今日の絵(11) 6月後半

[今日の絵] 6月後半

18 Tiziano : Venus and Adonis, 1554
「ヴィーナスとアドニス」は人気テーマ、美女と美少年を一緒に描けるからか、二人の女神ヴィーナスとペルセポネが取り合った美少年アドニスは、裁判所の命令で、二人の所にそれぞれ4か月づつ過ごすことに決まった、相思相愛というよりヴィーナスの一方的な愛か

f:id:charis:20210627032117j:plain

19 Paris Bordone : Venus and Adonis, 1560

パリス・ボルドーネ1500~1571は、ベネチア派の画家で、ティツィアーノの弟子だったが不仲だった、ヴィーナスがペルセポネに預けた箱に入っていたのは、幼児のアドニスだから、ヴィーナスはアドニスよりずっと年長だが、この絵ではまるで同世代の恋人同士にみえる

f:id:charis:20051107124817j:plain

20 Annibale Carrachi : Venus and Adonis, 1595

アンニーバレ・カラッチ1560~1609は、バロック期のイタリアの画家、アドニスは狩猟が好きでいつも猟犬を連れている、この絵は、猟に行こうとするアドニスをヴィーナスが心配そうに見ているところか、結局、ひ弱なアドニスは狩でイノシシに殺される

f:id:charis:20210627032228j:plain

21 Rubens : Venus und Adonis, 1635

ルーベンスのこの絵では、ヴィーナスは白き輝き、狩に行こうとするアドニスを、ヴィーナスと子のクピドが必死に止めている、アドニスは顔はあどけない少年なのに、体はマッチョで、やけに逞しい、美少年にはマッチョの身体は似合わないと思うのだが

f:id:charis:20210627032255j:plain

22 Rubens : the death of Adonis, 1614

昨日と同じルーベンス、ヴィーナスはアドニスを溺愛し、一年の三分の一を一緒に過ごす約束を守らなかった、怒ったペルセポネはヴィーナスの愛人アレスに訴え、アレスは凶暴な猪を野に放ち、その猪にアドニスは殺された、この絵でも、ヴィーナスもアドニスも肉体が逞しい

f:id:charis:20210627032354j:plain

23 Haarlem : Venus und Adonis, 1614

ファン・ハーレム1562~1638はオランダの画家、人物を生き生きと動的に描く人、この絵も、ヴィーナスは女神っぽくない、アネゴ肌の逞しいねえちゃんが、年少の彼氏の肩を「ネエ、坊や」と抱いている、ヴィーナスは、男をつかまえる大きな手をもった肉食系女子なのだ

f:id:charis:20210627032418j:plain

24 高橋由一: 自画像、1867

高橋由一1828~94は、日本人の最初の本格的洋画家といわれる、幼少から画に秀で、幕府の蕃書調所の絵図調方に勤めた、1866年にイギリス人画家ワーグマンを知り師事する、この自画像はその直後だから、一気に洋画法を学んだことになる、表情がとても鋭く描かれている

f:id:charis:20111121104246j:plain

25 五姓田義松: 自画像、1868

ごせだよしまつ1855~1915は、幕末~明治期の画家五姓田芳柳の二男で、明治初期から活躍した洋画家、この自画像は13歳の時のもの、すごい才能を感じさせる、昨日の高橋由一の自画像の一年後だ、1880年には渡仏し、サロン・ド・パリの日本人初の入選者となった

f:id:charis:20210627032518j:plain

26 青木繁: 自画像、1904

青木1882~1911の東京美術学校卒業制作、左下には「かつて東京美術学校に在るの日、青木生」とある、「かつて」とあるのは未来の傑出した画家としての自分を意識しているのだろう、その表情は、自信のようにも不安のようにも見える

f:id:charis:20210627032557j:plain

27 中村彝(つね): 帽子を被る自画像、1910

中村1887~1924が、当時の美術団体である太平洋画会研究所に通い、油絵を学んでいる頃の作品、前年に入手したレンブラント画集に傾倒し、その画法を貪欲に摂取しようとした、レンブラントと同様に人物の内面がよく描かれているが、その内面は、自信よりは不安に見える

