の唇から君の唇に罪が移った? 何てやさしく咎めてくれるんだい!

   じゃ、僕の罪を返してもらうね  [またキスする]

(ジュ) あなたのキスって、ちょっと理屈っぽいのね      (植村訳)

 

 最後のジュリエットの科白から、彼女がこのファーストキスに大満足していることが分る。坪内逍遥から河合祥一郎まで、訳はちょっと大人言葉なので、私は若者言葉に訳してみました。だってジュリエットはまだ13歳ですよ。

 「ロミオとジュリエット」のソネット部分の動画↓、下記の時刻のところがand palm to palm is・・、最初のゼフィレリ版は原作を僅かに変えた凝った作り、残りの二つが普通。

https://www.youtube.com/watch?v=W6bd7s00_m0 (1分20秒)

https://www.youtube.com/watch?v=IYlpsLXJv7k  (30秒)

https://www.youtube.com/watch?v=bi4vYa3NHhQ (ダンスをしながら 35秒) 

 とはいえ、ロミオもジュリエットも十分な「もて資質」を持つ恋愛強者である。しかし世の中には、そうでない非モテ男子・女子も存在する。そういう恋愛弱者が「恋に陥る瞬間」はどうなのだろうか? 次回は、and palm to palm is とちょっと似ているけれど、非モテ男女の例として、川上未映子『すべて真夜中の恋人たち』を取り上げる。

美と愛について(4) ― 愛の受動性、トマス『神学大全』

美と愛について(4) ― 愛の受動性、トマス『神学大全

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 前回、デカルトによれば、愛の感情のうち、美しいものへの愛は「快」であり、われわれは美しい異性に「恋をして」、それを激しく求めるとされた。情念(感情)passionは受動的passiveであり、それとほぼ同じことを、14世紀の哲学者トマス・アクイナスも、『神学大全』第2部第22~48問題、「情念」において述べている。デカルトでは、愛には二種類あって、それは、善いものへの愛と、美しいものへの愛であった。トマスでは、善と美は同じものであって、善いものへの愛と美しいものへの愛は、同じことになる。トマスの主張を、順に見てゆこう。『神学大全』第10冊、森啓訳、創文社より引用。

 >望ましいものによって欲求が受ける最初の変化は「愛amor」と呼ばれる(これは、望ましいものが欲求の気に入ること・望ましいものへの好感にほかならない)。そして、この好感から、引き続いて、その望ましいものへ向かう運動が生じるのであって、これが「欲望」なのである。そして最後に、この運動が静止に至るならば、それが「喜び」である。このように、愛は、望ましいものによる欲求の一定の変化のうちに成立するのだから、したがって、愛が情念・受動passioであることは明らかである。(p59)

  デカルト『情念論』とほとんど同じことが述べられている。すなわち、欲求つまり外部へ向かう心の動きが、何か変化を受けて、「いいな!」と感じるのが「愛」である。次に、その感情をもとに、その望ましいものへの「欲望」が生じ、その「欲望」が満足されれば「喜び」の感情が得られる。このような運動の出発点は、まさに受動・情念として与えられる「愛」の感情なのである。

 >「愛」には何らか受動ということが含意されている(愛が感覚的な欲求のうちにあるかぎりにおいては、特にそうである)。(p63)

 >「愛」は欲求的な能力potentia appetitiveに属する。だがこれは、受動的な力vis passivaなのである。(p69)

  トマスは、しかしデカルト違って、愛に二種類あるとは言わず、さらに踏み込んで、善いものへの愛と美しいのものへの愛は、抽象の水準が違うだけで、それが愛という点では同じであると言う。

 >「美pulchrum」は「善bonumと同じであり、ただ概念ratioにおいて相違しているだけである。つまり、善は「(人間だけではなく)万物が欲求するところのもの」であるから、「欲求が善のうちに静止する」という事態は、とりも直さず「善」という概念[の意味に]由来している。しかし、「美」の概念には、「(人間の)欲求が美しいものの眺めaspectusないし認識のうちに静止する」ということが属している。つまり[人間の]理性のしもべとして働く視覚および聴覚が、とりわけ美に関わりをもつのもそのためであって、事実われわれは、「美しい光景」とか「美しい音」とか言っている。けれども視覚と聴覚以外の感覚対象にあっては、「美しさpulchritudo」という名称を用いることはないのであって、実際、「美しい味」とか「美しい匂い」などとは言わない。つまり、「美」とは「善」のうえに認識的な力へのある秩序を加えたものである。かくして、端的に欲求の気に入るところのものが「善」といわれるのに対して、それを把捉すること自体が気持いいものが「美」といわれるのである。(p70)

  このように「美」とは、人間が対象を見たり聞いたりすることによって生じる「快さ」「好感」「気持ちいい」という感情である。そして、美が愛されるものであることは、善が愛されるものであるという普遍的な事態が、人間の視覚や聴覚において生じることであると説明される。

