今日の絵(5)  3月後半

[今日の絵5]  3月後半

16 Hans Holbein : Unknown Young Man at his Office Desk, 1541

ホルバイン(1497~1543)はドイツ生まれだがイングランドで宮廷画家となる。エラスムス、トマス・モア、ヘンリー8世の肖像や「大使たち」などで名高い。これは普通の市民だが彼の他の絵と同様、堂々とした風格がある

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17 Rubens : Portrait of Clara Serena Rubens, 1618

ルーベンス(1577~1640)の5才の娘、ルーベンスはオランダの宮廷画家だが七か国語を操る外交官でもあり、各国の要人から肖像の依頼が殺到した、たくさんの弟子を使った大規模な工房システムを運営、家族を大切にした人で、二人の息子の絵もあり、幸福感に溢れる子供や女性の絵は素晴らしい

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18 Renoir : Aline Charigot (future Madame Renoir), 1885

モデルはルノワールの将来の妻アリーヌ・シャリゴ(この時25歳)、家庭的な女性で、画家がモデルに選ぶからには美女なのだろうが、そんな表面的なことではなく、ルノアールは彼女という「人間の根源的な存在の美しさ」(野田弘志)を描いており、彼女への愛情が絵に感じられる

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19 Lilla Cabot Perry : Reading

アメリカの画家ペリー(1848~1933)は「読書」の絵を幾つも描いているが、これは画集を見ているようだ、ペリーは家族や友人知人の絵をたくさん描いているが、どの絵も、そこに描かれた人への敬意と愛情を感じさせる

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20 Frank W Benson : My Sister, 1885

ベンソン(1862~1951)はアメリカの画家、パリに留学して印象派の影響を受けた、この「妹」は22~3歳の作だから、まだ少女だろう、モデルにされて緊張しているのか、兄の視線を強く意識しながら兄を見返しているその眼差しが印象的だ、フェルメールの影響もあるか

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21 Cezanne : Madame Cezanne with Unbound Hair, 1887

1869年にセザンヌは、当時19歳のモデル、オルタンス・フィケと出会い、父には内緒で同棲を始めた、彼女はのちのセザンヌ夫人、彼女と出会ってからはそれまで少なかった女性の絵が増えた、夫人の絵はどれも、独特の卵型の顔が印象的だが、表情がやや暗い、でも眼を見ると彼女の美しさがわかる

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22野田弘志 : 崇高なるもの(ギトリス)、2018

イスラエルのヴァイオリニスト、イヴリー・ギトリス、何度も来日している人。ヴァイオリンという楽器は、握る指、支える手、置く肩など身体を含めて楽器となって音が出る、だからこの絵も、指、手、肩と・・・ヴァイオリニストの身体そのものが描かれている

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23河野桂一郎:My No.6, 2020

私はこの絵を、2020年12月25日に三越の白日会展で見た。河野桂一郎1966~は写実の画家、自分の娘だろうか、モデルにされて少し緊張しているのだろう、この絵には、描く対象への画家の愛情が溢れている

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24塩谷亮 : 夏雲2016

塩谷亮1975~は写実の画家で、「家族や知り合いの少年少女の成長を、継続的に描いていきたい」と言っている、彼の絵は、描かれた人物の表情に繊細な優しさがあり、子どもは未完ではなく成長のそれぞれの段階に応じた完全現実態にあるのを感じさせる

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25森本草介 : 未来、2011

2011年3月11日の地震で、千葉にある画家のアトリエも大打撃を受け、描きかけの絵は損傷、傷が少なかったこの絵を完成させた、画家の絵の共通テーマは「生きる喜び」なので、本作は「未来」と命名、ベージュ色を基調に淡いブルーのブラウス姿の女性が美しい

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26 Pietro Perugino : Portrait of a young man, 1495

ペルジーノ(1448頃~1523)は、若きラファエロの師でもあった。これは少年だが、上品で優美な感じは、若きラファエロが描いた自画像とも共通する

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27 Diego Velázquez : Young Peasant Girl, 1650

マネ以降の絵のようにも見えるがヴェラスケスの描いた「農民の少女」、絵筆の粗いタッチなのに「村娘っぽさ」が表現されている、マネはスペインに行ってヴェラスケスに大きな影響を受けたので、このような絵はマネの画風と関係があるかもしれない

