[オペラ] 藤倉大 《アルマゲドンの夢》

[オペラ] 藤倉大アルマゲドンの夢》 新国立劇場 11月18日

(写真↓は、ダンスパーティのシーン、その退廃した雰囲気に、私はリリアーナ・カヴァーニ『ナイト・ポーター』のナチス将校たちを一瞬思い出した)

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藤倉大は、2年前に東京芸術劇場で演奏会形式の《ソラリス》を観て以来、これが二つ目。ウェルズが1901年に書いた『世界最終戦争の夢』をオペラ化したものだが、台本作者のハリー・ロスが改作している。「アルマゲドン(ギリシア語の発音では「ハルマゲドン」)」とは、ヨハネ黙示録に出てくる、この世の終わりに行われる戦争のこと。ウェルズの原作では近未来のファシズム主導の戦争になっているが、1901年にはまだ存在しなかった戦闘機やミサイルが登場するのも凄いし、30年後に夢ではなく現実のものとなった歴史、すなわち独裁者ヒトラーやそれを熱狂的に支持するドイツの大衆が先取りして描かれている。「インスペクター」と呼ばれる女性が登場するが、彼女は思想検閲官で、たぶんゲシュタポ特高のような存在なのであろう。そして何よりも、ロス・藤倉による《アルマゲドンの夢》は現代を描いているのだ。「ジョンソン」と呼ばれる独裁者は、大衆を扇動する天才政治家であり、イギリス人作家であるロスは、ブレグジットを主導したボリス・ジョンソンを念頭において人物造形したらしい。(写真↓は、中央で演説している白い服が独裁者ジョンソン、大きな映像は、主人公のクーパーとベラ、その下は、大きな映像がジョンソン、「C」というマークは大衆もみな付けており、ナチスの鉤十字のようなものか)

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総合芸術作品としてのオペラという視点からは、本作は傑作だと思う。若い二人の恋人たちの甘い恋に伴走する美しい抒情的な旋律が、スーッと移行して、不協音によるファシズム台頭のさまざまなシーンの表現になってゆく、その自由自在な音の動きと広がりが素晴らしい。映像も、20世紀の戦争の実写フィルムとCGがうまく組み合わされている。とはいえ、そこに表現されている内容は、高度な政治性・思想性をもっているので、オペラを観ただけではよく分らない。台本作者のロス自らが書いたプログラムノートを読んで、私はやっと理解できた。全体の物語は、大衆を扇動するポピュリズムの独裁的政治家が大成功をおさめ、戦争の危機がすぐそこに迫っているにもかかわらず、リベラルなエリートたちは自分たちの優雅な生活を優先し、状況を傍観しているうちに、戦争は夢ではなく現実になり、政治は弾圧とむき出しの暴力になってしまった、というもので、体を張って闘わないリベラル・エリート(ヘタレ系左翼インテリ?)への批判が隠された主題なのだ。クーパーは終始傍観者的態度にとどまるが、ベラはファシズムへの戦いを意識し始める、という二人の落差が丁寧に表現されている。そして、「インスペクター」の他に「冷笑者」という名の人物が登場し、まっとうに政治的に戦う者を脇で冷笑するという、政治的無関心アレゴリーのようなキャラである。「サークル」という言葉が何度も登場するが、おそらくこれは「党」の隠語であろう。リベラル・インテリのベラも子供の頃はインスペクターと友人だったという複雑な過去を秘めている。誰が誰の敵なのか味方なのか、それがよく分らないのだが、ファシズムになると友人知人も複雑に引き裂かれて、こういう人間関係になるのかもしれない。結局、二人はレジスタンスに加わるわけでもなく、難民となって国外脱出するわけでもなく、まずベラが兵士に射殺され、少ししてクーパーも殺されて終幕。(写真↓は、地中海のカプリ島の豪華ホテルで愛を交すクーパーとベラ、その下は殺される少し前の二人、興奮した群衆の中にいる)