  これまで見てきたように、ピーパーは「愛とは、われわれのもとにやってきて、いわば魔法のようにふりかかるものである」と、「目によって魅せられる」受動性について述べた。デカルトは「愛という情念・受動には、善いものへの愛と美しいものへの愛があり、後者は「快」と呼ばれる」と、はっきり第二次性徴のもたらすエロスについて述べていた。そしてトマスは、善いものへの愛と美しいものへの愛は抽象のレベルが違うだけで、後者は人間の視覚と聴覚に生じる「快さ」であると述べた。三者はほぼ同じことを述べており、愛とは、まず何よりも、何かを美しいと感じること、それに魅せられる感情を意味している。

  さて、次回からは少し視点を変えて、その「魔法のようにふりかかる愛の感情」がどのように「われわれのもとにやってくる」のかを、考察しよう。その前に一点だけ注意しておきたいのは、美しいものを愛することにエロスの本質があることは、男女とも同じだということである。「美しいな! 可愛いな! 素敵だな!」と心のときめきを覚え、相手に萌えるのは、女性も同じである。映画『理由なき反抗』(1955)のジェームズ・ディーン、香港映画『欲望の翼』(1990)のレスリー・チャンなどは非常に美しく、女性は、彼らの美しさに心がときめき、萌えるだろう。たしかに女性と男性では、その「美しさ」の在り方に違いはあるが、しかしどちらも美しさに萌えることに変わりはない。この点はあらためて考察するが、今はとりあえず、エロスが愛の核心であり、それは相手から贈られる受動的な感情であることを確認しよう。

  次回から、数多くの文学や芸術作品に表現されている「恋に陥る瞬間」を検討したい。まず手始めに、シェイクスピアロミオとジュリエット』、ゲーテ『ヴェㇽテル』、マン『すげかえられた首』『魔の山』、フロベール感情教育』などから、「魔法のようにふりかかる愛の感情」を検討する。

  PS :美と愛が最高に一体となったシーン、南アフリカ版の非常に珍しい『魔笛』、2008年の日本公演を私は観ました。オケもVlもなく、木琴や土俗の打楽器で演奏しますが、本当に素晴らしい『魔笛』でした。私はこの上演で初めて「ザラストロ」とは何者かを理解できました↓(5分強)。

https://www.youtube.com/watch?v=w-rvlPK15nw

この上演については、森岡美穂氏による解説があります。

http://www.ajf.gr.jp/lang_ja/africa-now/no81/top8.html

ヴァン・ホーヴェ演出『イヴの総て』

[演劇] ヴァン・ホーヴェ演出『イヴの総て』NTlive  恵比寿ガーデンシネマ 1月21日

(写真は↓、イヴ(L.アンダーソン)とマーゴ(G.アンダーソン)、そして舞台、マーゴの自宅の居間、台所、楽屋が舞台の上で一体の空間になっている)

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ホーヴェは『オセロ』『ヘッダ・ガブラー』が素晴らしかったので、ぜひ見たかった。本作は、2019年4月のナショナル・シアターの上演で、有名な映画(1950、監督マンキウィッツ)を演劇化したもの。新進女優イヴが女を武器に使ったりして古参女優マーゴの役を奪っていく話だが、映画版に比べて、一つ一つの場面が「濃い」というか、とにかく登場人物の存在感がすばらしい。映画では比較的「浅い」話だと思っていたが、こちらは作品に深みと奥行を感じる。それはおそらく、映画は異なる時空を自由に切り取って編成されるのに対して、演劇はつねに一つの空間を共有するので、人と人との関係性がより重層的で濃密になるからだろう。写真下は↓、終幕近く、マーゴのガウンを着たイヴが、マーゴの恋人ビルに迫るシーン。鏡の前はマーゴの定席だが、イヴが座るとマーゴに見える。向こう側からカメラで写して上部の大きな画像にアップされるので、一つの空間が二重化される。

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インタヴューでホーヴェは、「この作品は映画よりもマンキウィッツの脚本が素晴らしいので舞台化した」と述べていたが、科白が非常に洗練されていて、それだけでも演劇向きなのだろう。スター女優と、演出家、劇作家、批評家が互いに複雑にからむところが物語を面白くしている。日本と違って批評家は権力なのだ。写真下↓は大物批評家のドゥイット(S.タウンゼント)。彼こそ実はキーパーソンで、最後の大逆転でイヴは「彼の奴隷」「彼の女」にさせられてしまう。深みのある人物で卓越した演技がすばらしい。

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映画が作られた1950年と言えば、映画が興隆して演劇を脅かし始めたのだろう。「陰謀渦巻く演劇界の醜い内幕を描く」というのが映画版の視点で、ハリウッドとブロードウェイの対立が話を面白くした。一方、このホーヴェの演劇版は、映画に比べて、主人公のイヴを肯定的に捉えているように思えた。彼が演劇人だからだろうか。役を奪う前の駆け出し女優イヴの科白、「女優は舞台に立つ見返りに、客席から喝采を受けます、報酬はそれだけで十分、愛の波が押し寄せてくるのですから」がすばらしい。そう、これが本作のキーコンセプトだ。イヴは本物の大女優になるだろう。

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30秒ですが動画が、とても美しい舞台。

https://www.youtube.com/watch?v=0ulINtr-rVI