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28 Monet : Jean-Pierre Hoschede, called 'Bebe Jean', 1878

モネは1892年に、後援者だった百貨店王エルネスト・オシュデの前妻アリスと再婚した。オシュデ家とモネ家はずっと昔から親交があり、アリスの息子のジャン=ピエールはモネとの子と言われており、2歳頃か。絵筆のタッチの数は少ないが、子ども表情はよく分る

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29 Renoir : A Girl, 1885

この時期のルノアールは、新古典派のアングルの影響で、はっきりした形態、硬い輪郭線、冷たい色調などが見られる、この「少女」も、他の時期の多くの「少女」とはやや違って、ふっくらとした暖かい感じは少ない

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30 Perry : La Petite Angèle, II, 1889

ペリーはフランスで学んだアメリカの画家で、彼女の三人の娘の一人と思われる(9歳の次女Edith?)、この絵は人物とともに窓の外の風景を描いた彼女の新画風の絵といわれる、窓辺に置かれた鉢の花の色も美しい

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31 Berthe Morisot : Young Girl with a Bird, 1891

ベルト・モリゾはマネの弟の妻、家族や知人の絵をたくさん描いており、女性や少女たちの静かな気品が美しい、小鳥を見ているこの少女は娘のジュリー(14才)と思われる、小鳥が彼女に話しかけているのを聞いているのか

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[演劇] マキノノゾミ『昭和虞美人草』

[演劇] マキノノゾミ『昭和虞美人草』 文学座アトリエ 3月18日

(写真は舞台、甲野家の立派な書斎、しかし息子たちは遊び人タイプで、ヒッピーのような格好をし、まじめな就職もせず、手作りのロック雑誌を刊行している)

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マキノノゾミ漱石の『虞美人草』を翻案して、1973年の若者たちに置き換えた。演劇としては非常に面白く、上演は成功だが、マキノが、漱石の『虞美人草』の一番悪い所に共感して、それを前景化したことに驚かされた。私は、主人公のぶっ飛んだ女「藤尾」が大好きなので、漱石ミソジニーや、その古風で倫理的な恋愛観にまったく共感できない。宗近が、藤尾と小野の結婚を「間違っている」と倫理的に捉え、小野にお説教して藤尾と別れさせるシーンは、『虞美人草』のクライマックスなのだが、私はまったく共感できず、馬鹿野郎、余計なおせっかいをするな!と怒りを感じた。そもそも男女の愛というのは、本人たちにしか分らない要素で成り立っているのだから、他人がその善悪をいうことはできない。まして恋愛を倫理的な視点で捉えるのはもっての他で、この点で『虞美人草』における漱石の女性観あるいは恋愛観は、まったく話にならないほどくだらないと思う。藤尾の兄の甲野欽吾は、藤尾は「飛び上がりもの」「はね返りもの」だからダメだという。それは、そういう女を欽吾が嫌いだというだけで、そういう女こそ好きになる男はいくらでもいる。漱石は藤尾をこう描いている、「藤尾は男をもてあそぶ。一豪も男からもてあそばるる事を許さぬ。藤尾は愛の女王である。成り立つものは原則をはずれた恋でなければならない。愛される事を専門にするものと、愛する事のみを念頭に置くものとが・・・行きあったとき、この変則の愛は成就する。・・・我の強い藤尾は恋をするために我のない小野さんを選んだ。・・・小野さんは夢にだもわれ[=藤尾]をもてあそぶの意志なくして、わが[=藤尾の]おもちゃとなるを栄誉と思う」(旧版岩波文庫p190f.) 藤尾と小野の関係は典型的なサド/マゾ関係であり、サド/マゾ恋愛は、「原則をはずれた恋」どころか、恋愛に不可避的に含まれる要素だと私は思う。ただしそれぞれの恋愛によってその度合いは様々だから、それは好みの違いというべきである。「まちがった」恋などではない。漱石はそれが全然分っていない。藤尾と小野の恋において、二人はそれぞれが自分の役割に大いなる快楽と喜びを感じているはずである。素晴らしい恋であり、二人はよい夫婦になるだろう。それなのになぜ、漱石や宗近や欽吾は、二人を引き離そうとするのだろうか。恋というのは二人がよければそれでよいのであり、外野がとやかく言うべきではないのに。(写真↓は、上の右が藤尾、下は小野(右)に説教する宗近(中央))