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 以上のような全体のテーマはなかなか分りにくいが、しかし音楽の細部はそれぞれの局面と心情を見事に表現している。ベラがクーパーと愛を交しながら歌う「自由のない愛って何なの?」、そしてベラの死後にクーパーが悔やんで歌う「最後の日々を、[僕たちは]言い争いで終わらせてしまった」は、とても心に響く。ロスによれば、扇動政治家が実際に演説でよく使う言葉をオペラでも独裁者に歌わせている、たとえば「Take Back Control, In This Together, For the Many not the Few」。扇動政治家の語りはリズミカルで音楽的なので、大衆に心地よく響く。それはオペラで表現するのに格好の材料でもあるのだ。クーパー、ベラ、インスペクター、冷笑者の関係は非常に微妙で、リブレットを見ないと完全には理解できないが、ポイントになる歌だけは、オペラを観るだけでも心に響く。そして、独裁者を熱狂的に支持する大衆の姿は、実在するトランプ支持者たちの熱狂と本当によく似ている。アルマゲドンは「夢」ではないのだ。(写真↓は、熱狂する大衆、私にはAIロボットのように感じられた、その下は、電車の中でも独裁者を讃える大衆)

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 5分間の映像。

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今日のうた (114)

[今日のうた] 10月ぶん

(挿絵↓は藤原定家百人一首で名高いが、古今集から新古今集までの八代集から好みの歌を選んだ『定家八代抄』もある、私の「今日のうた」では、『定家八代抄』から見つけた歌も多い)

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  • 切り株のうえに木があるように抱く 望まなくても夕暮れる空

 (椛沢知世「切り株の上」、『歌壇』2019年2月号、作者1988~は第30回歌壇賞次席、切り株を見るのは悲しい、どうしてもその上にあった木の姿を思い出してしまう、だからその幻の木をそっと抱いてみる、でも日が暮れてしまった) 10.1

 

 (押切寛子『歌壇』2018年2月号、氷見湾をめぐるクルーズ船の後を、ついてくるように飛んでいる「ゆりかもめ、カモメ、うみねこ」たち、よく似ているので私には区別がつかないが作者には分るのだ) 10.2

 

  • うつくしくアイロン台から立ちのぼる雲になることのない水蒸気

 (高山由樹子「灯台を遠く離れて」、『歌壇』2019年2月号、作者1979~は第30回歌壇賞受賞、たしかにアイロン台からのぼる水蒸気には独特の感じがある、「<雲になることのない水蒸気>という受け止め方に自分の生き方への問いかけがある」と三枝昂之氏評」) 10.3

 

  • 木犀の香にはたと會ふ夜道かな

 (鈴木康之、作者1934~は俳誌「海程」同人、モクセイは香りでまず知ることも多い、視覚にはないけれど、暗い「夜道ではたと會ふ」木犀のよい香り、我が家の金木犀も咲き出したので、二階の窓を開け、室内でも香りを楽しんでいる) 10.4

 

  • コスモスを離れし蝶に谿(たに)深し

 (水原秋櫻子『葛飾』1930、コスモスが美しい季節になった、でも、街中と山岳地域では感じがかなり違う、ふと花を離れた蝶の背後には深い谿がのぞいている)10.5

 

  • 秋の蝶きりぎしのもといそぎつつ

 (橋本多佳子1941、「北陸線親不知あたり」と詞書、停まれないので絶壁に沿って必死で飛んでいる「秋の蝶」、「いそぎつつ」と優美に詠んだ) 10.6

 

  • 秋夕映えの真顔ばかりが揺られをり

 (森澄雄1949、上京した翌年、「友人の温情により居を北大泉に得て移る、西武線車中」と詞書、西武線に乗っている勤め帰りの人たち、「真顔ばかりが揺られている」、みな疲れ切って暗い顔をしているのだろう、誰も談笑していない) 10.7

 