f:id:charis:20210627032626j:plain

28 森本草介 : ひかり、2008

森本草介1938~2015が描く女性は正面姿はほとんどなく、横からあるいは後ろから描いている、画家は描く視点を慎重に選び、女性の一番美しい姿を発見しようとしているのだ、この絵は大人の女性だが、表情には少女の美しさが感じられる

f:id:charis:20120501141725j:plain

30 島村信之 : まなざし、2014

島村1965~は写実の画家、人物画では肌の表現にこだわりをもち、さまざまな描き方を試みてきた、この絵では絵の具を重ねているのか、「モデルの横画をを描くのが好きで、その向きが深くなればなるほど、表情を想像する余地が生れ、特定の人を対象としたものから離れて行きます」とも述べている

f:id:charis:20210627032736j:plain

 

[演劇] 岡田利規『未練の幽霊と怪物(『挫波』『敦賀』)』

[演劇] 岡田利規『未練の幽霊と怪物(『挫波』『敦賀』)』 KAAT 6月23日

(写真は舞台、現代演劇なのだが、完全に能の形式で行われる)

f:id:charis:20210624102217j:plain

本作は、今までほとんどない新しい試みを岡田が行ったという点で、非常にユニークなものだ。能を現代演劇化したり、現代演劇の中に能の要素をさまざまに取り込んだものは数多くあるが、現代演劇をまるごと能という形式に押し込めるという荒業がこの作品だ。しかも、シテは多くの能がそうであるような、愛を裏切られた女ではなく、廃炉になった高速増殖炉もんじゅ(正確には、核燃料サイクル政策そのもの)、そして、東京オリンピック競技場がボツになったイランの女性建築家ザハ・ハディドがシテなのだ。たしかに広義にとれば、どちらも「愛を裏切られた」存在が亡霊となって現出し、それが成仏できるように鎮魂するという点は、能と同じだが、むしろシテの実体は、高速増殖炉や競技場に夢を託しながらそれを自ら裏切り否定するプロセスそれ自体であるから、政治が擬人化されており、高度に政治的な批評性をもった主題である。このように政治そのものをシテに表現させるというのは、斬新な試みだ。(写真下は↓、「敦賀」のワキである観光客(栗原類)と、前シテである「波打ち際の女」(石橋静河)、彼女は高速増殖炉を「あの子」と呼び、後シテでは「核燃料サイクル政策の亡霊」(戯曲にそうある)となって、コンテンポラリーダンスを踊る)

f:id:charis:20210624102244j:plainf:id:charis:20210624102333j:plain

非常に意欲的で斬新な試みだが、それが十分に成功したかどうかは、私にはよく分からない。チェルフィッチュの『部屋に流れる時間の旅』『スーパープレミアム・・・』などには、深い静かな感動があったが、今回はあまり感動が感じられなかった。おそらくその理由は、シテもワキもアイも謡も、あまりにも言葉が過剰で、説明的に語りすぎるので、そのぶん感情の湧出が弱くなってしまうからではないだろうか。例えば、「あの子(=もんじゅ)くらい報われない、かわいそうな子はいない。はじめは、期待をかけられながら」「見ていた夢は 無限にめぐる サイクル 潰えるこのない力の流れ」(ともに、「波打ち際の女」)、そして謡は「核燃料サイクル 汝はそも 生まれいずることなく それなのに ゾンビとなった 誰にも退治されず 延命装置を外されもせず ずっと ずっと 成仏できない」と謡う。これは主題そのものだが、謡が一気に言葉で語ってしまってよいのだろうか。たしかにギリシア悲劇のコロスも、大状況を解説的に語るが、シテの実体が「核燃料サイクル政策」だとすると、どうしても解説がたくさんないと分らない。そのために、シテもワキもアイも謡も語りが過剰で、感情の表現がそのぶん弱くなったのではないか。(写真下は↓、「挫波」におけるワキ「観光客」(太田信吾)とアイ「近所の人」(片桐はいり))