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マキノ版『昭和虞美人草』で驚かされるのは、マキノ自身が漱石の恋愛観女性観に共感しているようにみえることである。しかし、60年代後半から現われたロック音楽を愛する若者たちはカウンターカルチャーの若者であり、手作りのロック雑誌の刊行に励む本作の主人公たちが、漱石のような古い女性観に立っているとは思えない。だから宗近が、「ロック音楽の魂は、まじめさにある」と言って、「あそび」の側に立つ藤尾と小野を非難するのは、まったくおかしい。私はロック音楽を良く知らないが、「ロック音楽の魂」はもっとアナーキーなもので「遊び」の快楽そのものなのではないか、それはむしろ藤尾の側にあるのではないだろうか? 藤尾は「我の[強い]女」で「虚栄の女」だからダメだと漱石は言う。でも、恋愛の本質はむしろ「我執」と「虚栄」にあるのではないだろうか(九鬼周造『いきの構造』はそう言っている)。女が「我」と「虚栄」の塊であって何が悪いのだろうか。そういう女こそ、「いい女」なのではないだろうか。私は漱石にもマキノにもまったく共感できない。(写真下は、左から小野、藤尾、小夜子)

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[演劇] ケストナー『雪の中の三人』

[演劇] ケストナー『雪の中の三人』 小山ゆうな演出 俳優座稽古場 3月16日

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俳優座公演、台本は演出の小山が新しく新訳・構成。ドイツ語の三つの台本を比較しつつ、原作に近いものにしたという。ケストナーは二年前に田中麻衣子演出『どうぶつ会議』を見たが、本作もよく似ている。ナチス政権成立の翌年1934年の作だから、根底は政治批判なのだが、『どうぶつ会議』と同じく、大人vs子どもという構図で問題を提示している。大人は、すでに利害関係の文脈にからめとられて、その文脈で形成された自分の役割を忠実に果たそうと毎日を生きている。子どもは、まだ利害関係の文脈にからめとれていないので、自分のアイデンティティを利害関係の文脈に決定されることなく、そこから自由に生きている。本作では、大富豪の社長が身分を隠し貧乏人の格好をして、ドイツ高地の最高級リゾートホテルに10日ほど泊まる。ちょうどそのホテルには、懸賞当選のプレゼントとして、大学出の博士だが就職先がないとても貧乏な青年も同時に宿泊する。ホテル側がその青年を隠れ富豪と間違えてしまったので、滑稽なドタバタ騒ぎが生じる。しかし大騒動の挙句、青年は相手を隠れ富豪とは知らないままに、二人の間にすばらしい友情が生れる。隠れ富豪にこっそり随伴する召使も、沈黙という命じられた役割を破って、貧乏な青年を助ける。つまり、この三人は社会における普通の大人のように、自分に与えられた役割を忠実に果たすのではなく、それを無視する子どもなのだ。三人が子どものようにはしゃぎながら、ホテルの庭で雪だるまを作るのが「雪の中の三人」というタイトルの意味。ただ、本作では雪だるまを作る必然性がよく分らないので(子どものメタファーが雪だるま? コクトー恐るべき子供たち』でも雪合戦があった)、ナチスに執筆を禁じられていたケストナーが最初に偽名で発表した『いつまでも子供』というタイトルの方が、よかったように思う。与えられた自分の役割を忠実に果たすしかない大人と、「役割を果たさない子どものように自由な大人」との対比が主題だから、ある意味ではディドロ『ラモーの甥』にも通じる話だ。何も考えず自分の役割を淡々と果たす大人が、まさかアイヒマンに繋がるとは思いもよらないとしても、ケストナーの作品は、批評性が高いのにお説教っぽくならず、芸術としての完成度が高い。