  • 人々やうなづきてきく秋時雨

 (水原秋櫻子、秋に入ってよく降る雨には、「時雨」と区別して「秋時雨」という季語がある、歳時記には書いていないが、秋雨前線を遠くの台風が刺激することも昔からあったはずだ、この句は「うなづきてきく」に味がある) 10.8

 

  • 抱き起す子のあたたかな宵の秋

 (飯田龍太1948、小さな子を抱いた時、親はまず何よりも子どもの体の「あたたかさ」を感じる、そのあたたかさはとても愛おしい、「秋の宵」ともなればとりわけ) 10.9

 

  • 秋風や書かねば言葉消えやすし

 (野見山朱鳥、心に浮かんだ俳句のことだろうか、パロールだけではだめでエクリにしないと消えてしまう、それを「秋風」に感じたというのが、さすが俳人) 10.10

 

  • 仏壇に両手を合わせ目を閉じる二十歳の彼女のファーストキス

 (片山正寛・男・52歳、『ダ・ヴィンチ』短歌欄、テーマは「キス」、「二十歳のファーストキスって遅めな気がする」と穂村弘評だが、そうなのかな、今の若者は恋愛体温が低いとも言うから、私はむしろ作者の年齢が気になる) 10.11

 

  • 小1に上がった甥がオレというオにアクセントは初心者マーク

 (小野寺清子・女・29歳、『ダ・ヴィンチ』短歌欄、テーマは「男子」、「わかりやすい男子らしさ、オにアクセントはオレの初心者マークって捉え方が鋭い」、と穂村弘評) 10.12

 

  • いつまでも お前を好きだと思うなよ 縄文時代の話をすんな

 (さこ・女・21歳、『ダ・ヴィンチ』短歌欄、テーマは「女子」、「男子と女子では時間の流れ方が違うんだ。男子は「いつまでも」好きと思いがち。まさか、縄文時代の話になっていたとは」、と穂村弘評) 10.13

 

  • どこにでもいける、からかな、ここにいる、遺構のごとき夜の鞦韆(しゅうせん)

 (石原健「東京新聞歌壇」10月11日、東直子選、コロナ禍でも、いろいろな場所へ行こうと思えば行けるようになったからこそ分ったのか、「遺構のごとき」夜の公園のブランコが、自分の一番好きな場所だったことが) 10.14

 

  • 僕ならばエリスを捨てたりしませんと令和の生徒は迷わずに言う

 (塩田直也「朝日歌壇」10月11日、馬場あき子選、『舞姫』の「主人公への気概に満ちた生徒の発言が爽やか」と選者評、もしこれが現代の男子の標準的な感性(読後感)だとしたら、日本もずいぶんまともな時代になったと言えるのだが) 10.15

 

  • 露の世と思ひ逆らはざることに

 (今村征一「朝日俳壇」10月11日、選者二人が採った句、「「露の世は露の世ながらさりながら」一茶、やはり逆らわざるべきか」長谷川櫂評、「露のようにはかないこの世、せめて天寿を全うしたい」大串章評、だが「運命に逆らわない」とはどういうことか難しい) 10.16

 

  • ゆつくりと言葉さがして林檎剥く

 (戸田鮎子「東京新聞俳壇」石田郷子選、作者は、何か怒ることがあって、怒りを鎮めようとしているのだろうか、だから林檎を剥きながら「言葉をさがしている」のか、「りんご」は秋の季語) 10.17

 

  • 秋深き隣は何をする人ぞ

 (芭蕉1694、芭蕉の死去は10月12日、最期の句「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」は10月9日、その一つ前の句がこれ、たぶん数日前だろう、大阪泊りの芭蕉は「隣の人」に面識はない、物音一つしない隣家、その深い静寂に、人生の究極の孤独が) 10.18

 

  • 落穂拾ひ日あたる方(かた)へあゆみ行(ゆく)