f:id:charis:20210624102501j:plain

もう一点、これまでのチェルフィッチュの大きな特徴は、小刻みにだらだらと揺れる身体表現にあった。通常の演劇では、身体の動きは当事者の感情や意向と正確に対応するが、岡田劇では、そこに亀裂を入れて、人間の身体の振る舞いは、その人の感情や意向とはつねにズレてしまうことが強調されてきた。そこに岡田劇の面白さがあるのだが、能という形式にすべてを押し込めてしまったときに、そうした身体表現と感情や意向のズレはどうなるのだろうか。プログラムノートに石橋静河が、「身体の動きが感情に対応していなくてよい、と岡田に言われたので安心して踊りを作ることができた」と書いているが、後シテとしての彼女の踊りは、苦悩を表現していることは分かったが、細部はよく分からなかった。(写真下は、「敦賀」のアイの片桐はいり、彼女の間狂言は、身体にわざとらしい動きをさせているという点で、このギャップを表現したのだろうか)

f:id:charis:20210624102530j:plain

 

[演劇] 唐十郎『ベンガルの虎』

[演劇] 唐十郎ベンガルの虎』 新宿梁山泊、花園神社・紫テント 6月21日

(写真は舞台、どちらも主役の「水島カンナ」を演じる水嶋カンナ、水嶋は新宿梁山泊の看板女優だが、その芸名は本作の「水島カンナ」に拠るといわれる)

f:id:charis:20210622084942j:plain

f:id:charis:20210622085008j:plain

唐十郎の弟子で新宿梁山泊を主宰する金守珍の演出。唐十郎状況劇場で初演したのは1973年だから、あさま山荘事件の翌年。『ベンガルの虎』はドタバタ喜劇の歌芝居だが、かなり深い思想性のある作品だ。『ビルマの竪琴』と『村岡伊平治自伝』をもとに物語が作られている。「水島」は『ビルマの竪琴』の「水島上等兵」がモデルであり、物語では、すぐ復員せず、戦地に残った日本人兵士の遺骨を埋葬し一部を日本に送っている。「カンナ」は日本に残してきた水島の妻という設定。ビルマベンガル湾に面しているが、物語はフィリピンとも合体し、女郎屋を経営していた大陸浪人村岡伊平治も登場する(風間杜夫が好演↓)。戦後、現地に残されたのは、日本人兵士の遺体だけではなく、東南アジアに渡った日本人娼婦たちも(いわゆる「らしゃめん」も現地にいる)、故国に帰ろうにも帰れず現地に取り残された。彼女たちの運命がこの劇の主題である。ヒロインの「水島カンナ」は日本に帰り、東京の下町で娼婦をしているが、それは現実なのか虚構の意識なのか分からないというシュールな作りになっている。『ベンガルの虎』は、唐十郎なりの戦争批判、東南アジアにおける日本帝国主義批判が伏線にあり、政治性・思想性をもった作品だ。「象牙」というのは「兵士の人骨」の隠語で、「象牙のハンコ」を作ると称する怪しげなハンコ屋が登場するのも、シュールな物語造形がとてもうまい。

f:id:charis:20210622085049j:plain

唐の『少女仮面』を見たときにも感じたが、この作品でも、場末感あふれるチープで猥雑でグロテスクに生きる人間の中に、高貴な純愛の美が一瞬スーッと立ち昇る。それを見るのは何という喜びだろう! 唐作品の魅力はたぶんそこにある。溢れる熱気、アナーキーなエネルギー、さまざまな秩序がどんどん崩壊してゆくのだが、どんなに崩壊しても、男と女の「愛」という美=調和は、決して消えることなく、人類が存在する限り最後の最後まで残る。それはどんな混沌・混乱の中にあっても存在する一抹の光、希望なのだ。どんなにグロテスクな混沌の中にも、愛=美の生み出す調和は存在する(写真↓)。舞台では、「水島カンナ」を演じる水嶋カンナと、「水島」を演じる宮原奨伍が、とても美しい。奥山ばらばの、髑髏をもつグロテスクな裸踊りも、それが鎮魂の振る舞いとなって、見事な調和の美となった。