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小山ゆうなは舞台をスタイリッシュに作る人なので、この上演も、歌や踊りがたっぷり入って、衣服も素敵で、シンプルながら楽しく美しい舞台になっている。ごく一断面なのに、この時期のヨーロッパの上流階級の雰囲気が感じられ、私はマン『魔の山』やヘンリー・ジェイムズ『デイジー・ミラー』を思い出した。ドイツ文学によく出てくる、スイスあたりの高級リゾートホテルに泊まる人たちには独特の雰囲気があるのだろう。あと、現代の日本人はほとんど感じなくなったが、紳士淑女のキリっとした「洋装」は、魅力的な何かがある。おそらく初期の「新劇」の魅力の一つはそこにあったのかもしれない。この上演は、それをチラっと感じさせた。また、森一を始めとして俳優座の中高年俳優たちの上手いこと! 眼前に表現される人間の美しさが、演劇と、映画やTVドラマとでは、まったく違うことがよく分る。演劇は美男美女を見せる必要はないのだよね。ギリシア悲劇も能も仮面だ。

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今日の絵(4) 3月前半

[今日の絵4] 3月前半

3.1 Sandro Botticelli : Self Portrait, 1475

大きな絵の一部だが、ボッティチェリ(c.1445~1510)の自画像と言われている、30歳前の美しい青年だ、眼など強いものを感じさせる

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2 Raffaello : Self Portrait, c.1505

ラファエロ(1483~1520)の20歳少し過ぎ頃の自画像、美しい青年だが、どこか女性的で優美な感じがする

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3 Dominique Ingles : Autoportrait, 1804

フランスの新古典主義の画家アングル(1780~1867)、24歳のときの自画像、美しい青年だが、やはり眼などに強いもののを感じさせる

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4 Pablo Picasso:Self-Portrait, 1896

ピカソ(1881~1973)15歳のときの自画像、後年の画風とは違うが、この年でこれだけのものを描くのは、やはり天才

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5 Zinaida Serebriakova : Self-portrait, 1911

ジナイーダ・セレブリャコワ(1884~1967)は、ロシアの印象派画家、26歳のときの自画像、姿勢や光りの当て方など工夫している

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6渡抜亮 : 照らされた影、2010

綿抜亮1981~は写実の画家、ドイツのドレスデンファン・エイクの祭壇画などを模写して学んだ人、「照らされた影」というタイトルは、ヘーゲルの著作から採ったという、今日からの4枚の絵、女性のがどう描かれているかが興味深い、たぶん人物画のは非常に重要なのだ

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7小尾修:雫、2021

私は今年の2月17日に茅場町のGallery Suchi「水と油―小尾修・永山裕子 二人展」でこの画を見た、横顔、黒髪と手指の流れ、腹部から腰への流れなど、とても美しい、小尾修(1965~)は写実の画家、白日会会員

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8 生島浩 : 月虹、2012

生島浩1958~は写実の画家、ヨーロッパで長くフェルメールの模写など研鑽を積んだ人、生島の絵はどれも人間の肌が際立って美しい、手、肩、顔で形成される姿勢の美しさ、全体の配色が作り出す落ち着いた気品

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10 中山忠彦 : 幻裳(げんしょう)、1985

中山忠彦1935~は、森本草介野田弘志と並んで戦後の写実絵画を領導した一人、1963年に写生旅行で出逢った若林良枝と65年に結婚し、以後はほぼ妻だけを描き続けた、女性は裸体よりも衣服姿の方が美しいという考えで、ヨーロッパのアンティークドレスを苦労して収集

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11 Fra Angelico : Head of an Angel,1445~50

祭壇画の一部、「フラ・アンジェリコ」(1393頃~1455)は通称で、「天使のような修道士」という意味、彼の人柄を言っているのだろうが、彼の描く天使はとても優しい、その顔を見ていると癒される

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12 Filippo Lippi : 聖ベルナルドに現われた聖母、c.1486

リッピ(1406~69)は修道士だった50歳頃に23歳の美人修道女を誘い出して自宅で同棲、修道院を追放されたがパトロンのメジチ家のとりなしで教皇が還俗を認め彼女と結婚、彼の描く女性や天使は特有の美しさがあり、この絵も聖母の後にいる天使たちが美しい

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13 Raffaello : Madonna(detail), 1512

ラファエロ晩年の大作『システィーナの聖母』の一部、マリアの足元にいる二人の天使はとてもかわいい、フィリポ・リッピの描く天使はみな美少年だが、こちらは幼児だろうか

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14 Tiziano Vecellio : Flora, 1515