 (蕪村1773、稲を刈り取った後の寂しい田んぼ、農夫が一人深くかがみ込んで、落穂をたんねんに拾っている、そのゆっくりとした動きが、向こうの日の当たっている明るい場所に少しずつ近づいてゆく) 10.21

 

  • また人にかけ抜かれけり秋の暮

 (一茶1806、一茶は44歳、定職もなく貧乏で結婚もまだ、人生の「勝ち組」とは言えない、そのことがつねに意識にあったのだろう、たまたま道で誰かに追い越されても、ビクッとして、いじけてしまう) 10.22

 

  • 秋はただ夕(ゆふべ)の雲のけしきこそその事となく眺められけり

 (式子内親王、「秋といえば、夕暮れの雲の様子がいちばん美しい、特にどこがどうということがなくて眺められるから」、ある注釈によれば、「夕べの雲」には「火葬の煙」のイメージもあるという) 10.23

 

  • 数ならぬ心のとがになしはてじ知らせてこそは身をも恨みめ

 (西行法師『新古今』、「貴女を愛してしまったことを、ものの数に入らぬ愚かな自分の心の過ちとは思いません、こうして貴女に告白します、そうしてこそ、たとえこの恋が叶わなかったとしても自分を恨むことができます」、やっと告白を決意) 10.24

 

  • 新小田(あらをだ)をあら鋤(す)き返し返しても人の心を見てこそやまめ

 (よみ人しらず『古今集』巻15、「なかなか心を開いてくれない貴女よ、僕は、荒れ地を新たに開墾した固い田を、何度も何度も力いっぱい鋤き返すように、貴女の心に訴えます、それでも心を開いてくれないのなら、諦めましょう」) 10.25

 

  • ねもころに片思(かたもひ)すれかこのころの我が心どの生けりともなき

 (よみ人しらず『万葉集』巻11、「いつもいつもひたすら貴方に片想いしているからでしょうか、ああ、もうこの頃の私の心は、とても自分が生きている感じがしません」) 10.26

 

  • 人形は淡く微笑む抱かれたら抱かれたままに歪む体で

 (道券はな『角川短歌』2020年11月、作者1993~は第66回角川短歌賞受賞、彼氏と一緒に人形展に行き、見ているうちに生身の自分の体が人形のように思えてきた、その倒錯を詠んだ面白い一連の歌が並ぶ、この歌も自分に擬しているのか) 10.27

 

  • 容量を超えないように人間をえらびえらばれ付き合ってゆく

 (廣間菜月『角川短歌』2020年11月、第66回角川短歌賞佳作、作者2000~は大学生、失恋したあと、しばらくして新しい彼氏ができた、彼もまた失恋した後らしい、「似た者同士」慎重に付き合おうねと、静かな恋が始まる) 10.28

 

  • 真っ直ぐに伸びる飛行機雲がある 窓を見ながらユズは吹いてる

 (折田日々希『角川短歌』2020年11月、第66回角川短歌賞佳作、作者2000~の高校時代、吹奏楽部の合宿で全員が熱心に練習に明け暮れる、作者はサックスを吹き、女生徒「ユズ」もすぐ横で吹いている) 10.29

 

  • トルコからシリアに向かう検問の事務所にかかるルノワールの絵

 (田中翠香『角川短歌』2020年11月、作者1993~は第66回角川短歌賞受賞、シリアを取材したジャーナリストの目になって、内戦の街を詠む、空爆で女も子供もたくさん殺されているのに、まったく場違いな絵が検問所に) 10.30

 

  • いかづちを召せる神奈備(かむなび) 雲(クラウド)にpetabyteよぶ銀のデヴァイス

 (小早川翠『角川短歌』2020年11月、第66回角川短歌賞佳作、作者1985~はIT技術者か、日本神話と最先端のコンピュータ技術が重なる、「神奈備」は神の座す山や森、「petabyte」は1024テラバイト、「デヴァイス」はコンピュータ機器) 10.31

 