f:id:charis:20210622085139j:plain
↓11年前の舞台の10分間の動画が、4分半あたり、海に飛び込んだカンナが(入水?)ブルトーザーのシャベル上で歌う終幕は圧巻です、私はここで涙が溢れました、『ベンガルの虎』はひょっとして唐十郎の最高傑作かもしれません

https://www.youtube.com/watch?v=1sDfzjiRvig

写真下は↓、練習する奥山ばらば、その下、坐っているのは役者たち。

f:id:charis:20210622134622j:plain

f:id:charis:20210622085215j:plain

f:id:charis:20210622085236j:plain

 

[演劇] 野田秀樹『フェイクスピア』

[演劇] 野田秀樹『フェイクスピア』 東京芸術劇場 6月15日

(写真は舞台、左からイタコの白石加代子ハムレットの父[若いけれど]の高橋一生、そしてハムレット[老人だけれど]の橋爪功、この三人が主人公、80歳の白石と橋爪の活躍は凄い!)

f:id:charis:20210522174735j:plain

芸術としての演劇が主題にしうる究極のテーマ「生・死・言葉」に真正面から取り組んだ作品。あらためて野田秀樹は物語を作る天才だと思う。この劇の本当の主人公は死者であり、1985年8月12日、御巣鷹山に墜落した日航ジャンボ機のボイスレコーダーに記録された「声」である。墜落前の数十分、墜落を避けようと必死で格闘するパイロットたちの発話は、淡々としたものであり、「頭を上げろ」「頭を下げろ」(「頭」=機首)、(操縦桿の操作が)「重い、重い・・」「動きません」、「踏ん張ってみろよ」「気合をいれろよ」「・・・これはだめかもわからんね」「ドーンといこうや、がんばれ」など。だがこれは524人の命を預かるパイロットたちの、死に向き合う最後の数十分の言葉であり、およそ人間が語りうる究極の言葉、真実の言葉である。おそらく乗客の多くも、この時何かを心の中で語ったはずであり、手帳など記録が残っているものもある。本作では、この日航ジャンボ機のボイスレコーダから再生される死者たちの声を、恐山のイタコが死者を呼び出して語らせる声(=憑依したイタコが語る)として再生させる。これらの言葉が、劇の冒頭からイタコや呼び出された人物から繰り返し語られるのだが、それはコンテクストが異なるので、観客には滑稽な冗談を言っているようにしか感じられない。劇中で繰り返し言われる「言葉どろぼう」「言葉を盗む」と関係しているのだろう。しかしそれが劇の後半部で、あの日航機のボイスレコーダーの声の忠実な再現だと分かった時の衝撃は計り知れない。「ドーンといこうや、がんばれ」とは、死の一歩手前で人間が人間を励ます言葉、究極の言葉、真理の言葉なのである。物語が日航機のボイスレコーダーへと向かって進むプロセスとして、イタコが呼び出す死者たちの発話があるのだが、たいがいは依頼人の肉親の死者が呼び出される。まだ生きている父リアが呼び出す死んだ娘コーディリア、オセロが呼び出す死んだ妻デズデモーナ、マクベスが呼び出す死んだ妻、ハムレットが呼び出す父王など、話はシェイクスピアに転移し、そしてさらに劇作家シェイクスピア本人と、まだ生きている彼のバカ息子「フェイクスピア」も親子で登場し、さらに「星の王子さま」も登場して、虚構の言葉であるフィクションが産出されるメタシアター的構造が提示される。シェイクスピアとフェイクスピアの両人を野田秀樹が演じるのだから、これは楽しい役だ。(写真↓は、開幕冒頭、恐山で苔色をした「箱」を手にするハムレットの父、しかしボイスレコーダーだと分かるのはずっと後)