「フローラ」はローマ神話で花と春と豊饒の女神、彼女の優美で豊饒な美しさ、ぱっちりした目は「ウルビノのヴィーナス」とも似ている、ともにウフィツィ美術館で人気の作品

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15 Johannes Vermeer : Saint Praxedis, c.1659

フェルメール最初期の真作と言われているが、描かれているのは日常の人物ではない、古代ローマ時代の殉教者の血を海綿に沁み込ませ、それを聖プラクセディスと呼ばれる女性が絞っている、この絵が1943年にニューヨークの小さなオークションで見つかるまで来歴不明

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[演劇] 井上ひさし『日本人のへそ』

[演劇] 井上ひさし『日本人のへそ』 こまつ座紀伊國屋サザンH 3月10日

(写真↓は第2幕、純粋の演劇の部分、ミュージカル構成による第1幕の劇中劇を受けて、その劇中の物語が実在世界へと転換している、代議士宅の応接間)

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ひょっこりひょうたん島』で放送作家として知られていた井上ひさしの演劇初デビュー作品(1969初演)。第1幕はミュージカル構成で、東北の山奥のイモ娘が集団就職で上京、場末のストリップ劇場でストリップ嬢になり、右翼青年の彼女から代議士の二号夫人に昇りつめるまでの物語が、面白おかしく歌と踊りで表現されている。ところが実はこれは劇中劇で、吃音を治療するための音楽療法として、役者は全員が吃音症に悩む「患者」たちであり、怪しい「教授」の指導でミュージカルが上演される。なぜミュージカルかと言えば、歌を歌ったり、実の自分とは異なる虚構の人物として話す場合には、どもらないという理論がああって、それを実践しているわけだ。井上ひさし自身が吃音症だったという体験と、岩手県から上京し岩手弁と標準語で話すことの二重性に悩んだことが、この戯曲の下敷きになっている。劇を演じることによって吃音を直すという発想が、とても斬新だ。だから岩手弁のイモ娘というのはあくまで虚構で、演じるのはアメリカ人ハーフのヘレン天津という女性で、まったくイモ娘ではない小池栄子が演じているのが面白い。TVのある場面を報道していたら、突然どもってしまったという女性アナウンサーも、ミュージカルに参加して治療を受けるが、こちらは元宝塚スターの朝海ひかるが演じている。準主人公の会社員を演じているのは井上芳雄だから、やぼったく見える「どもり」をそうは見えない美男美女に演じさせている。(写真↓は第1幕、上は、イモ娘と東大出エリート会社員を演じる小池と井上、下は、同じくストリップ嬢とチンピラヤクザを演じる二人)

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第1幕のミュージカル部分はとてもいい。チープなストリップ劇場で、みな明るく楽しく踊っているのだが、どこかもの悲しく、人々の愛おしい感じがよく出ている。井上ひさし自身が最初はストリップ劇場で働き、ストリップ台本や一緒に上演するコントなどを書いていたことが、この作品が生まれた背景にある。私は唐十郎を思い出した。唐もストリップ役者出身で、どうしようもなく猥雑なものから高貴な美がスッと立ち現れるのが彼の演劇の魅力だが、井上のこのミュージカルからも、私は似たものを感じた。しかし、である。第2幕はどうなのだろうか。完全な演劇仕立てで、劇中劇という第1幕の場面が代議士の家という実在の場面に代わっている。しかし最後にドンデン返しがあり、実はそれも演劇として演じられていたことが明らかになる。それが虚構であった理由は、代議士の後援者であった右翼の大物を刺した犯人をあぶりだすために、皆が演技していたというわけ。つまり全体が、三重のメタ・シアター構造になっている。最初から全体がミステリー劇ならそれはそれで良いのだろうが、「どもり」を治そうと歌って踊る人たちの愛おしさが溢れる第1幕とは、主題的にあまり繋がらないようにも思える。いや、ゲイやレズビアンを「演じる」のは他者として話すから吃音の矯正になる、という繋がりなのか。(写真↓は第2幕、代議士の二号夫人になったイモ娘とその家の秘書を演じる、小池と朝海)

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