[演劇] 大池容子作、うさぎストライプ『あたらしい朝』

[演劇] 大池容子作、うさぎストライプ『あたらしい朝』 アトリエ春風舎 10月28日

(写真は↓、スケッチブックを掲げてヒッチハイクする女を車内から見つけた主人公たち、その下は、ドライブする若い夫婦、二人に愛はあるのだが、何となくすれ違いがち)

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大池容子の作品は、『バージン・ブルース』『空想科学Ⅱ』『ハイライト』と見てきたが、どれも傑作。本作は、コロナ禍でも何とか演劇を再開しようと、急いで書かれたのだろう。全50分の小品だが、『ハイライト』とよく似た、いかにも大池らしい作品だ。夫婦や恋人であっても、愛のテンションがあがらずに、どこか寂しさをかかえている若者たち。本作では、それがぐっと前景化している。隣席に妻を乗せてドライブしている夫は、最近、妻の心が少しずつ離れていくように感じているが、今日たまたま、寂しい道端でヒッチハイクを求めて立っている女を妻が見つけ、絶対に乗せようと言うので、いやいやながら乗せてしまう。その女は妻と同じ27歳で、同じ東京・深川出身であることが分り、二人は急速に親しくなって、二人だけで旅行することになる。隣席の夫のことを妻は、「この人は運転手だから、いない人物と考えていいのよ」と言い、夫の存在は無視される。そして妻と女は旅行に行った途端、時間と空間がワープして、気が付くと、いつの間にか夫も含めた三人がイタリアに向かう航空機に乗っている↓。

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大池の劇作はすべて、時空をワープさせてシュールな場に恋人たちを投げ込むが、本作は短いながら、それが巧みに設定されている。イタリア見物するうちに、別の女や男がバスの車内に乗り込んできて、これは夢なのか現実なのか、本当にイタリアに来ているのかどうかも怪しくなってしまう(写真下↓)。しかしその過程で、妻もまた大きな寂しさを抱えていること、最初にヒッチハイクで車に乗り込んできた女は、妻の母の若い時の幻影だったらしいこと(妻と母は仲が悪かったので和解したいのか)、そして、新しく現われた男も孤独で寂しさを抱えていること、などが分かってくる。そう、誰もが、愛のテンションの低さに、どこか満たされない思いがあって、明るく振る舞ってはいても、孤独を内包しているのだ。本作では、彼らがペストマスク(中世のペスト禍のとき、治療する医師が被った鳥の顔の形のマスク)を被っているシーンが何回かある(↓)。おそらくこれは、眼前にいる他者との絆が断たれていることの象徴なのだろう(死者の比喩?)。そしてもちろんコロナ禍においても。

 しかし一方では、誰もが、自分たちのすっかり小さくなってしまった愛の炎を、消えてしまわないように、何とか大切に盛り立てようとしている。そして、彼らはまた新しいドライブへと出発する「あたらしい朝」で終幕。現代の若者の恋は、ブロンテ姉妹が描いたような激しく燃え上がる炎ではなく、ちいさな蝋燭の炎が何とか消えずにいるようなもので、しかしそれでも恋人たちは、その小さな炎を消さないように、必死に盛り立てようとあがいている。それは少し悲しいけれど、見えないくらい小さな宝石がそれでもキラリと光るように、どこまでも美しく、愛おしい。 それをシュールな不条理劇の姿で描くのが、大池の劇の魅力だと思う。

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[美術展] ホキ美術館「森本草介展」ほか

[美術展] ホキ美術館「森本草介展」ほか 千葉市 10月23日

(写真↓は、森本草介の「光の方へ」と「休日」、彼の描く女性は気品があって美しい)