f:id:charis:20210616111254j:plain

日航機墜落事件のボイスレコーダと恐山のイタコを結び付けたのは、野田の素晴らしい発想だ。また、「言葉」の究極の本質を、生者と死者が交わるところに求めたのも、たぶん正しい。しかし、すべてを包括するメタ構造として、劇作家シェイクスピアと馬鹿者フェイクスピアを登場させたために、全体がかえって分かりにくくなったのではないか。また、「星の王子さま」は、飛行機事故で亡くなったサン=テグジュペリという創作者が作ったフィクションの人物として、さらに日航機墜落にも繋がるのか。そのメタ構造もやや複雑だ。劇中で何度も出てくる言葉「永遠+36年」(36年=2021年-1985年)が、戯曲では「永遠+66年」になっているのはなぜだろう。上演時に変更されたのだが、最初の野田の頭の中では、時間の構造がちょっと違ったのか。66歳の野田自身の数字だろうか?(写真↓、中央が野田)

f:id:charis:20210522181213j:plain

 

今日の絵(10) 6月前半

 

[今日の絵] 6月前半

1 Hals : Two Boys Singing, 1625

「子ども」は絵画の重要な主題、大人とはまた違う存在感がある、今日からは子どもの絵を少し、フランス・ハルスの絵は表情がとても生き生きしている、これは兄弟だろう、伴奏を付けて一緒に歌う前に、歌を兄が弟に教えている、「ちょっと待って、そこは・・」と

f:id:charis:20210615082835j:plain

2 Vasily Perov : Troika. Apprentice Workmen Carrying Water, 1866

子どもがみな学校で学ぶのは20世紀になってからで、19世紀の絵には働く子どもの姿が多い、ヴァシリー・ペロフ1834~82はロシアの画家、村人たちの生活を描き、働く子どもたちもたくさん描いた、この絵のタイトルは「三頭だてのソリ、水を運ぶ見習い中の労働者たち」

f:id:charis:20210615082919j:plain

3 Degas : The Ballet Class, 1874

ドガは踊り子をたくさん描いたが、これはバレエを習う少女たち、老先生が棒を持って怖い顔で指示している、仲間のレッスンを観ている少女たちは、お行儀が悪いようだ、まだ注意を集中できない年頃か

f:id:charis:20210615082946j:plain

4 Victor Vasnetsov : At a Bookseller, 1876

ヴィクトル・ヴァスネツォフ1848~1926はロシアの画家、神話、宗教、歴史を画材の絵を多く描いた、この絵はタイトルは一応「本屋」だが、新聞やプロマイドや文具、雑貨などを売る村の小さな店か、子どもは大人とは関心が違うので見ているものが違う、もちろん見るだけで買わない

f:id:charis:20210615083010j:plain

5 Nikolay Bogdanov-Belsky : Virtuoso, 1891

ボグダノフ=ベリスキー1868~1945はロシア出身の画家、農村で生きる人々をたくさん描いた、この絵は「ヴィルトーゾ=名人」というタイトルがいい、ちょっと楽器が弾ける男の子が「演奏」して見せているが、子どもたちがみな彼を「名人」と認めているわけでもないようだ

f:id:charis:20210615083039j:plain

6 Tetyana Yablonska : In the Forest Glade, 1959

昨日の絵もそうだが、ロシアの絵では、森の中で遊ぶ子どもがよく描かれ、子どもの服の色が森に映えている、タチアナ・ヤブロンスカヤ1917~2005はウクライナの画家、この「森の空き地」は明るく光に溢れている、子どもたちは草むらに何か発見したようだ

f:id:charis:20210615083102j:plain

7 Otto Mueller : Drei Mädchen Im Profil, 1918

「三人の少女」だが、ハイティーンだろう、ちょっと不良っぽい中に、あどけなさもあり、少女に固有の“野生のエネルギー”がよく表現されている、日本でも一時期コギャルがもてはやされたが、どこか似ている、オットー・ミュラー1874~1930はドイツ表現主義の画家

f:id:charis:20210615083141j:plain

 8 Pissarro : Bathing Goose Maidens, 1903

「ガチョウ飼いの少女の水浴び」というタイトルだが、二人の少女はあくまで仕事としてガチョウの群れの番をしている、そして自分たちもついでに水浴びをしている、フランスの画家カミーユピサロ1830~1903は、街や郊外をたくさん描いた

f:id:charis:20210615083311j:plain

9 Elin Danielson=Gambodi : title unknown

エリン・ダニエルソン=ガンボージ1861~1919はフィンランド出身の女性画家、写実主義のスタイルで、家族や子供、友人たちの生活を描いた、夫はイタリア人画家なので、この絵は夫婦が活動したイタリアのアンティニャーノで描かれたのかもしれない、木漏れ日の光が明るい

f:id:charis:20210615083334j:plain

10 Joaquin Sorolla : Running along the beach, 1908

ホアキン・ソローリャ1863~1923はスペインの画家、一緒に遊んでいる子どもたちの絵がたくさんある、スペインの海岸の明るい海と太陽光のもとで、子どもたちはいつも走ったり泳いだりしており、とても活動的だ

f:id:charis:20210615083402j:plain

11 Cezanne : Self-Portrait, 1895

自画像は顔や体をアップで描くので、絵全体の空間を分割する構図の微妙な作りが必要だ、色の差異だけでなく、顔の向きや視線の力が重要で、セザンヌの自画像の多くは頭を左に回し、背景はみな異なり、表情も微妙に違う、彼は数多の人物を描いたが自画像は特にいい

f:id:charis:20210615083432j:plain

12 Matisse : Self-Portrait in Shirtsleeves, 1900

アンリ・マティス1869~1954はフランスの画家、ピカソデュシャンとともに20世紀絵画に大きな影響を与えた人、大胆な色彩を用いる「野獣派」と呼ばれたが、画風は生涯でかなり変わる、この「ワイシャツ姿の自画像」は初期の作品だが、「野獣派」と言われればそんな気もする

f:id:charis:20210615083510j:plain

13 Gabriele Münter : Self-Portrait,1908

ガブリエレ・ミュンター1877~1962はドイツで活躍した表現主義の女性画家、ヴァシリー・カンディンスキーのパートナーでもあった、この絵は、原色に近い明るい色彩を使うようになる以前のもの、少ない筆致ながら人物の内面まで深く捉えられている

f:id:charis:20210615083552j:plain

14 Serevriakova : 髪をすく自画像、1909

セレブリャコワ1884~1967はロシア出身で1924年にパリに移住、この自画像は結婚の一年前、彼女の自画像の多くは何かをしている、彼女は今、いつもは絵筆を握るそのたくましい腕で、髪と櫛をぎゅっと握りしめ、髪を梳かしている、自由でのびのびとして、とても美しい

f:id:charis:20210615083636j:plain
15関根正二 : 自画像、1918

関根正二1899~1919は二十歳で夭折。この自画像は19歳、そもそも芸術としての自画像の使命は、「今、ここ」に、このように存在する人間の現存在を、肯定し、祝福しつつ、未来の時間のために再現することにある。その意味で、これは自画像のこのうえない傑作だ、後にいるように見えるのはたぶん彼女、とすればこの自画像は、この世との別れ、彼女との別れの挨拶でもあるのか

f:id:charis:20210615083719j:plain
16 Modigliani : Self-Portrait, 1919

モディリアーニ1884~1920、35歳の自画像だが、当時の写真ではもっとやつれて見えるそうだ、すでに健康を害していたのかもしれない、この絵を自己を理想化して描いたものという見方もあるが、表情にはどこか諦観のようなものが感じられる

f:id:charis:20210615083807j:plain
17 Rene Magritte : The magician (Self-portrait with four arms), 1952

マグリット1889~1967はベルギー出身のシュールリアリズムの画家、「魔術師(四本の手をもつ自画像)」というタイトルは、本人のものかどうかは分からないが、彼は自分の絵に不思議な題名を付ける人でもあった、「絵は目に見える思考である」とも言っている

f:id:charis:20210615083840j:plain