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写実の絵のみを展示するホキ美術館へ行った。森本草介の代表作が展示されているほか、「第3回ホキ美術館大賞展」として、40歳以下の新人の作品21点が展示。私は下の三点↓が印象に残った。一番上は、2000年生まれの中西優多朗「次の音」。この少年の「少年らしさ」がすばらしい。子供の可愛らしさからすっと抜けだして「少年になる」とは、こういうことなのだろう。その下の二枚は女性画家によるもので、まず、1990年生まれの松永瑠利子「寝室」。普通は、森本草介に典型的なように、女性の肌はとても滑らかで光をやわらかに受けている感じに描かれることが多いが、この女性はまったく違う。まず毛深い! 全身脱毛美容など無縁。肌は黒っぽく、ざらざら、ごつごつした感じで、いわゆる「荒れた肌」。にもかかわらず、全体としての彼女は、野性的で、精悍で、美しい。一番下は、1986年生まれの本木ひかり「光をおとす」。美しく洗練された肉体というよりは「素としての」肉体の存在感そのものが魅力になっている。この二人の絵は、女性の肉体に何を見るのかという点で、森本とは大きく違っている。

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あと、新人ではないが、諏訪敦「しろたえ」↓が印象深かった。顔に傷があるように見えるのだが、何なのか分からない。まだ絵が完成せずに、描いている途中のようにも見える。作者の解説によると、画家自身が自分の「盲点を解除する」営みを描いたという。つまり、どんなものを見ても、人はすべてが完全に見えているわけではなく、見ているつもりでも、実は見えていない「盲点」がたくさんある。それを一つ一つ解除しながら、画家は絵を完成させてゆくのだという。とすれば、われわれが眼前に女性を見る場合でも、「盲点」がたくさんあるはずだ。なるほど、絵というものは面白い。

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[演劇] プルカレーテ演出・野田版『真夏の夜の夢』

[演劇] プルカレーテ演出・野田版『真夏の夜の夢』 東京芸術劇場 10月21日

(写真↓は、今回の舞台と、その下は1992年初演の野田演出の舞台)

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シェイクスピアの原作を野田秀樹が改作し、それをルーマニアのプルカレーテが演出。野田版は、『夏夢』の物語をかなり変え、(1)場を日本にして、アテナイ公爵シーシアスとヒポリタとの結婚話をカットしたので、「結婚を寿ぐ」という全体の主旨がやや薄くなった、(2)代りに「恋とは魔法にかかること」という主題が前景化された、(3)妖精パックの他にメフィストという魔術師を造形し、魔法を活躍させた、(4)ヘレナの孤独を強調した。

 演出のプルカレーテはこれまで『ルル』と『オイディプス』を見たことがあるが、人間のグロテスクな肉体を強調し、しかしそこから高貴な美が一瞬立ち昇る素晴らしさがある。そして魔術師の活躍も野田版と親和的だ。今回の舞台は、CG映像が、妖精の国や魔法を現代アート的に表現する。(写真↓は、パックとメフィスト、下は、妖精の女王ティタニアがボトムを可愛がるところ、ボトムはロバではなく腹に顔が移った怪物的な人物)

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全体として、四人の若者たち(ハーミアとライサンダー、ヘレナとディミトリアス)の恋のもつれに焦点が当てられている。四人を老舗の割烹料理店の跡取り娘や板前などにして、店に出入りする業者たちを原作の劇中劇の職人たちに相当させて、うまく物語をまとめた。ヘレナ(鈴木杏)とハーミア(北乃きい)がとても可愛く、背の高低の問題や(ヘレナがのっぽで、ハーミアはちび)、二人の科白などは、原作に割と忠実に従っている。また、ヘレナの孤独を強調する際に、(原作にはない)男たちの同性愛的な関係が仄めかされるなど、ジェンダー的にも話が面白くなっている。(写真↓は、ヘレナ、下がハーミア、その下がディミトリアスライサンダー)

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『夏夢』の妖精の国をいわば強化して、魔法を活躍させたのは、野田の改作の成功といえる。美しい若者たちや妖精が舞台を楽しそうに走り回るのも、いかにも野田演劇的で、そもそも『夏夢』そのものが野田的な作品なのかもしれない。(写真↓は、職人たちの劇中劇)

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